1-02 ねえ、勝負しない?

「やっぱり、ジャコウアゲハだ。クロアゲハよりも長い尾状突起びじょうとっき、それに腹部の赤い斑紋はんもんはねの色が薄いから、メスみたいだね。卵を産むために食草しょくそうのウマノスズクサを探していたのかな」


 ジャコウアゲハはくるくると彼の周りを回ると、どこかへ飛んで行ってしまった。

 彼はチョウの行方をずっと見つめている。あたしは彼を見つめていた。

 控えめな細い黒縁の眼鏡。でもそれは光の屈折によって青緑色に光り、まるでミヤマカラスアゲハのはねのよう。短い黒髪が風になびく。白いポロシャツの上に紺色のベストを着て、学校の先生みたいな格好をしている。聡明に見えて、けどすごくやさしそうで……。

 やだ、あたし、なんで温度上昇なんかしているんだろう。


「君のこと、ずっと見ていたよ」

「えっ?」


 気づくと彼はあたしを見つめていた。垂れ目がちな黒い瞳に、ほんのりと赤いあたしの顔が映る。


「僕は風切かざきりタテハ。君の名前は?」


 タテハと名乗ったその人は、にっこりと笑顔を向けた。

 あたしはどぎまぎしながら言葉を返す。


「ア、アゲハ。火津鳥ひつとりアゲハ、です」

「アゲハ君か、素敵な名前だね」


 社交辞令のようなありふれた返事だけど、その言葉を聞いた瞬間、勝手に胸が小躍りする。


「いい虫採り網だね」


 タテハさんはあたしの持っている虫採り網を見て言った。

 虫を傷つけない柔らかな絹の網が、風でふわふわと揺れる。柄はシンプルな竹で、あたしの手になじんでいた。


「これは、お父さんがあたしにくれた大切な物なんです」

「そうなんだ。昆虫、好きなの?」

「はい、大好きです!」

「一年生?」

「はい」

「部活はどこか入った?」

「えっ、い、いえ。帰宅部ですけど……」

「そう」


 矢継ぎ早に質問をして、最後にタテハさんはほっとした表情を見せた。

 どうしてそんなことを訊くんだろう。というか、そんなことを訊くタテハさんもここの学生で虫好きなのかな。今度はあたしが質問する番でしょ。


「あの、タテハさんは、」

「ねえ、勝負しない?」

「へっ!?」


 タテハさん、あたしの話を無視しないでください。そうツッコミたくなるくらい、急に話を遮断された。

 タテハさんはそのまま話を続ける。


「実は僕も昆虫に興味があってね。アゲハ君の実力、見せてほしいな。もし僕に勝てたら、いいこと、教えてあげるから」

「負けたら、どうなるんです?」

「僕の言うことを聞いてもらうよ」


 その言葉が今までよりも一トーン低く聞こえて、ちょっぴり焦る。

 なにをする気ですか、タテハさん?


「どうかな? 受けてもらえると、うれしいんだけど」


 どうしよう……。負けた場合のタテハさんの怪しい言葉が気になるけど、それ以上にあたしの虫採り魂が騒いでいる。断る理由なんてどこにもない。


「もちろんです! あたし、いっしょに虫採りしてくれる人がいなくて、さびしかったんですよね。それで、ルールはどうします?」


 そう返事をすると、タテハさんはうれしそうな表情を見せた。手を軽くあごにそえて考え始める。


「そうだね……。それじゃあ、あの子を先に採ったほうが勝ちにしよう」


 タテハさんの見上げた先には、一羽のチョウが飛んでいた。小さめなアゲハチョウの仲間で、黒地に青い筋が入っている。いや、青では言い表せない色。空にも負けないサファイア色の輝きを放つあのチョウは……。


「アオスジアゲハですか! 今年初めて見ました」


 アオスジアゲハは五月から十月にかけて姿を見せるチョウ。でも、ここらへんではまだ寒かったからか、それとも最近雨ばかりだったからか、姿を見ていなかった。やっぱり、この学校にもいるんだ。


「僕の見た限りでは、この周辺にアオスジアゲハはまだあの一頭しかいないみたい。それじゃあ、始めようか」


 アオスジアゲハは校舎の裏へ行き、見えなくなった。それを確認して、タテハさんは持っていたかばんからなにかを取り出す。三十センチくらいのアルミ製の棒で、先に白い布みたいなのがぐるぐる巻かれている。


 これは、もしかして……。


 そう思った瞬間、タテハさんはそれを空高くへ放り投げた。すると、ぐるぐる巻きになってたたまれていた布が、パッと開き、丸い輪っか――網の形になる。落ちてきたそれを手に取り、勢いをつけて振り払う。すると今度は、柄の部分が一気に伸び、一メートル以上の長さに。


「す、すごい! 網は折りたたみ式、柄は伸縮自在な、最新の虫採り網ですね!」


 タテハさんはほほえんでくれたけど、もうあたしへ視線は向けていない。


「行くよ」


 そう言うと同時に走り出した。まるで風を切るように駆け、校舎の反対側へ行ってしまった。あたしはその場にポカーンと立ち尽くす。


 って、突っ立っている場合じゃない!


 あたしもタテハさんに負けじと走り出した。あたしにだってこの、お父さんから託された虫採り網がある。

 ねらいはアオスジアゲハ。久々に、燃えてきたんだから!

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