二度目のアイリスへ~転生した老爺は美少女になった~

スパイ人形

0章 転生した老爺は人形になった

プロローグ

 その日はとても穏やかな日だった。

 外を歩けば微風が時折吹き抜け、空を見上げれば一面の青の中にぽつぽつと白い雲が浮かんでいる。

 耳澄ませば鳥のさえずりが聞こえ、香りに意識を向ければ花の香りすら感じるようだ。

 陽光が地上に生きる物すべてに優しい暖かさを与え、祝福の証に虹が架かっているような、そんな日。



 とある病室で老爺が間もなく息を引き取ろうとしていた。



 老爺は数人の人間に囲まれていた。下はまだ幼稚園に入りたての子供から、上は今まさに寝台の上の老爺と同じ年齢の老人までおり、まさに老若男女といった人間が、老爺を中心に囲むように立っていた。皆一様に悲しげな表情をしている。

 少し開いていた目すら、その気力も尽きたのか老爺はその目をゆっくりと閉じる。だがその老爺だけが、その日のような穏やかな気持ちだった。



 この世を去る間際に、これまでの人生を振り返り、失敗も反省も後悔も、成功も自慢も誇りもあったなと薄れつつある意識で思う。

 自分なんかのために悲しんでくれる人がこんなにいると思うと、一人こんなに嬉しい気持ちになって少し申し訳なくも思うけれど。

 それでも自分の人生を締めくくるための言葉を遺していこう。

「……! お爺様の最後の言葉です。聞き届けてあげてください」

 お医者様が私の開きかけた口に気づいて周りの者に声をかけてくれる。内心で感謝をしつつ、多くの人間の気配が近づいてきたのを感じながら呟く。


「……あぁ……悪く、ない、人生だった……なぁ……」


 これに尽きる。

 良い思い出も悪い思い出もたくさんある。伝えたかったことも伝えられなかったこともまだまだたくさんある。もっと話したかった人も話せなくなった人もたくさんいる。

 しかし、死ぬ直前ともなればもはやそのすべてが愛おしい。

 話せなくなった人たちの元へ行ける。何より貴女の元へ行けます。

 いや、行けるかは分からない。居るかも分からない。ただ、行けるといいと思う。

 同じところへ行けるとしても、かなり遅くなってしまった。きっと待たせてしまっていることだろう。

 伝えられなかったことも、話したかったことも、向こうで語り合えると良いと思う。

 あるいは、待ちきれずどこかへ行っているだろうか。

 また会えるといいなぁ…………












 微風が全身を撫でるように吹き抜けていく。

 瞑った目にちらちらと差し込んでいる木漏れ日が当たっているようで、少し眩しさを感じる。

 背中にはざらざらとした感触。ほのかに草木の香りがして、数度深呼吸をする。


 ――――おや?


 思わず目を開けてみる。

 そこには、体感で少し前に窓から見た空と同じ青が一面に広がっていた。どうやら私は地面に寝転がっていたようだ。

 ぱちりぱちりと、思わず目を瞬かせてしまう。


 確かに私はついさっき……皆に看取られて……。


 未曾有の体験に、思考が追いつかずぼんやりと空を眺めてしまう。


 暫しの間ぼーっとしていたが、何かが歩いてくる音がして我に返る。

 体の節々に感じていた痛みを今は感じず、まずはゆっくりと体を起こし、特に痛みが走ることもなく勢いそのままに立ち上がって、近づいてくる何かに備える。心なしか、胸のあたりが重たい。何か乗っているのだろうか。


 立ち上がった時ぱさりと体にかけられていた何かが落ちたが、視界がはっきりしてくるよりも先に、接近していた何かが姿を現した。


「この辺から変な反応が……わ、なんかすごい美少女……って、わぁ!?」


 私の数メートル先の茂みから姿を現したのは、ぼんやりとしか分からないが魔女のような恰好をした年若い少女だった。慌てて顔を逸らすような素振りをしていたが、私のほかに女性もいたのだろうか。


「……美少女? 私は……ん?」


 ……今のは私の声だろうか。鈴の音のようにきれいな声が聞こえたが。

 喉に手をあてがい、咳ばらいを少々。


 仄かに顔を赤くして顔を逸らす魔女さんを気にしつつ、わが身に起きている異常事態に気を回す。喉にあてがっていた手を全身に回してみると、どこを触っても自分の肌を触っている感触がある。あまりに滑らかな肌に自分の肌ではないのではと疑ったが、脳が自分の体を自分で触っていると理解してしまう。

 何より、生前の自分についていなかったものが胸についている。ということは……。

 そっと股のあたりに手をもっていったが、そこに付いていたはずのものはすっかり姿を消していた。

 そこまでの情報を得たところで、今の自分と自分の知っている自分との乖離が著しく、現実への理解が追いつかない。夢と思いたくても五感を通して得た情報がそれを拒絶する。


 あまりの情報の齟齬に、1つ1つの小さな事実の理解はできているのに、大きな事実の理解を脳が、というより私が拒んでしまう。


 理性と感情が相反する信号を出し続け、ついぞ私は意識を手放してしまった。


 最後に見たのは、慌ててこちらに駆け寄ってくる綺麗な魔女さんの姿だった。

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