第二十六話「マン・イン・ザ・ミラー」

                ◆


 そしてそれは、あの時のままそこにあった。

 ずっと、私を待ってくれていたかのように。


 罪人を吊るすいびつな首輪。

 私が用意した、私の処刑台。


「――、」


 まずい煙を吐きながら、煙草の灰を落とす。自室に落ちていた最後の一本。

 鉄骨の隙間からは僅かな月明りが落ち、薄い煙を照らしている。

 あの時と同じ、明け方に近い時間だった。眠れない夜を超えた身体は、現実と虚構の境目を曖昧にする。焦げ付くような感傷が、黒い衝動を呼び起こす。


 全てを壊してしまいたい。最低に墜ちてしまいたい。

 黒く、甘く、愛おしいほどの誘惑が目の前に揺れている。

 

(――ああ)


 だけど、跳べない。私にはその資格がない。

 所詮、この痛みも苦しみも。

 形だけを取り繕った、生ぬるい偽物に過ぎなかったのだから。


『死ぬほどの勇気があれば生きられるだろう』


 テレビか何かで、どこかの馬鹿が言っていた言葉を思い出す。

 本当に、馬鹿だと思う。

 だって死ぬのに、勇気も何もない。

 自分で死を選ぶような人間は、既に正気を奪われている。

 何かに追いつめられたから、そいつはそこに立っている。

 そして、死ぬより辛い苦しみから逃れる為に、それを選ぶ。

 選んで、その先に行ってしまう。


(――とっくに、知ってたさ)


 私は、そういう人間じゃない。

 死ぬほど辛い目にあったことなんて、きっと生まれてから一度もない。 

 むしろ普通よりも、恵まれた環境に身を置いていたはずだ。

 なのに、生き方がひどく下手糞で。起こった全ての不幸の源が自分にあるのだと気づいた時、私は自傷と自衛を繰り返す矛盾の悪循環から、抜け出せなくなった。


 自己嫌悪。

 それ以外、今の私には何もない。

 だから、何も選べない。

 

 身を焦がす苦しみも、絶望も。既に過ぎ去ってしまったもので。

 だけど前に進む為の、喜びも希望も、見つけられない。

 自分が嫌いなくせに、自分という存在が誰よりも大事で。

 誰かの優しさに甘えながら、未だにこうして生き永らえている。

  

 醜い。

 本当に、醜い生き物だ。

 そしてこれから。もっと、醜い事をする。


(……来たか)


 足音が聞こえる。火ごと煙草を握り潰し、ジャージのポケットに突っ込んだ。

 そして揺れる首輪の向こう側、近づいてくるその影に目を細める。

 

 ――別に、お前に何も期待しちゃいない。

 ――ただ、この凪のような気持ちに飽きてるだけ。

 

 だから、私の姿を映してみろよ。

 ちっとも似てない、私の鏡。

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