[13]

 冬島護衛班に着任した翌日、諏訪は紺色無印の部屋着に黒いズボン姿で紗耶の部屋にいた。朝食の途中、紗耶に自分の部屋へ来て欲しいとお願いされたからである。そのため紗耶の部屋に来てみたが、諏訪の視線は目の前に座る少女を見つめていた。彼を呼び出した本人──紗耶が、窓辺に置かれたロッキングチェアに座り、寝息も立てず、静かに眼を閉じていたからだ。

 まさか呼び出しておいて寝ているとは思わなかった諏訪は愕然としていたが、紗耶のそばに近づくと肩を掴み、ゆっくりと前後に揺らした。


「おい、起きろって……ダメか」


 何度揺らしても起きないし、頬に軽い平手打ちを食らわしても起きない。お手上げである。


「あんた何してんの?」


 振り向くと、そこには灰色のパーカーに黒いズボンを履いた奏が怪訝そうな表情で立っていた。諏訪はこれまでの経緯を説明すると、奏は数秒何かを思案し、思い付いたようにリビングの方へと消えていった。それから丁度一分が経ち、奏はワサビとカラシのチューブを両手に握り帰ってきた。なので、諏訪は反射的に彼女の肩を掴んでいた。


「奏、エンターテインメントは求めてないぞ」

「別にエンタメをしに来た訳じゃないよ、これがお嬢様を起こす為に一番の効果的な方法だから、この二つを持ってきただけだよ」

「確かに万人には効果的だが、それは──」


 奏は諏訪の手を振り払うと紗耶の前に立ち、両手に持っていたチューブの蓋を外した。直後、紗耶の柔らかな唇を奏の細い指がこじ開けると、二つのチューブを一気に突っ込んだ。

 諏訪はその光景に非常に驚愕したと同時に、結構な辛さがある物を同時に突っ込まれた紗耶に対して目も当てられなかった。


「んっ……んぐぅっ……辛ぃ…ぅぇ……」


 紗耶はゆっくりと両の瞼を開けると、自分の口に辛さ増し増しのチューブ2本が突っ込まれているのに気づいた。しかし、紗耶は何食わぬ顔で奏の手からチューブを引き離してから、まるで歯磨きを終えてブラシを口から抜く様にチューブを引き抜いた。

 更に彼女は辛さに嗚咽したり、咳き込む様子が見られない。諏訪は唖然とした顔で紗耶を見つめていると、寝起きで目を擦りながらあくびを放つ紗耶に代わって奏が説明した。


「お嬢様は深く眠ると揺すっても、頬を結構強く叩いても、動画サイトから拾ってきた大音量の銃声を流しても起きない。だけど何故かカラシとワサビのチューブを口に突っ込むと、絶対に起きるんだよ」

「流石に異物が混入すれば起きるよ」


 紗耶はそう言って小さく苦笑いを浮かべた。因みに、紗耶はハバネロを五つ入れたカレーを食べても中辛程度な感覚で済むため、これくらいは生クリームと同等なのだそうだ。紗耶は短く咳き込むと、体を伸ばしてから諏訪の方へ視線を向けた。


「じゃあ、お話しを始めようか。そこの椅子に座ってね。奏はこれを冷蔵庫に返してきなさいね」


 奏は紗耶から渡された二つのチューブを持ち、部屋を出て行った。その後ろ姿を見届けた二人は、中央にあるソファに向かい合って座った。


「諏訪君は護衛員について知ってる?」


 前置き無しで唐突にそう聞かれた諏訪は驚きはしなかったが、少し呆然として、数秒遅れてから首を横に振った。


「いや、階級制度がある事以外は知らないな」


 護衛員という職に就く事を知らされたのは、収容施設から拘束を解かれて冬島邸へ向かう道中だ。紗耶から「これから護衛員だから、よろしく!」というノリで第二の人生が決まったため、階級制度がある事以外では諏訪に基礎知識は何にも無い。


「護衛員は護衛協会に属する構成員で、普段は民間人に偽装してるけど、危険の伴う仕事だから国から非公式に銃器携行が許可されているんだよ」


 紗耶曰く、護衛員は普段は拳銃しか所持はできないとされているが、協会の特殊技能資格を取得できれば、拳銃の他に5.56mm弾や7.62mm弾を使用するライフル銃やSBRの所持も認められるという。


「あと三ヶ月に一度協会からお給料が出るよ」

「まだ未成年者もいるのに、給料が出るのか?」

「それだけ危険な仕事だからね。護衛員は皆、訓練課程で銃器保有者に対する訓練は受けているけど全滅、半壊滅状態になる事はあるから、給料くらいはしっかり貰わないと続けられないと思うよ」


 紗耶曰く、護衛対象はレジスタンス過激派や反体制派にすれば格好の標的であるという。過去に冬島家も参加する評議会という組織に所属していた家系の子女が誘拐され、身代金を奪われた後に殺害されるという最悪の事件が発生している。

 そのため子息子女と同年代の護衛員を最低五名は傍に配置する事が、評議会に参加する家系には義務付けられているのだ。法的執行機関のみが保有を許可されるSBRが民間で保有できるのも、過去の襲撃で高性能ライフルを使用する者が出現し、拳銃のみを装備していた護衛班が壊滅の危機に陥ったのが理由である。諏訪は紗耶の話を聞き、自身がいかに危険な組織へと放り出されたのかを実感した。紗耶は語り終えると、一息ついて体を伸ばした。


「護衛員に対しての知識は、最低限これくらい有れば問題ないと思う。あとは実戦あるのみだね」

「了解……それで、話しはこれで終わりか?」

「えっ、いまのは前置きだよ。本題はここから」


 諏訪の問いに紗耶はキョトンとした顔でそう返すと、またもいきなり話題を変えて話し始めた。


「君には今日の内に護衛協会本部に行き、護衛員登録と君自身の装備品類を受け取って来てほしい。正式登録されてない護衛員は原則として、許可なく活動することは許されないからね」

「承知したが、自分は護衛協会本部の所在地は知らない。君が案内してくれるのか?」


 すると、それを聞いた紗耶は微笑を浮かべて手を顔の前に掲げると左右にひらひらと振った。


「私は今日用事があるから無理。枇代と董哉を同行させる予定だけど、分からないことが有れば、その子達に聞いてね。二人とも良い子だから」

「二人には、もうこの事は言ってあるのか?」


 その問いかけに紗耶は笑みを浮かべて親指を立てて「バッチリだよ」と返答してきた。諏訪はその返答を見て小さく頷いた。その時、ずっと気になっていた疑問が頭の中に唐突に湧き上がった。二人で話せる折角の機会と考えると紗耶に問いかけた。


「紗耶、聞きたいことがある」

「なに?」


 諏訪の問いかけに、紗耶は相変わらず微笑を顔に貼り付けていた。

 

「ずっと気になっていたんだが、なぜ自分を護衛に受け入れようと思ったんだ? 記憶を失っているとはいえ自分は敵対する組織にいた身分だ。引き入れて危険が増すリスクを背負っている筈なのに、何か目的でもあるのか?」


 諏訪の問いかけに紗耶の笑みが一瞬揺らいだ。

 その僅かな表情の変化に気づいたが、あえて指摘する気はなかった。彼女の返答が、純粋に気になったからである。

 紗耶は数秒間、息も漏れぬほど押し黙っていた。

 浮かんでいた微笑が徐々に薄れていたと思っていたら瞬時に笑みが回復し、落とした目線が再び上がると諏訪の顔をじっと見つめてきた。


「まだ諏訪君が知らなくてもいい事だよ。然るべき時が来たら教えてあげる。それまで待っててね」

「……ああ、分かった」


 諏訪は紗耶の答えに満足はしていない。だが、深く追求しようという考えは、この時ばかりは浮かばなかった。紗耶はそれ以上何かを喋ると言うこともなく、そのまま部屋を出て行った。

 諏訪はその後ろ姿を見つめてから、深く息を吐いた。両手で顔を覆い、ソファに身を預ける。何故かこの時、謎の疲労感に襲われたが、その原因がなんなのか、この時ばかりは考えたく無かった。

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