第5話 優しい過去が溶ける

 健太と別れたあと、SNSで知り合った人と会ったことがある。高校のときの友達と連絡を取り合ったりゲームをしたりする目的でそれを始めたのだが、すぐに出会いを求めるメールが山のように届くようになった。たいていは無視していたのだが、一人だけ清々すがすがしいほどに出会いを求める人がいて目を引いた。

 年齢は一緒で、ひたすらに「会おうよ」とメールを送ってくる。あまりに真っ直ぐなので思わず返信してしまっていた。

『出会い目的ではないので会いません』

『そんなの楽しければオッケーだよ!』

 彼の送ってくるメールはいつも短文だった。

 駆け引きも何もない、むき出しの「会おうよ」アピールに、ひと月ほどでとうとう負けてしまった。

 わたしはそういったことに警戒心が強い方だと思っていたが、彼の屈託くったくのなさ故か、健太との別れで自暴自棄になっていたのか、その人に会うことになった。

 彼がほかの人とどんなメッセージのやり取りをしているのか見ることができた。案の定、何人もの女性に同様のメールを送っていることが判明した。

 その人は「ゆう」と名乗った。

「ゆうって本名?」

「そうだよ。ゆうだよー」

「どんな字を書くの?」

「優しいの「ゆう」に決まってんじゃーん」

 会ってすぐに優への警戒心は薄らいでいった。子犬のように素直な人だった。そんなに簡単に知らない人間に「会おう」と言い出す優のことが逆に心配になるほどに、彼は屈託がなかった。

 わたしがそういうと、

「でも、なるちゃんと会えたんじゃん。だからいいんだよ」と笑うのだった。

「ほかの人とも会ったりしているんでしょ? なんでわたしなの?」

「だって、たくさんの人と出会わなきゃ本当に好きになる人に出会えないかもしれないじゃん」

 初めて会った日、優が見せたいものがあるとわたしを連れて行ったのは、自宅の近所の犬小屋だった。

「うちは犬飼えないから、ときどき散歩させてもらってるんだ~」

 そして飼い主に許可をもらい、二人で犬の散歩をした。

 出会い系、夜景、暗がり、危険。

 そんな素振りがあったらすぐにでも逃げ出そうと思っていたが、優の行動はどれもその予想を裏切るものだった。

 昼間、優の近所の人に飼い犬と麦藁帽子むぎわらぼうしを借りて、公園まで散歩。

 そして暗くなり始めた頃には駅まで送ってくれ、わたしは自宅で夕飯を食べることができた。

 なんと健全なのだろう。まるで中学生の日常のようだった。

 わたしも無謀むぼうなことをしたと思うが、その無謀の相手が優でよかったと本当に思う。

 優は傷心のわたしを「楽しければオッケーだよ」をキャッチコピーに、色々なところへ連れ出してくれた。動物園をはしごしたり、海沿いのアウトレットパークや葛西臨海公園にも行った。夏だったので波の出るプールにも行った。

 男女交際ではなく、本当に「楽しければオッケー」で、楽しいことだけを考えて遊んだ。

 何度会うようになっても、優はそれ以上踏み込んで来なかった。わたしもそれ以上の関係を望まなかった。

 健太と別れて数ヶ月、休日が怖くなくなったのは確かに優のお陰だった。

「なるちゃん久しぶりだねー」

 おっとりとしたしゃべり方は変わっていない。

 幼さの残る丸顔だった優は、少し精悍せいかんになりひげを生やしていた。

「久しぶり。お髭をたくわえたんだね」

「うん、かっこいい?」

「ううん。全然タイプじゃない」

 わたしは笑いながらくぎをさす。そういう軽口のきける気持ちのいい関係だった。

 優は「残念だなぁ」と全然残念そうでない満面の笑みで言った。

 優と再会したのにはわけがある。

「元気そうで何よりだよ」

「それはこっちのセリフ。あの頃のなるちゃん、本当に表情が死んでたんだもん」

 にこにこと笑いながら優が言った。そういえば、記憶の中の優はいつも笑顔だった。ただ一度だけ、無邪気な笑顔を伏せたことがある。それが怖くなって、わたしは優から逃げたのだ。あんなにも助けてもらったのに、あの頃はそれが優の優しさだとか、優がかけがえのない友人だったとか、そんな大事なことに気付かないほど子供だったのだ。

「うん、あの頃は本当にありがとう」

「いいんだって。楽しければオッケー。いつも言ってんじゃん」

 優は全然変わらない。いい意味で、彼はずっとこのままかもしれない。痛々しいほどに純粋なままだ。

「優くん、いまだから聞くけど。わたしと出会い目的で会ったわけでしょう?」

「うん。いい出会いになればいいなと思って会ったよ」

「わたしのこと、好きじゃなかった?」

 自意識過剰なのかもしれないが、一応聞いておく。これから人を紹介するのだから過去は綺麗に整理しておかなくてはならない。

「わたしは、優くんに本当に助けてもらった。一緒にいろいろな遊びをして楽しかった。感謝している」

「そうだね、楽しかったね。うん、あのままずっといろいろなところに出かけたりしてたくさん会ってたら、好きになってたと思う」

 一度だけ。

 波の出るプールに行ったときに、一度だけ、優を怖いと思ったことがある。

 一瞬、波に足をとられて水中に沈みそうになった。そのときに、とっさに優がわたしを抱き留めてくれた。

「うわー、ありがとう」

 わたしは礼を言って離れようとした。けれど優の手はわたしの背中に回されたまま離れず、むしろ強く抱きしめられた。

「ゆ、優くん?」

「うん……」

 優は上擦うわずった声で頷き、驚いて動けなくなったわたしの肩口に顔を控えめに埋めた。焼けた素肌にわずかに触れる優の額は、驚くほど熱かった。

 怖いと思った。優とは恋愛関係になりたくなかった。優は全然タイプではなかったけれど、彼の純粋さを案じていた。優には幸せになってほしいと心から思っていた。だからこそ、優とは恋愛はできないと思っていた。

 わたしは優を幸せにできない。優にはたくさんのものを与えてもらったが、彼にはなにひとつ返せそうにないとずっと気付いていたからだ。

 彼がわたしと遊ぶことで楽しい時間を過ごせるのならそれで対等でいられた。でも、わたしに恋愛感情を求めるのなら、もう一緒にいることは不可能だった。

 優の幸せを願っていた。けれどそれは非常に他力本願で、わたし以外の誰かとの幸せだった。だから逃げた。わたしは卑怯だった。深い深い水中に沈んでいたわたしを、水面まで引き上げてくれたのは優なのに。やっと自分で呼吸ができるほどに助けてもらったのに。

 わたしは優との関係をなかったものにした。

 それでもこうして彼と再会できたのは、ひとえに優のたくましさによる。

『なるちゃん、久しぶり~。もしかして都内で働いてたりする? だったら会おうよ~』

 つい三日ほど前、優からあっけらかんとしたメールが届いた。どうやらどこかでわたしを見かけてメールを送ったというのだ。

『久しぶり。え、どこかで会った?』

『うん、昨日背の高い綺麗なおねーさんと歩いてなかった?』

『あぁ、あの時ね。うん、会社の先輩とランチに出たときだ』

 と返信するや否や、

『その人紹介して!』とすごい勢いで食らいついてきたのだ。

「・・・・・・優くんて、すごい」

「え、なにが?」

 回想を終えたわたしは、思わず呟く。優はきょとんとしていた。

 松山に恐る恐る聞いてみると、

「会ってもいいよ」という衝撃の返事があった。あとは優の積極的な交渉により、今夜こうして一席を設けることとなったのだ。

 優を店に残し、わたしは松山を迎えに店を出た。松山は道に迷うことなく指定された店の前まで来ていたので、わたしたちはすぐに会うことができた。

「松山さん、麻子まこちゃんは?」

「今日は別れた旦那に任せた。あの人、娘に会いたがっていたからすごく感謝されたよ」

 松山は数年前に離婚をしていて、女手一つで娘を育てていた。

「でもまさか、松山さんが会ってくれるとは思いませんでした」

「矢野ちゃんの紹介なら信頼できるかなって」

 わたしの不安は倍増された。そこまで信頼してもらえているとは思わなかったが、それに応えられるか否かは優にかかっている。

「お連れしました。こちらが田村優くん、こちらが松山美和さんです」

 わたしが簡単に紹介をする。

「松山です、よろしく」

「・・・・・・・優です。会えて嬉しいです」

 そう言う優の顔をそっと盗み見る。恍惚こうこつとした表情に、今まで見たどんな表情よりもドキリとさせられた。

 わたしは祈るような気持ちで松山に一礼し、店をあとにした。

 外は暗くなり始めていたけれど気温は高く、わたしはこのままどこにでも行けるような錯覚を起こす。


 健太との出会いは大学4年のとき。友人の主催した飲み会だった。いわゆる合コンというものである。合コン未体験だったわたしは、卒業するまでに経験しておこうと参加した。わたしはどちらかというと人見知りをする性格だった。集まった人たちも似たようなテンションで、盛り上がることなく静かに解散した。

「合コンというからには連絡先を交換した方がいいのかな?」

「そうなんじゃない?」

 誰がが遠慮がちに始めたそんなやりとりで、とりあえず全員とメールアドレスを交換したが、今では彼らの名前すら覚えていない。

 その中で、健太だけが一つ年上だった。彼らは理系の大学の同学年だったが、健太は一年遅れて入学したという。また、健太だけがもう一年卒業が遅れることが決まっていた。

 それを聞いても、なにも思わなかった。「へー」とか、「ふーん、そうなんだ」と相槌あいづちを打っただけだったと思う。その話を誰から聞いたのかも覚えていない。本人からだったのか、他の人からだったのか。ただ、健太の情報としてだけインプットされ、一つ年上のサッカーが好きな人と覚えた。

 思い返していたら、忘れていた出来事も甦ってきた。

 まだ付き合う前、二人でベンチに座って話をしていた。あれはどこだったのだろう。広場にはステージもあり、それを取り囲むようにたくさんのベンチが置いてあった。あたりは暗くなっていたが人がたくさんいて、とてもにぎやかだった。話をするのにも、体を寄せ合って声を聞き取っていた。

 そんな喧騒けんそうだったので、わたしたちに近付いてきた女性がいたことにまったく気付かなかった。

 その人は言った。

「わたし占いをやっていて、その飲みかけのお茶を飲ませてもらえれば占えるんですけど。ふたりの相性とか」

 発言こそ怪しかったが、身なりはごく普通の二十代半ばと見られる女性だった。

 わたしたちは付き合っているわけでもなく、付き合う予定でもなく、次に会う約束すらしていない関係だった。相性を占うなどと突然提案されても、なにを言ったらいいのかわからなかった。

 見かねた健太がやんわりと断っても、わたしは脳内でぐるぐると考えていた。

 他人の口付けたものを口にする神経も信じられなかったが、それを返されることの恐怖がわたしを混乱させた。健太が断ってくれてよかったと思った。

 けれど、今になって思う。

「もし、占ってもらっていたら。わたしたちの今の関係は違ったものになっていただろうか」と。

 別れを予測して対策し、別れずにいられただろうか。別れの判明している不毛な関係に時間を費やすことなく、次の恋を探し始めただろうか。

 わたしはすべての「もしも」と「たら・れば」を潰したい。

 そうするまで、帰れない。



 仕事を終えて駅に向かっていると、親しげに名を呼ばれた。きょろきょろと辺りを見渡すと、優がこちらへ手を振っていた。

「偶然だね。仕事終わり?」

 わたしは肩から落ちかけていたバッグを、よいしょとかけ直しながら、「そうだよ」と返した。

「優くんは? あれから松山さんに失礼なことはしてない? 問題ない?」

 もともと優とはあまり連絡を取り合わない。昔はわたしからよくメールで相談を持ちかけたものだが、返されるのはいつも単純なメールが多かった。

「そうなんだ。気分転換したほうがいいね。いつ会おうか?」

 仕事でミスしたとか、他部署の部長が嫌だとかそんな内容にも、大体こんな感じの返事だった。会う気がないなら連絡してはいけないような気がしていた。

「うん。この前会ったよ。子供がいるんだね。三人で居酒屋行ってきた」

「え、麻子ちゃんも一緒に居酒屋?」

「そー。一度行ってみたかったんだよね。知ってる? 釣堀居酒屋。お座敷の前に大きな釣堀があって、自分で釣った魚をその場で料理してくれるの。麻子ちゃんも一緒で楽しかったな~」

 それは楽しそうだなと想像した。

「俺んち母親がいないって話したっけ? 俺が小さいときからいないから俺が末っ子なわけ。だから弟とか妹とか憧れてたんだけど、自分に子供がいたらいっぱい遊べるじゃんって気付いた」

 そう言って太陽のように笑った優が、はっとした様子でわたしを見た。

「そうか。俺、なるちゃんといるとすごく心地よかったんだけど、理由分かった。俺、なるちゃんに母親を感じてたんだ」

 予想していなかった発言に、わたしは言葉を無くした。

「……え?」

「美和さんはやっぱ女~って感じるけど、なるちゃんはふわふわしてて頼りなくって幼くって……俺の母親ってそんなイメージだったんだ」

 自分の自意識過剰ぶりに恥ずかしくなるより、すんなりと納得できた。彼からの視線に感じていた違和感はこれだったのかと、わたしはくすぐったく笑った。

「そっか、楽しいのはわかった。でも子供をあまり遅くまで連れ回したらダメよ?」

「わかってる。今までなるちゃんのことだっていつもきちんと送り届けたでしょう?」

 記憶が曖昧あいまいになるほど苦しかった夏の日。無心で仕事をして、週末になるごとに優に色々なところに連れ出された。意識が急にあの夏に立ち返りそうになる。

「大丈夫? 今日も送っていこうか?」

 黙り込んだわたしを案じて、優が言う。優しい手がわたしの肩に置かれていた。

 覗き込むようにしていた優の影が急に遠のいた。

 遅れて、動いたのは優ではなくわたしだと気付く。誰かに腕を強く引かれていた。

 ゆるゆると振り向くと、眼鏡をかけた健太がいた。

「・・・・・・・健太さん」

「こんな状況でなんて言えばいいのかわからないけど。とりあえず、こんばんは」

 健太はわたしをじっと見下ろしたまま、彼らしい発言をした。

「えっと、誰?」

 問いながら優は笑顔を向けていたけれど、困惑している。それはそうだろう。わたしは慌てた。

「えと。こちら健太さん、こちら友人の優くん」

「はじめまして。優です。へー、もうこっちに来て友達できたんだ。よかったね、なるちゃん」

 優がにっこりと笑ってみせる。その言葉に嘘偽りも他意もなかったろう。

「・・・・・・・友達?」

 健太がちらりとわたしを見下ろす。

「あ、うん。偶然こっちで再会して・・・・・・」

「そう」

 健太の声があまりに低くて、わたしはいつも以上にオドオドしてしまう。

「なるちゃん、とってもいい子だから仲良くしてあげてね」

 健太の前でやめてほしいと思うのに、優が親しげにわたしの頭を撫でる。僅かに髪が乱れて頬にかかる。それを直しながら、わたしは優をそっと睨んだ。

「知ってる。あんたに教えてもらうよりずっと前から、成美はいい子だって。じゃ、さよーなら」

 健太がわたしの腕を引くので、わたしは慌てて振り向き、

「優くん、ばいばい」と言った。

 初めて見る健太の様子に困惑するわたしは、優がひらひらと手を振りながらなんて言っていたのかわからなかった。

「がんばれ」

 優は唇の動きだけでそう言っていた。


「あれって、友達?」

 前を歩く健太が、振り向かずに聞く。さっきも聞かれたが、もう一度答える。

「うん。健太さんと別れた少しあとに友達になったの」

「付き合っていたの?」

 振り向きざまに健太が言った。思いがけない問いに、わたしは目を丸くする。

「付き合ってたんだ」

「ちがうよ、付き合ってない。本当に友達」

「それにしては距離近くない?」

 こんな健太は見たことがなかった。健太はいつだって冷めていた。人間の真理を悟っていて、人間関係に依存していなくて、だからびない。健太がかけてくれる優しい言葉にも、人間関係の限界を知っているからの一種のあきらめのような、悟りを開いた僧侶の言葉のようなありがたみと寂しさを感じていた。健太との関係は、一定の距離があって、あの頃はもっと近づきたいとがんばってしまって、今はそれがちょうどいいと思っていた。

「健太さん、それってやきもち?」

 慣れない健太の様子に、わたしはおどけてみせる。言ったそばから唇が空しくなり、あははと笑って誤魔化した。

「そうかもしれない。俺のいない時間を見せ付けられたようで苛立った」

 あなたが勝手にいなくなったのに、とわたしは微笑みの奥で苛立った。

「あいつにもこういう人ごみでキスをねだったのかな、とか考えてた」

「そんなこと、してない」

 わたしはうつむいて、顔が赤らんでいるのを自覚する。視界が滲むのを感じて、慌ててまばたきを繰り返す。別れるとき、健太に言われた言葉を思い出す。

「ずっと、謝りたかったの。恥ずかしいことさせてごめんなさいって」

「うん、夜のこういう雑踏でキスをするのはすごく恥ずかしかった」

「あ、ああああの、キスがどうしてもしたかったわけじゃないの。いやらしい変態じゃないの。ごめんなさい。からかってたわけでもなくて、ただ・・・・・・」

 気がつくと涙が溢れていた。わたしは震える手で健太の服の裾を掴んだ。これがずっと心に刺さっていたとげだ。

「照れた健太さんの顔がだんだん影になって降ってくる瞬間が好きだったの。その瞬間で時が止まればいいって思うくらい。だから何度も・・・・・・」

 健太に別れを告げられたとき、わたしは泣いて「どうして?」と聞いた。

「健太さんが別れたいってなるほど嫌がってるなんて、気付かなかったの」

 健太は別れたくないと泣くわたしに、はははっといつものように渇いた笑いを漏らしながら、

「俺ってへんだからさ。もうやめよう」と言った。

「わたし、健太さんがすごくすごく好きだった。だから、別れるときすがったり言い訳したりなんてかっこ悪くてできなかった。そうしたらもっと嫌われてしまうと思った。でも本当はずっと、別れた後もずっと、キスのことも「妻だから」って台詞せりふもずっと言い訳したかった。あれ、マンガの真似だったの」

 ずっと言えなくて誤解されたままで苦しんでいた。でも、言葉にするとなんて下らないのだろう。

 あのとき話していたら、なにか変わっていただろうか。それとも、やっぱりあの渇いた笑いで、「もういいよ」と切り捨てられただろうか。そうしたらもっと生きていられなかった。

 隠したのは、死なないように。

 きっとすべてを打ち明けて、それでも拒絶されたら、わたしはそれ以上生きていられなかった。

「え? マンガ?」

「うん、あのときハマっていたマンガの台詞だったの。付き合ってないけど大好きな人に、料理を取り分けるたびに「妻ですからー」って言うの。そのたびに「妻じゃねー!」って突っ込まれててかわいくて・・・・・・それを真似してわたしも言ってたの。なんの前置きもなく、わかりにくいコントしてごめんなさい」

 別れるとき、雑踏でのキスと「妻ですから」のセリフが重たくて嫌だったと言われ、縋る気力が失せるほど恥ずかしかった。けれど、わたしの精一杯の自尊心で、そんなことは言えなかった。

「・・・・・・それはわかりにくいよ、成美ちゃん。俺マンガ読んでないし」

「え? 知らない? ドラマ化もされたよ。その何年か後だったけど。わたしはドラマの放送を複雑な思いで見ていたよ。あー、いまだったら健太さんに伝わったかなーって」

 わたしはしみじみ思い返す。不思議と涙は止まっていた。

 健太さんが笑っていた。

「あの時ごめんは俺のほう。本当にごめん。不誠実だった。ホント、殴っていい」

 言いざまに、健太がわたしの両肩を掴んで引き寄せた。顔を覗き込むように近づけた彼の目に捕らえられる。

「こういうとこでのキスも、言うほど嫌だったわけじゃない。成美ちゃんといると楽しかったよ。ただ、駄々をこねたんだろうね。地元で就職する成美ちゃんと、留年した俺。周りと2年も遅れをとってて、かっこ悪いって思った。職場の話を聞くたび、自分に自信がなくなって、あれもこれもみんなすべてをめちゃくちゃにしたくなった。本当にごめん。子供だった。後悔したよ、正直。成美ちゃんを突き放したままにしたこと」

 息がかかりそうなほど近くで見つめられ、わたしは自然と息を詰めていた。

「健太さん、恥ずかしいよ」

「うん、恥ずかしいね。逃げようか」

 あの頃、雑踏で触れるだけのキスをしたあとはその場から一目散に逃げるルールだった。それがとにかく楽しかった。

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