トウカとミズホと青い海─冬の霞と絶滅と─

Mun(みゅん)

氷雪とバカ

0 (校)放浪するもの/The Wanderer

 頬から乾いた血が剥がれ落ちる。

 淀んだ碧眼に廃墟が映る。

 泥と血で塗れた髪が凍えた突風に踊る。

 地吹雪の中を行く、女が一人。左手に大盾シールド、右手に槍斧ハルバード。烈風にはためきもしない厚手のコートが、その身を護る要。足元にきらきらと転がる物を、女が取り上げ、虚ろに眺める……温度計。溶液もあまりの寒さに縮こまり、-30℃の下限を優に振り切っている。

 ここは生けるものを排斥する、極寒の地獄。

 捨てるのも億劫だと言うように温度計を足元に落とすと、避ける気もなく踏み砕く……物々しい武装と裏腹に、有様は勇ましさとは程遠い、むしろ敗残者の有様。どこに攻め込むでも、守るでもなく。

 しかし汚濁で塗り固め、息も絶え絶えでもなお、深彫りの相貌だけは端正さを主張している。荒れ果てた世界の中、それがむしろ実在感を奪っている。意志はほとんど感じられない、機械人形の如き歩み。ぎっ、ぎっと雪を踏む音は生命よりも、軸受の軋みを連想させる。そしてそれさえ吹き付ける吹雪の中で消えていく。

 彼女の有様を恐れるもの、手を伸べるものは居ない。割れた硝子、朽ち果てた戸、雪に踏み潰された家々。どこまでも荒れ果てた、廃墟と氷の世界には人の気配などあるはずもなく。

「ぅぁ」

 突如、素っ頓狂な声とともに女の姿が消える。雪庇せっぴを踏み抜いたのだ。そのまま勢いよく、なだらかな雪の丘を転げ落ちる。ご、と鈍い音がして、それきり辺りは静かになった。


 ──────。

「おい瑞穂、瑞穂?死んだのか?よし。それじゃあ……」

 吹雪が一面を覆った頃、雪山の一つが内側から吹き飛んだ。

「生きてるぅっ……」

「ケッ」

 目を疑うほど長身の女──名を阿左美・München・瑞穂あざみ・ミュンヘン・みずほという──はもったりと立ち上がり、黒い大盾に話しかけた。

「どうせ長生きできないんだから、死に損ねたくらいで拗ねないの」

「死ぬなら綺麗に頼む、今みたいに。そうすりゃ、お前の体と記憶くらいは残る……かもしれん」

 大女につかまったために却って常識的な大きさに見える大盾──名を黒盾シュヴァルツシルトという人外──は堂々と終活を勧める。

「僕に何のメリットが……」

 の不遜に切り返す言葉を堰止めて、女はにやりと口角を上げる。

「女の子になりたいの?」

「ちがわい」

「やらしっ」

「だからちげェっての!!なんだってお前は人の話を最後までだな」

「うっせ。しかも人じゃないじゃん……で、ぼく何時間寝てた?」

「……。……はぁ。半日くらいじゃないか、しらん」

「なるほどね」

 女が見渡せば、かつての終末で砕けた溶紅月メルトムーンがとうに空高く登っていた。溶岩色オレンジの月光と蒼い雪原が織りなすコントラストは絶景といって差し支えない。しかし女は、それには目もくれない。

 興味がない訳ではなく。むしろ、暇を見ては星空を眺め、いい感じの石を拾い、ガラクタを押入れに溜め込む手合の、ぼやっとした女だった。

道理どーりで。なんか、食べたいな」

 しかし今は空腹が問題だった。あわや頭が砕けて死ぬ所だった事でも、まだ湿り気のある流血でもなく。顰め面で腹に手を当てた途端、腹の虫が大きく鳴いた。

 その背後で、黒い影が蠢いた。

「ゲァグアア!!」

 巨躯長身の怪物。二足歩行、鋭い牙と爪。闇に溶けるぬるりとした毛のない黒い表皮。端的に表せば熊そっくりの生き物が、人の胴ほどある腕を振り上げて女に躍りかかった。惨劇を予感する間もなく、体の一部が宙を舞った。

 もぎ取られた頭部?ちぎられた腕?……否。

 それは砂、礫。月明かりに煌めく怪物の爪、その破片。振り向きざまに突き出された盾に一本残らず打ち砕かれている。平衡感覚と力、それに硬度。瞬く間に圧倒的な力量差が顕となる。

「グゲア!?」

 怪物が……改め、哀れな獣が身を引こうとする、もう遅い。女の青い目がぎらり殺意に輝いて、巨躯を押し返す。巨躯は想定外の力に足をもつれさせ、無防備に胴を晒す。

「ゔらあああ!!」

 女は咆哮と共に、槍斧ハルバードを横薙ぎに力いっぱい叩きつけた。力任せの一撃だがしかし、筋を絶ち、臓腑を圧殺し、脊椎を粉砕する。大柄な怪物が、たった一撃でがくりと崩れ落ち、冷たい血で雪を汚して死んでいく。

 ……銃抜きで熊と殴りあって勝てるだろうか?一般に無理である。

 例えば、190cmの体躯ならどうだろう。長く重く、鋭い槍斧ハルバードもあればどうだ。まだ足りない?では絶対に貫かれない巨大盾タワーシールドと、無尽蔵の膂力を。

 ……無理に決まっている。

 だから女はこれらを兼ね、さらにもう一つを持っていた。頭のネジが飛んでいる事である。追い打ちのように盾を突き立てると、硬質の表面が生物的に脈動して生気いのちを吸い上げていく。

「昼寝の分は取り返せたか?」

 盾が半ば揶揄するように、びりびりと振動して言う。調子はだがとぼけた口調。

「足りない。全然足りない」

 雪氷の世界で、如何にしてなけなしの防寒で行軍を続け得ているのか。実に単純に、出会ったものすべて叩き潰し、生き血を啜り、効率もなにもなく代謝して肉体を維持しているのだ。

「もっと食べないと」

 怪物を吸い尽くした盾を女がごく自然に振り上げる。すると軽石を割るような音。食後の隙を狙い、音も無く忍び寄っていた怪物の下顎を、闇夜に紛れた黒い大盾が砕いた。

「なめないで、」

 そして倒れる前に大盾をめり込ませ、侵食し、生気を奪って萎びさせていく。

「格上の相手は初めて?」

 新手の化け物を1秒で喰い尽くし、ぱさぱさの粉炭になって散らせると、女はげっぷを一つ。

「満腹感が……」

「胃が小さくなったんじゃないか?その……なんだ、随分痩せたじゃないか」

 女は一瞬不思議そうな顔をしてから、合点の表情でぶかぶかの胸元ちちぶくろを手で潰した。

「ふかふかするね……」

「エアバッグだな……ってやめろ、もういい!!」

 自分以外の知性が宿った腕を膨らみに押し付けながら、女はわざとらしく衝撃を受けたような顔を作る。

「そうだよね……ちっちゃいもんね……」

「じゃなくて軽率に他人に触らせるんじゃない!!にしても、この量じゃ半日保つかどうか」

「んー、半日後に考える」

「食えるときに食っとけよいつもそうやって計画性が……聞けよ……」

「♪天国のような 北加伊道ほっかいどう──」

 女が甘ったるいが掠れた声で歌いながら、ざくざくと雪を踏み潰して進んでいく。時たま闇から転げ出る化け物を砕き、叩き切り、骨も残さず平らげる。

「手稲山に石狩川……じゃなくてやめろよ、目立って呼んでどうすんだ。食いすぎても困るぞ。俺が」

「やめたら怖くて発狂しそう」

「怖いって、片手間で切り払ってるじゃないか」

なんにもしてこなくても暗闇は怖い、でしょ」

「そうか……それなら、街に着いたら何がしたい?」

 飛びかかってきた狼の化け物を空中で木っ端微塵にして、迷わず答える。

「ちゃんと味のあるご飯をいっぱい、それからこれのオーバーホールと」

 右手の槍斧を振り回して、鹿の化け物の角を叩き折る。その長柄と化している、年季の入った機関銃を整備したいらしい。

「それからあったかい部屋と、ふかふかの布団……やめよ、この話」

「どうしてだ?今できそうなやつだってある」

「だからだよ。僕の意思の弱さを知らないんだ」

「……そうか。だけど休息はしっかり取ったほうがいい」

 女の目元にはどす黒い隈がわだかまっている。ぱちぱちと瞬いて、目許をもんで見せる。

「それこそ二度と動かなくなるかも」

「……無理しすぎるなよ」

「元より絶体絶命、この程度……」

 それきり会話は途絶え、また無心の行軍が始まる。黒盾シュヴァルツシルトは余計な事を意識させてしまったと後悔した。雪を踏みしめる音が響き続け、やがて夜が明けた。

 女は寝ぼけ眼に映るそれを、何かの見間違いと思う。朝の冬霞ふゆがすみの向こうで、空間が奥行きを無くしている……白い壁。そしてその中に、雲を掠めてビルディングが林立している……ように見える。

「街……か?」

「見間違いじゃないの。まさか」

 冷たい雪を顔に塗りたくって、目をこすり、細め、それから自分の頬を力一杯に張って確かめる。そこに確かに、高い城壁に護られた都市がある。

「見間違いじゃ……ない。やろう」

「長かったな」

「……うん。」

 腰に下げた、傷だらけの信号銃を空に向ける。この瞬間のために取っておいた一発。

「……あ、流れ星メテオ

 透き通る氷河期の空を、煌めく一筋が滑り降りてくる。

「帰れますように、帰れますように、帰れま……」

 城壁の街から一筋の白煙ミサイルが飛び上がり、流星に激突して打ち砕いた。大盾が冗談めかして笑う。

「ハ、消えちまったな。しかし目の前に家があるのに、なんでそんなこと願ったんだ?」

「もうない場所に、さ」

 遥か南、宇宙そらへとそびえる軌道電磁投射砲ケイロンの矢を見据えて、彼女は引き金を引いた。


 ──1999年7月、空から恐怖の大王が来るだろう。

 ──アンゴルモアの大王を呼び覚まし、マールスの前後に首尾よく支配するために。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る