第8章 計測しますか?

 電車を乗り継いで、僕とリィルはとある博物館兼研究所までやって来た。移動となると必ずといって良いほど電車が登場するのは、現代社会ではそれだけ電車が移動手段として普及しているからだ。自動車で移動するよりも時間は正確だし、海がなければ船は使えない。本当は飛行機で移動するのが最も速いが、残念ながら、僕には自家用ジェット機を持てるほどの経済力はなかった。


 その博物館兼研究所は比較的山奥にある。博物館とは、もともと研究をする場所だったらしいから、博物館兼研究所という言い方はおかしいかもしれない。そこはアナログ時計を専門に扱っている博物館で、現在も数百人規模の研究員が勤めているらしい。どのような研究が行われているのかは分からない。事前に調べても良かったが、どうせ現地の人間に話を聞くことになるだろうと思って、僕は調査はしてこなかった。


 建物は塔のような形状をしていて、根本から上に向かって三段階で細くなっている。一番上には円形の大きな文字盤が付いていて、この建物自体が時計台の役割を担っているみたいだった。正面には両開きの扉があり、僕とリィルはその前に立っている。隣の壁にアーティスティックな呼び鈴がついていて、それを押して僕たちは担当者が来るのを待った。


「なんか、凄そう」なぜか潜めた声で、リィルが言った。


「凄そうじゃなくて、凄いんだよ」同様に小さい声で僕は応じる。「こんな森の中に、こんな建物があるなんて、想像もしていなかったからね」


 周囲は木々で囲まれている。並び立つ木はどれも背が高く、天井を覆って太陽の光が地面に届くのを阻害している。どれも街中に立つ電柱のように細く、大木と形容できる類のものはない。形状は松や杉に似ているが、僕は植物には疎いので、具体的に何の木なのか特定することはできなかった。


 前方でものが動く気配がして、重たい音を立てながらゆっくりと扉が開かれる。


 中から姿を現したのは、背中を丸めた小さな老人だった。片方の手に杖を持って、顎に長い髭を生やしている。僕は彼を見て仙人のようだと思った。実際に口にしたら失礼極まりないが、見た目だけではなく、立ち居振る舞いからもそうした雰囲気が感じられたのだ。


「ようこそ」白味がかかった髪でよく見えない顔で、老人は口を開いた。「どうぞ、お入り下さい」


 僕とリィルは軽く頭を下げ、老人の指示に従って進む。僕たちが館内に入ると、彼はまた扉をゆっくりと閉めて、閂状の鍵をかけた。


「道中、大変だったのではありませんかな?」こちらに向き直って、老人が言った。「こんな山奥まで、わざわざお出でなさって……。来訪者が少なくて、私たちも少々寂しい思いをしていたところです。今日はゆっくりしていくといい」


「ありがとうございます」僕は礼を述べる。


「何か、探し物らしいですな?」


「ええ……」僕は話す。「ただ、実は直接関係のないのもので……。ここで見つかる保証はないんですが……」


「色々な場所を探しておられるのですな? 研究には欠かせないプロセスだ」


「貴方も、何か研究をしているんですか?」


「私は、もう引退した身です」老人は少し笑って言った。「今は若い者に任せっきりで……。ざっと、私は管理人というところです」


 館内は自由に歩き回って良いと言って、老人は僕たちの前から立ち去った。館内の構造はシンプルだから、迷うことはなさそうだが、僕はときどき方向音痴になるので、少し心配だった。


 僕たちが今いるのはホールで、正面に巨大な時計が設置されていた。ファンタジーに登場しそうな重厚な時計で、針を動かす巨大な振り子が下部で揺れている。その上に文字盤が付いていて、今は午前十一時を示していた。文字はローマ数字で書かれている。如何にもアナログ時計の典型という感じがして、僕は非常に好感を抱いた。


 ホールの左右に階段があり、正面にある時計の上部に向かうようにカーブしている。それを上れば二階に上がれるみたいだ。建物は全部で四階建てになっている。一般的な建物と比べると、どう見ても四階以上の高さがある。一つのフロアが縦に長い構造をしているのだ。階段もずっと上まで続いていて、首が痛くなるほど顔を上げても終着は見えなかった。


「なんか、本当に凄い場所」僕と同じように頭を上に向けた格好で、リィルが感想を述べた。「私、ちょっとここに住んでみたいかも」


「ちょっとの間住むならいいけど……。ちょっと住むのを試してみて、気に入ったら永住するというのは、勘弁してもらいたいね」


「まさしく、私の憧れの場所という感じがする」瞳をきらきらと輝かせて、リィルは感想を述べる。「どうしよう……」


「いいから、まずは探し物をしよう」


 僕の言葉を聞いて、リィルはこちらを向いて睨んだ。


「また? もういいじゃん。あ、そうだ。じゃあ、今度は君が一人で探して、私は見学ってことにしない? この間は逆だったから」


「探し物だけに集中しなくていいよ。探し物をしながら、ついでに見学もするということで。まあ、とりあえず上に向かってみよう」


 階段は左右に二つあるが、どちらを使っても同じ場所に到着する。二人で別々の階段を使うことも考えたが、如何にもわざとらしい感じがしたので、僕たちは一緒に右側の階段を使って上階へと向かった。


 右側の階段を上っているから、手摺りは左側にある。その先は空気があるだけだ。手摺りを越えればホールに落下する。右側は壁になっていて、そこにこの施設の研究成果が時代順に展示されていた。研究で用いられた資料や、研究成果に対して送られた賞状などが、額縁に収めて掲示されている。


 長い階段を上りきると、踊り場のような場所に辿り着いた。どうやら、ここが二階のフロアのようだ。塔の軸は吹き抜けになっているから、円の平面全体をフロアとして使えるわけではない。階段を上った先は半円形になっていて、階段から続く手摺りが空間の境界になっていた。


 背後には巨大な時計がある。これは、先ほどホールから見えたもので、ちょうどその文字盤が僕たちの目の前にある。近づいてみると、非常に大きいことが分かった。遠くから見ると時計の一部に見えるが、こうして近くで眺めてみると、船に搭載された羅針盤のように見えなくもない。


「これも、この研究所で作ったものなのかな?」


 文字盤の前に立って、リィルが呟いた。


「さあ、どうだろう」正面を見たまま僕は応える。「そもそも、ここの研究内容が分からないからね。時計を作るのが目的なのか、それとも、すでにある時計を観察するのが目的なのか……」


「さっきの人に訊いておけばよかったね」


「教えてくれなかったってことは、ほかの人に訊けってことなんじゃないかな」僕は考えながら話す。「どこかに職員がいると思うよ。僕たちが来ることは伝わっているだろうし、博物館としてものの展示もしているわけだから、色々な人に聞いて回るのがベストだろうね」


 そういうわけで、僕とリィルは人を探すことにしたが、どこに研究室があるのか分からなくて、暫くの間右往左往することになった。右往左往するといっても、このフロアにはほかに行ける場所はない。階段はさらに上へと続いているから、上階に向かえば見つけることができるかもしれない。


 一階のホールほどではないが、二階のフロアもそれなりに広大で、行ったり来たりするのには時間がかかった。僕たちは暫くそこをうろちょろ動き回っていたが、特に珍しいものは見つからなかったので、三階に向かうことにした。


 一階から二階に向かう階段よりも、二階から三階に向かう階段の方が長い。三階から四階に向かうものが最長になるだろう。なぜここまで一つのフロアを縦に長くしたのか分からないが、おそらく、利便性よりも、芸術性を重視した結果なのではないかという気がした。多くの場合、博物館は展示する作品だけでなく、建物そのものにも芸術性が求められる。病院のような無骨なデザインで博物館を名乗ってはいけないのだ。


 長い階段を上って、僕とリィルは三階に到着する。すると、今度は半円形のフロアが三重になっていて、フロアの上に別のフロアが形成されていることが分かった。それらを行き来するための階段が別にあって、建物の中にもう一つ建物があるような構造になっている。


 三階のフロアには硝子製のケースが配置されていて、その中に様々な種類の腕時計が展示されていた。腕時計といっても、GPS機能やソーラーパネルが付いたものはなく、古典的で、どこかロマンを感じさせるなものばかりだ。中には外装のすべてが硝子でできたものもあり、明らかに芸術作品と呼ぶべきものも混ざっていた。この博物館では、実用性がなくても、その形をしていればすべて時計として扱われるみたいだ。


 三階のフロアにも人はいなかった。というよりも、先ほど出迎えてくれた老人以外に、僕たちはまだほかの人に出会っていない。館内は閑散とした雰囲気が立ち込めている。下の方から振り子の音が聞こてくる以外には、いたって静かな空間だった。


「ここにある時計って、買えるのかな」


 硝子製のケースに顔を近づけて、リィルがそんなことを呟いた。


「そういうことは、ここの人には言わないでね」


 リィルはこちらを振り向き、訝しげな目で僕を見る。


「どうして? 買ってもらった方が、嬉しいんじゃないの?」


「セールスマンならね」僕は言った。「ここにいるのは芸術家だよ」


「研究者でしょう?」


「研究者も芸術家の仲間なんだ」


 フロア内に巡らされた階段を上って、僕とリィルは階層状のフロアに上がった。上がった先は廊下が円状に続いていて、一周するともとの場所に戻ってくるようになっている。廊下で囲まれた部分が部屋になっていて、湾曲した壁の一部にドアがあった。その隣にあるインターホンを押すと、中から一人の男性が姿を現した。


「はあい」眠たげな声で応え、男性は僕とリィルを交互に見る。「どなた?」


「見学をしている者です」僕は答えた。「あの、ここで研究している人の話を聞きたいと思ったんですが……」


「ああ、そういえば、館長が誰か来るって言っていたなあ」


 館長とは、あの老人のことだろかと僕は考える。


「それで? 話を聞きたいって、どんな話ですか?」


「ここの研究内容についてです」僕は説明した。「時計に関する研究をしているとのことですが、具体的には、何を研究しているんですか?」


 僕が尋ねると、男性は少し笑って、それじゃあ、室内にどうぞと言ってくれた。彼のあとに続いて僕とリィルは部屋に入る。


 部屋は外から見るよりも狭くて、今は作業机に付随したスタンドライトが点いているだけだった。机は入り口から見て右手にある。机の後ろには様々なガラクタが置きっぱなしになっていて、散らかっているという印象を受けた。


 ガラクタの中から椅子を二つ見つけてきて、男性はそれを適当な場所に配置した。僕たちにそこに座るように促すと、自分は作業机の前にある椅子を持ってきて、彼はそこに腰を下ろした。


 装いから、僕には彼が研究者だと分かった。少なくとも従業員ではない。男性は白衣を身に着けていて、両手に布製の手袋を嵌めている。机の上を見ると、そこに工具の類が散乱しているのが分かった。何かの作業中だったのかもしれない。


 男性は部屋の明かりを点けなかった。たぶん、作業机にあるスタンドライト以外に照明はないのだろう。丑三つ時に怪談話をするような雰囲気で、僕たちは彼の話を聞くことになった。


「外から人が来るのは、久し振りですよ」男性は笑顔で話した。「ここまで来るのは、大変だったのではありませんか?」


「ええ、まあ……」僕は曖昧に答える。「ただ、ハイキングみたいで、楽しかったです」


「私たちなんて、毎日がキャンプみたいなものですからね。食材が届く日は限られているから、自分たちで調達することもあるんです。まあ、大抵は茸や山菜を採るくらいですけどね。ときどき、釣りをして魚を獲ることもあります」


「とても、研究者とは思えない生活ですね」


 僕が感想を述べると、男性は嬉しそうに微笑んだ。


「ええ。ですが、まあ、その、なんだ、日頃は頭と指しか使わないわけですから」彼は空中で何かを掴むジェスチャーをする。「そういうのが、いい運動になっているわけです」


 僕も、職業柄部屋に篭っていることが多いが、意識的に運動することはほとんどない。


「えっと、それで……」僕は本題を持ち出した。「いくつか質問してもいいですか?」


「ああ、ええ、どうぞ」男性は何度か頷く。「僕に答えられることであれば」


「ここでは、具体的にどんなことを研究しているんですか? 時計の機構についてですか?」


「ああ、なるほど……。サイトで調べて、疑問に思ったんですね?」


「いいえ、サイトは見ていません」僕は素直に答える。「サイトの方に、研究内容に関する情報が載っているんですか?」


「いいえ」男性は脚を組んだ。「載っていないと思います」


「秘密なんですか?」


「いいえ、そういうわけではありませんが……。そうですね、ここでは、特に研究する内容は決まっていないんです」


「どういうことですか?」


「要するに、時計に関することなら何でもいいんです」男性は説明した。「時計の機構を研究する者もいるし、歴史を研究する者もいます。また、時計ではなくて、建物の研究をする者もいますね。建物には時計が設置されることが多いので……。とにかく、直接時計を研究しなくても、時計に関係することなら何でもいいんです。それがここの方針です」


 男性の話を聞いて、僕はなるほどと思った。彼の言っていることが、この研究所の様々な部分から窺えるような気がしたからだ。この博物館は、決して時計を全面に出した作りになっていない。それは外見にも中身にもいえる。二階のフロアには何も展示されていなかったが、そこには巨大な文字盤があった。あれも、時計と建物の在り方を示すためのデザインだったのかもしれない。


「応用が利いて、作業が捗りそうですね」僕は感想を口にした。


「ええ、その通りです。一つで詰まっても、固執せずに別の分野に移ればいいんです。うん、まあ、その、私も、何度かそういう経験をしましてね……。それで研究費が打ち切りになるようなことはありませんでしたけど」


「ちなみに、今はどんな研究をしているんですか?」


「今は、より正確な時刻を提供するために、フィードバックのシステムを構築する研究です」男性は説明した。「時計が電波を受信する速度を世界中で計測して、それをもとに時刻を逆算するシステムを構築しています」


 僕とリィルは、男性にいくつか腕時計を見せてもらった。どれも彼の手作りらしく、色々な種類があった。三階のフロアに展示されていたものも、すべて彼が作ったものらしい。自分が特に気に入っているものを展示しているみたいだった。


「作ったものを、販売するようなことはしないんですか?」男性が作った腕時計を見ながら、リィルが質問した。


「ええ、今のところ、商品にすることは考えていません」男性は笑顔で答える。「量産するのが難しいというのが理由ですね。買えるのが限られた人だけになってしまう。腕時計にはマニアがいますから、あまり良い影響は与えられないかと。まあ、あとは、自分が作ったものを販売するというのは、気が引けるというのもあります」


「あの、下に展示されている腕時計に、硝子で作られたものがあったと思うんですけど……。……あれをもう一つ作ってもらうことはできませんか?」


 リィルの唐突な要求を受けて、男性は目を丸くした。何かフォローした方が良いかと思ったが、僕が口を開く前に男性は答えた。


「材料があればできますけど……」男性はリィルを見て話す。「あれは特別なものでして……。作るのにかなり時間と労力が必要なんです。何しろ、ええ、その、工業的な設備を使うことができないわけですから。手で一つ一つ作っていくしかないんです」


「とても、綺麗だなと思って」リィルはなぜか嬉しそうに話した。「無粋かもしれないけど、自分のものにできたら素敵だなと……」


「申し訳ありませんが、差し上げることはできません」男性は柔和な口調で言った。「まあ、でも、そう言ってもらえるのは嬉しいです。私は研究者ですが、うん、やはり、芸術的な観点から、ああいうものを作るわけですから」


 男性に礼を言って、僕とリィルは彼の部屋をあとにした。彼によると、四階のフロアにも時計が展示されているらしかった。そちらには彼が作ったもの以外にも、ここに務めるほかの研究者が作ったものや、外から輸入されたものも含まれているとのことだ。


「君が、綺麗なものに、綺麗だという感想を抱くのは、珍しいね」四階に向かう階段を上りながら、僕はリィルに言った。


「え、そう?」彼女は首を傾げる。


「いつも、歪なものに興味を惹かれるじゃないか」


「うーん、そうかな……」リィルは下を向く。「まあ、そうかもしれないけど、でも、硝子でできた腕時計というのも、それはそれで歪だと思うよ」


 リィルの言葉を聞いて、たしかにそうかもしれないと僕は思った。普通、持ち運ぶことを前提としている腕時計に、硝子という壊れやすい素材を使うことはない。そういう意味では、あの腕時計は矛盾しているといえる。


 階段を上って、四階のフロアに到着した。上を見ると、ついに円錐の母線が一点に集まっていた。


 四階のフロアには、置き時計が並べられていた。


 すべて、棚の中に収納されている。自由に触れられるものもいくつかあった。


「どうして、ここに来たの?」


 フロアの中心に立つリィルが、棚の前にいる僕に向かって問いかけた。


「さあ、どうしてだろう?」僕は彼女を見ずに答える。


「来ようと思って来たんじゃないの?」


「僕は、生きようと思って生きているんじゃないよ」僕はフランクな口調で話す。「生まれてしまったから、仕方なく生きているんだ」


「前にも同じことを聞いたよ、それ」


「僕のモットーだから」僕はしゃがみ込み、置き時計を一つ手に取る。「繰り返すことに意味があるんだ」


 リィルも僕の傍までやって来て、同じように、展示されている置き時計を手に取った。上から見たり、裏返したりして、彼女は様々な角度からそれを観察する。


 正面から見ない限り、時計を時計として認識するのは難しい。文字盤か、針か、振り子のいずれかが見えなければ、時計として認識することはできない。


 人間はどうだろう?


 何があれば、それが人間だと認識されるだろう?


 人間であるための必要条件は何か?


 人間であるための充分条件は何か?


 脳だろうか?


 指だろうか?


 心だろうか?


「私には、脳も、指も、心も揃っているよ」リィルが小さな声で言った。「だから、私も人間でいいのかな?」


「いや、それは違う。君はウッドクロックだ。人間じゃない」


「それなら、君もそう? 君も、人間じゃない?」


「僕も人間じゃない。僕も、君と同じように、ウッドクロックだ」


 リィルは僕から目を逸らす。再び手もとの時計に目を向け、今度は正面から文字盤を見つめた。


「人間に、なりたいのかな」時計を見たままリィルは呟く。「人間というレッテルを、貼ってもらいたいのかな」


「普通とは逆だよね」僕は言った。「人間は、人間ではないものに憧れる。神様だったり、怪物だったり。最近だと、アンドロイドなんかもその対象になるのかな。この世界の理から外れた、別の何かになることを望むんだ」


「それが、私たち?」


 リィルの言葉を聞いて、僕は隣に座る彼女を見る。


 彼女も僕を見ていた。


「今、逆だって言ったじゃないか」


「ううん、その世界の話じゃない」


 僕は彼女の言葉の意味を理解する。


「ああ、そういうことか。うん、それなら、そうかもしれない」


 ここに来た目的は、空白に当て嵌まる言葉を探すことだった。けれど、おそらくそれはここでは見つからない。まだ探す時間は残っていたが、僕にはこれ以上探すつもりはなかった。


 でも、僕たちは、それとは別のものをここで見つけた。


 それは、形を伴っていなくて、感覚でしか認識することができない。


 そして、きっと、僕とリィルの二人でしか共有することができない。


 しゃがみ込んで、沢山の置き時計に囲まれたまま、僕とリィルは暫くの間そこにいた。二人とも何も話さなかった。人間に残された最後のコミュニケーションは、言葉でも、表情でもなく、沈黙なのだと悟る。でも、それは決してコミュニケーションの消失ではない。黙っていても通じるものがある。理論という形を持っていなくても、僕たちは互いに情報を伝え合うことができる。


「そろそろ、帰ろうか」


 どれくらいの時間が経ったのか分からないが、やがて僕はリィルに声をかけた。


「うん」少しだけ笑って、リィルは頷く。


 階段を下りて、僕たちは一階のフロアに戻った。ホールを進んで、入り口へと向かうと、扉の前に最初に出会った老人が立っていた。


「探し物は見つかりましたかな?」


 白髪に隠れた目を細めて、老人が声をかけてくる。


「いいえ」僕は首を振った。「でも、別のものが見つかりました」


「それならよかった」老人は口もとを緩める。「ああ、そういえば、まだ名前を申し上げておりませんでした。わたくし、トーマス・エジソンと申します。まあ、今さら名乗ったところで仕方がないが……」


「どうも、ありがとうございます」僕は老人に頭を下げる。


「また会えればいいが、その機会はないでしょう」


 塔の外に出る。


 背後で扉が閉まった。


 目の前に広がる木々の群れ。


「次はどこへ行こうか」僕は尋ねる。


「行こうと思っても、行けない所がいいな」リィルは答えた。

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