(あるのはただ、凡庸といっていいくらいの理解だけだった)

 ぼくが手をこまねいているあいだにも、時間はどんどん過ぎていった。

 ノートの記述は徐々に増えはじめている。やがて計画の立案段階に入れば、それがいつ実行されてもおかしくはなかった。

 ――もう、一刻の猶予も残っていない。

 ぼくは最後の手段を実行することにした。彼女にすべてを話すのだ。そうしてできれば、引っ越すとか、厳重な防犯対策をとるとかして、身を守ってもらう。考えられる中では今のところ、それが一番現実的な方法だった。

 梅雨に入って、昨日と同じように雨が降っている日のこと。

 ぼくは適当にタイミングを見計らって、彼女に話しかけた。いつも一人ぼっちでいる彼女と二人きりで話すのは、それほど難しいことじゃない。手紙みたいな方法を使わなかったのは、何らかの証拠として残ってしまう恐れがあったからだ。

 昼休み、誰もいない廊下のすみっこで、ぼくは彼女に大事な用事がある、と伝えた。だから今日、誰にも見られないようにしてある場所まで来て欲しい。君の命に関わることなんだ、と――さすがにこんなところで、お父さんのことをすべて話してしまうわけにはいかない。

 彼女ははじめ、何のことだかさっぱりわからないみたいだった。無理もないだろう。いきなり命がどうとか言われて、まともに対応なんてできるはずがない。そんなのは、家のクローゼットに地球外生命体がいるから故郷に帰してやろう、というのと同じくらいに無茶だった。

 でも、ぼくはあくまで真剣だった。真剣になるだけの必要があった。ぼくは諦めずに説得にあたった。脅したりすかしたり、宥めたり怒ったり、焦ったり苛立ったり、哀願したり強弁したり――

 そんなふうにしていると、彼女のほうでも納得したか、根負けしたようだった。

「よくわからないけど、わかった」

 と、彼女は承諾する。

「学校が終わってから、誰にも見られないようにしてその場所まで行けばいいんだよね?」

「――うん」

 ぼくはほっとため息をついて、精一杯真剣な顔でうなずく。

 約束が成立してから、ぼくはかなりの上の空だった。彼女を説得するために、できるだけのことを考えておく必要があった。どんなふうに、どこまでしゃべればいいだろう。いっそ、例のノートを持ちだして見せてしまおうか。でも、それで信じたりするだろうか――

 時間はあっというまに過ぎていった。

 放課後になっていったん家に帰ると、ぼくは傘だけ持って約束の場所に向かった。今頃は彼女も、同じようにその場所に向かっているはずだった。距離の関係から、ぼくのほうが先に着くはずだ。

 空からは梅雨らしい、長くて重いため息みたいな雨が降っていた。道路の上にはミニチュアの川が流れていて、ぼくは長靴でその川に足をつっこむ。流れはぼくの足を押して、どこかへ運ぼうとしていた。

 やがて、山の斜面のそばまでやって来る。神社の裏をちょっとまわったそこには、上のほうに続く山道がつけられていた。土の斜面は濡れてぬかるんでいたけど、滑ったり転んだりしてしまうほどじゃない。普段から人なんてほとんど来ないところだけど、雨の降っている今はなおさらだった。

 細い山道を、ぼくは登っていく。木立のあいだから見えていた街の風景は、少しすると完全に消えてしまった。雑然と生いしげる木々だけが、あたりには広がっている。雨の音が少しだけ遠かった。

 しばらくすると、少し開けた場所に出る。休憩地点みたいなところで、木のベンチが二つ置かれていた。見上げると、空にはぽっかりと穴があいていて、そこからまっすぐに雨が落ちてきている。

 ――それから、どれくらい時間がたったかはわからない。

 気がつくと、そこには彼女が立っていた。赤い傘と、赤い長靴をはいている。ぼくと同じように、家に戻ってから荷物だけ置いてきたのだろう。学校の時と同じ格好をしていた。

 彼女が来ることは、ぼくにはわかっていた。考えると少し変だけど、そのことを疑っていなかった。来なければ、一日でも二日でも待つつもりだった。

「話って、何?」――と、彼女が訊く。

 でも、ぼくは頭を振った。ここではまだ、その話をするつもりはなかった。そのためには、もう少しだけ移動しなくてはならない。ぼくがそう言うと、彼女は軽く肩をすくめてみせた。でもここまで来た以上、仕方ないと思っているみたいでもあった。

 空き地から道をそれて森の中へ歩きはじめると、彼女は何も言わずにあとをついてきた。森の中は傘を差したままだと歩きにくかったけど、無理というほどじゃない。葉っぱから水が跳ねて多少濡れてしまったって、それで死んでしまうというわけじゃない。

 その場所までは行ったこともあったし、それほど距離があるわけでもないので、特に問題はなかった。ぼくは藪を余計にかきわけて、彼女が通りやすいようにした。彼女はわりと無関心そうな様子で、大人しくついてきている。

 やがてぼくたちは、その場所にたどりついた。


 ――そこには、穴がある。


 一見すると、それは井戸に似ていた。円形になった石の枠で囲まれて、その下には深い空白が続いている。穴には暗闇がいっぱいになって、縁のぎりぎりのところまで詰め込まれていた。その暗闇は変に平板で、厚みのない蓋がかぶせられているように見える。

 それは、ぼくが夢で見たのと同じものだった。

 いや――

 それと同じものを、ぼくは夢で見たのだ。

「話があるっていうのは、この井戸みたいなのと関係があるの?」

 彼女はぼくの隣で、その穴のほうを見ながら言った。ぼくはうなずいて、まずは単刀直入に告げる。

「……ぼくのお父さんは、人殺しなんだ」

 それに対して、彼女はどう反応していいのかわからないような顔でぼくのことを見た。まるで、ぼくが急に知らない国の人間か何かにでもなったみたいに。

 予想していたとおりなのだけど、ぼくは順を追って説明した。偶然、ノートを見つけたこと。ノートの中では六人の人間が殺されていたこと。その六人は現在も行方不明なこと。ノートには新しく、彼女の名前が書かれていたこと――

 そして、穴のこと――

「この穴の底には、殺された人たちがいるんだ」

 ぼくがそう言うと、彼女はあらためて穴のほうを見た。それからぼくのほうを見て、また穴のほうを見る。

「信じられないよ、そんなの」

 と、彼女はちょっと困ったように言った。

 彼女の話によれば、彼女はぼくのお父さんに会ったことがあった。その時の様子からしても、とてもそんなふうには思えない、と彼女は言う。それはぼくにもわかる気がした。あの人くらい、殺人者のイメージから遠い人はいない。

 でも、すべては事実だった。

 ぼくはそれ以上、どう説明していいかわからなかった。お父さんが殺人者であることを証明する方法はない。彼女のお父さんに対する印象は正しかった。お父さんには異常なところも、それらしい動機もなかった。少なくとも、人がその話を聞いて納得できるほどには。

 言葉もなくぼくが口を噤んでいると、彼女は一人で穴のほうに歩いていった。そして傘を傾けて、底の見えない暗闇の中をのぞき込む。

 そこに死体があるのは、間違いないはずだった。少なくともお父さんのノートにはそう書かれていたし、それは確実だろう。

 とはいえ、それを確認することはできていない。穴はあまりに深かったし、光は底まで届かなかった。ロープを使って潜るのも危険だし、石を投げ込んだって何の反応も返ってこない。死体が存在する兆候は一切、発見できていなかった。

 そもそも、この穴が一体何なのかがわからないのだ。井戸にしては深すぎるし、こんな山の中にあるのも変だ。鉱脈か何かを探るための、一種の試掘抗かとも思ったけど、やっぱり妙なことに変わりはない。いつ頃からその穴があるのかもわからなかった。自然にできたというなら、こんな石の枠があるのもおかしい。

 何もかも、わからないことだらけだった。

 どうして、お父さんは人殺しなんてするのだろう。どうして、殺した相手をこんな穴の中に捨てるのだろう。この穴は一体、何のために、いつからあるのだろう。お父さんはいつから、この穴のことを知っていたのだろう。この穴の底には、一体何があるのだろう――

 ぼくはいろんなことがわからないまま、ただその場に立ちつくしていた。

 正体不明のその深い穴を、彼女はさっきからのぞき込んでいる。

 このままだと、彼女は死ぬだろう。お父さんに殺されてしまうだろう。彼女が信じていようと、いまいと、それは変わらない。すべての人間がいつか死ぬのと同じくらい、それは確かなことだった。

 森の中は静かで、空からは雨が降っていた。ぼくの頭の中で、何かがゆっくり理解されはじめていた。解けなかった算数の問題の、答えを出すみたいに。それは気づきさえすれば、ごく当然で、ほかの答えなんて考えられない種類の問題だった。

 そして――

 そして――

 ぼくは不意に、理解してしまっていた。お父さんがどうして、引きだしの暗証番号にあんな数字を使ったのか。どうしてわざわざ、をそれに使ったのか。

 すべてを、ぼくは理解していた――理解できてしまっていた。

 ――それはとりもなおさず、ぼく自身のことを理解することでもあった。

 だからぼくは、それをした。

 そこに、ためらいはなかった。焦りも、恐怖も、戸惑いも、疑念も、興奮も、諦めも、退屈も――何も、ない。

 あるのはただ、凡庸といっていいくらいの理解だけだった。

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