第3話

「うっわー。ほんと、山だなあ……」


 七月六日。

 俺と佐竹は、ちょっと前なら予想もしていなかった場所にいた。

 夏の避暑地として人気のある、八ヶ岳高原。山の中の貸し切りログハウスのひとつで、俺は周囲の森を見回している。

 もちろん手配は馨子さんの手によるものだ。ほんの二泊三日だけど、俺と佐竹はこのログハウスで二人だけで過ごすことになっていた。その間、馨子さんには家で自由にしていてもらう。

 ここまでは、すでに免許を持っている佐竹が車を運転してきた。車は馨子さんのもの。


 ログハウスはひとつひとつが、ちょっとした一戸建ての家ぐらいの大きさだ。要所要所は違うけど、基本的に全体が丸太をはじめとする木材でつくられている。リビングのテーブルもベッドも基本的には木目のわかる木製だ。なんだかこういうの、ほっとするんだよなあ。

 リビングがあってベッドルームがあって、キッチンやバスルームなどもすべて完備。滞在中にベッドメイキングなんかはしてもらえないけど、他の人が入り込んでこないだけ安心感もある。

 自炊したい人はできるし、近くの施設で外食をすることもできる。事前の申し込みをしてあれば、決められた区域でバーベキューなんかも楽しめるんだそうだ。


 まだ小学校や中学校が夏休みに入っていない時期で、観光客は多くない。基本は俺たちみたいな大学生や年配のご夫婦なんかが中心だ。でも、こうした施設の繁忙期ではないものの、気温は十分あがってきている時期だから、涼しい高原の空気はとても気持ちよかった。朝晩はちょっと寒いぐらいだ。

 佐竹は荷物を片付けたあと、キッチンでお茶を淹れてから備え付けのパンフレットに目を通している。


「そうか、明日は七夕だな。星を見るツアーもあるようだぞ」

「へーっ。そうなの?」


 渡されたパンフレットを見ると、確かにあるある。「きれいな星空で遊ぼうツアー」とかなんとか銘打った、ちょっと小洒落たイベントが。写真を見ると、なるほど都会じゃ見られないほどきれいな本物の星空を堪能できそうな感じだ。まあ、お天気次第ではあるんだろうけどな。


(ん~。でもなあ)


 ツアーってなると、ほかの客もいるわけだよな? それじゃあわざわざ佐竹と二人きりになった意味がなくないか?

 そりゃ、男女のカップルは周りの目なんて気にせずにいちゃいちゃするんだろうけどさ。俺らは人目のあるところでは、手をつないだことすらないんだし。

 佐竹は「そんなこと気にするな」っていつも言うけど、俺の方がどうしても気後れしてしまうんだよな。特に家の近くだと、近所の目も気になっちゃうし。

 佐竹はあれこれ考えている俺の表情をじっと見ていたようだった。

 そして、どうということもない口調で言った。


「別に、それに参加しなくても星は見られる。ごく近場だけで、道さえ把握しておけば大丈夫だろう。天気がよさそうなら、明日の夜、出てみるか」

「あ、うん!」





 というわけで、翌日の夜。

 俺たちは早めの夕食をすませて外に出た。食事はロッジ群の敷地の中の食事処でもできるけど、俺たちは材料を買いこんでロッジ内での自炊を選んだ。結局、このほうが色々気を遣わなくってすむからな。

 車のナビとスマホの地図で「星の見えるスポット」をあれこれ確認して、俺たちは出発した。

 日の長い夏の夕方は、ゆっくりと暮れはじめている。西の空が桃色からオレンジ色になり、やがて空の上からおりてきた紺色に浸食されて、山の陰が真っ黒になっていくのを、俺は助手席からぼんやりと見ていた。

 月はどこかなと思ったら、今日はまだ昇ってきていないんだそうだ。月齢もほぼ新月に近づいていて、星灯りを邪魔することはないらしい。


 「地元の人間でない者が車道からあまり離れるのは得策じゃない」という佐竹の意見で、俺たちは車を停めた場所からあまり離れないようにしながら、少しだけ林の中に入った。

 事前に虫よけスプレーは掛けてきているけど、そんなに蚊はいないようだった。たぶん、朝と夜はまだ寒いぐらいだからだろう。

 ゆっくりと空が暗くなっていくにつれて、暗い方から次第に星が顔を見せはじめた。最初のうちは「このぐらいなら俺たちの街からでも見えるかな」と思ったんだけど、それは本当に最初のうちだけだった。


「うっわ、多い……!」


 小説やなんかで「降るような星空」なんていうけど、あれとはちょっと違うかな。

 もう、空じゅうが星。ぜんぶ星で埋め尽くされている。その一個一個がはっきりしていてすごい光で。

 特に壮観なのは、やっぱり全部の星の中央に滝のように流れて見える銀河の川だった。天の川って、ほんとうに銀河系の断面図なんだなあとしみじみ思う。

 なんだか、ほんのちょっと背筋がぞわりとしてしまった。だって星がどれもあんまり、ぎらぎら、びかびかしているもんだから。ほんの少しぼんやりしているだけで、足元の地面が消えてしまいそうな感覚に陥る。それでこの宇宙空間にあっという間に吸い込まれてしまいそうな感じ。


 ……なんだか、怖い。

 自分のすべてが頼りなく、心もとない。

 だからだろう。

 気が付くと、俺はしっかりと隣に立つ佐竹の手を握りしめていた。


「あ、なんか……ごめん。ぐらぐらするみたいで」

「大丈夫か」

「ん……。あんまり星がいっぱいで、すごくて。ぼんやり見てると、足もとがふらつきそうでさ。ごめん……」

「謝るな」


 佐竹の手がさっきよりもしっかりと俺の手を握り返してきた。

 佐竹の手はしっかりとした体温を持っていて力強くて、俺は一気にほっとする。


「むこうの星も、このぐらいはあったと思うが。空の色目はだいぶ違うが、あちらには照明らしい照明もなかったことだし。まあ《兄星》はかなり明るかったがな。その時は大丈夫だったのか」

「え──」


 ぎょっとして、俺は思わず佐竹の横顔を凝視した。

 佐竹の顔はいつもどおり、ただ静かなだけだった。


の星」。

 そして、《兄星》。


 それは間違いなく、俺たちが高校生の時、望みもしないのにつれていかれたあっちの世界のことだった。


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