第三章 準危険区域
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危険区域 9.45pm
危険区域に振り掛かる夜の闇は深い。都市としての機能を失い、日常で鳴り響く生活音の大半は銃声と砲撃音、どこからか飛来したRPGの弾頭が炸裂する非日常の生活音に置き換わっている。
安全な街での部屋の明かりは市民の生活の営みを示しているが、危険区域では浮浪者や暴漢などの不成者達の格好の的だ。そういう隙を少しでも見せてしまったら最後、相手が抱く欲望の餌食となる。
なので、危険区域の中でもレジスタンスと国家警備局の戦闘が酷い交戦地帯では、都市に明かりが灯ることはない。避難をする事も出来ずに危険な土地に見捨てられた者達は、死の恐怖に抵抗しながら静かに暮らしているのだ。
そんな都市の某所に建てられている中学校。現在は学生の代わりに過激派が占拠しており、複数あるキャンプの内の一つとして運用されている。周辺にはビルやアパートもあるが、それら全ては前の住人を強制的に追い出し、完全にレジスタンス過激派が制圧していた。
中学校に続く道路に横付けされた大型トラックや土嚢、簡易的な監視所を見れば、そこに近づいてはいけない事は一目見れば分かるだろう。
諏訪匡臣を襲撃した部隊の僅かな生き残りはそこに帰還しており、αもまた中学校内の一室で一人簡易ベッドの上で目を覚ましていた。一時的に生活している部屋は質素で、武器の入ったバッグや装備品類しか置かれてはいない。
αは起き上がると自身が患者衣を着用している事に気付き、同時に頭部に少し痛みを感じたので顔を顰めた。額に手を当て呻いていると、部屋の扉が開く音が聞こえてきた。
「あぁ、良かった。目が覚めましたか」
αは部屋の入り口に顔を向けると、片手で小さな桶を持った少年兵のβが扉を開けて立っていた。いつも通りの貼り付けた様な笑みを浮かべ、ドアを閉めるとαの横に置かれた椅子に腰を下ろした。
αは彼が持っている水の張った小さな桶を一瞥してから相手の顔を見つめた。
「私は、どれくらい眠っていた」
「二日ですよ」
「χとψは? 二人はどうなった」
αはψに解体作業現場で回収された後に意識を失っており、それから先の記憶が無い。最後に辛うじて覚えていたのはψが放つAKの爆音のみだ。
状態の不明な仲間の事を聞かれたβは笑みを浮かべながら、桶に入れてある小さなタオルを掴んで絞り始めた。
「怪我の程度は違いますが、二人とも命に別状はありません。ψは軽傷だったので、既に戦場へ復帰していますよ。χは重症なので未だ治療中です」
「そうか」
αは小さく頷いていると、絞り終えたタオルが差し出されてきた。それを受け取ったαが顔を拭いていると、βは溜息を吐いながら虚空を睨んだ。
「φとωの件ですが……二人とも優秀な隊員だったのに残念です。貴重な人的資源が奪われるのは、やはり堪えてしまいますね」
「そうだな」
αは顔を拭きながら、φの頭を掴んでコンクリートの壁に一心不乱に打ち付けていた諏訪の姿が脳裏にフラッシュバックした。
深い裂創やその他外傷を高速で治癒して血塗れで迫ってきた時の恐怖と、正体不明の人物の魂を宿した時の威圧感と圧倒的な力。αの脳裏に刻まれたのは畏怖と、ほんの僅かなトラウマだった。諏訪が自我を取り戻さず、あのまま一方的に攻撃を受けて続けていたら確実に死亡していただろう。
再びIbisを打ち込んで戦闘が起きると想定した場合、αは今後自分が生き残れるかどうかを考えて急激な不安に駆られた。
その様な心境の中、顔を拭き終わったタオルを畳んでいたαは、βがじっと自身を見つめていることに気付いた。部下の行動を見て怪訝な顔をしたαは首を傾げながら尋ねた。
「どうした?」
「諏訪匡臣の事が気掛かりですか? さっきから何か考えているみたいですし」
「別にあの人の事を考えては……」
「そんな顔してたら、誰でも気づきますよ」
「そうか?」
「ええ、あなたには癖がありますから」
βはそう言うと右手を持ち上げて初めに自分の目元を指し、その次に顔を人差し指で示した。
「あなたは考えている時、目元を細めて眉を顰める癖があります。因みにさっきも癖が表情に出ていましたから、バレたくなかったらポーカーフェイスは鍛えた方がいいですよ」
ニヤニヤと笑みを浮かべて語るβを見て、αは溜息を吐いて顔を伏せた。この癖は以前も指摘された事があり、中々治らない事にαは半ば諦めを感じ始めていたところであった。
「まぁ、その癖は追々治すとする」
「それで、諏訪匡臣の何を考えてたんですか?」
αは副官から目線を外しながら言うと、βは尚も興味津々な様子で聞き出そうと、身を乗り出してきた。しかし、αは応答する代わりに右手を上げ、強力なデコピンをβに喰らわせた。
威力が強すぎたか、βは一瞬仰反ると額を押さえて悶絶し始めた。そんな事はお構い無しに部下に瞳を向けていたαは口を開いた。
「女性に秘密は付き物だ。何を考えているかは、自分自身で予想でも立てていろ。それと、お前はもう少し女性との接し方を弁えておけ」
αがため息を吐いてから注意するとβは少し残念そうにしていたが、一区切り付ける様なため息を吐くと桶を掴んで立ち上がった。
「残念ですけど仕方ないですね。じゃあ、俺はこれで失礼します。お大事にしてくださ──あっ、そうだそうだ忘れてた」
βは思い出したように腰に装着していた黒色のウェストポーチを開き、中から8cmほどの銀色の円筒を取り出した。それをβは改めると差し出した。
「意識不明だったので、定期摂取が出来ていなかったですよね。渡しておきます」
「ああ、ありがとう」
αはそれを受け取ると、βは今度こそ部屋を出ていった。副官の後ろ姿を見送り、部屋で一人となったαは低い声色で小さく唸ると天井を見上げた。
なんの変哲もない白い天井を数秒ほど見つめ、再び顔を下して右手に握っていた円筒を見つめた。
「死にたくなければ、死ぬ気で挑め……か」
αは誰かの言葉を反復する様に呟き、円筒に備え付いた小さなボタンを押して針を露出させると、それを自分の左腕の血管へと差し込んだ。
◆◆◆◆◆
翌日 安全区域 5.30am
港区で起きた襲撃事件から三日が経過したある日の早朝。まだ日が昇りきっていない冬島邸の内部は薄暗く、護衛員は皆寝静まっているので生活音などは一切聞こえてこない。
そんな家の中で冬島紗耶の部屋からだけは、ドアの下から灯りが漏れ出していた。自身が使用する銃を分解して点検を行なっており、既に就寝時に着用しているネグリジュから私服に着替えていた。
紗耶は点検を終えた銃のパーツであるバレルを覗き込み、目の前に置かれた木製テーブルの上に置くと、一呼吸間を取ってから慣れた手つきで銃を組み立て始めた。
無駄のない動きで素早く作業を進め、スライドを戻してからスライドストップを嵌め込む。そうしてスライドを引き、両手で構えてドライファイアを行なってから銃をテーブルに置いた。
それと同時に机に置かれていたスマートフォンに着信が入り、掛けてきた相手の名前が表示されてバイブレーション機能により震え始めた。紗耶はスマホに目を向けて名前を確認すると、手に取って通話ボタンを押した。
「もしもし」
『嬢ちゃん、朝早くにすまない』
電話口に出たのは男性の低い声色だった。紗耶はこの男がどの様な人物なのか、自分でもよく分かっている為、冷静に組み立てた銃を片手で眺めながら通話を続けた。
「大丈夫だけど、こんな時間にどうしたの?」
『三日前に電話掛けてきただろ? 例の──商人についての件で何か情報を仕入れてないかって』
「ええ、そうだったわね」
『その情報なんだが、入手に成功した』
それを聞いて紗耶は驚きで僅かに目を細めた。こんなにも早く展開が訪れるとは思わず、何よりタイミング的に丁度良かったので、紗耶は驚きながらも疑うことに関しては決して忘れなかった。
「それ偽情報じゃないの?」
『もちろん確認済みだ、偽情報じゃない』
「誰からの情報なの?」
『情報提供者は過激派から脱走した幹部クラスの民兵で、Ibisの取引にも関わっていた様だ。俺の伝手に過激派へ潜入している奴がいて、そいつのキャンプから脱走してきたようだ。送信されてきた名前と顔も一致している。それと、商人らしき奴も写っている写真も入手した』
「えっ、写真もあるの?」
『脱走者が証拠として出してきたんだ。くっきりと商人らしき人物が写ってるぞ。確認しに来るか?』
「ええ、確認したい。明後日で大丈夫?』
『問題ない』
紗耶は頭の片隅に疑いを残しながらも、知らず知らずのうちに内心興奮していた。なんとしてでも商人の姿を確認したいが、電話口の向こうにいる男は準危険区域に拠点を建てている。おいそれと行ける場所ではない。
国が警戒する区域に行く場合、国家警備局の管理する侵入管理ゲートを通過する必要があり、勿論申請を出さないといけない。だが厳しい審査と手続きに一週間は余裕で掛かり、仮に許可が出たとしても民間人だけでは監視・警護要員が張り付いてくる。
紗耶の様に一般人とは例外な部類に入る人間と特殊な目的を持つ身としては、正規の手続きで行く事はできない。正規の手続きで行くことのできる人間はNGO団体が殆どで、興味がある程度で入れる場所ではない。
そういうことなので、紗耶はその男に情報を貰いに行くために正規の道とは違う方法で、いつも準危険区域に入っている。
『そういう事なら、指定時刻に案内人二名をいつもの地点に向かわせる。人数は六人でいいか?』
「いや、護衛が一人新任したから人数は七人よ」
『合流時間は昼の十二時だ。集合時刻に遅れる様なら我々は先に現場を離れる』
「ええ、分かってるわ。それじゃあ」
紗耶はボタンを押して通話を終え、先ほどの短い内容のメモを取り、眉を顰めて額に手を当てた。
「……タイミングが気になるよなぁ」
紗耶はそうそう呟き、少しばかり引っ掛かる事について考え始めた。考えを巡らせていると、部屋の外から続々と護衛員の声が聞こえてきた。
紗耶は時計に目をやると、いつの間にか五十分を過ぎており午前六時を回ろうとしている。一旦考えるのをやめた紗耶は、テーブルに置いた銃を掴み上げ、ガンロッカーのダイヤルを解除した。
そうしてロッカーを開き、1911を所定の位置に戻すと一人の足跡が部屋の前で止まり、三回ノックされると声が聞こえてきた。
「お嬢様、起きてますか?」
「ええ、起きてるわ」
紗耶はガンロッカーを閉じると、声の主であった奏が紺色無地のシンプルな部屋着を着て、扉から顔を覗かせて紗耶に目線を向けてきた。
「朝ごはん作りますが、何かリクエストは?」
「私はなんでもいいわよ」
「……いや、それだと困ります」
「じゃあ、材料を見て決めましょうか」
紗耶はそう言うと、ガンロッカーを一瞥してから扉の方に向けて歩き始めた。
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