第35話 花開く

「考えなしも時にはいいものだね。話がシンプルになった」

 耀二はコンビニにタバコを買いに行くと言って出て行ってしまった。めちゃくちゃ機嫌が悪かった。わたしはひとり、居心地が悪かった。

「······そんな顔しないでよ。こっちだって驚いたんだから。有結ちゃんは結局、元カレのところに戻っちゃうのかなって心配だったんだよ。実際、揺れたでしょう?」

「それはもう笑っちゃうくらい。上辺だけ取り繕った、もう自分を好きじゃない男と結婚しようなんて······。何がどうなったら、わたしが彼をもう一度信じられると思い込んだんだろう?」

「有結ちゃんはフラれた側だからね。そういう未来も望んだのかもよ。心の中で」

 確かにそうかもしれない。わたしは心のどこかで誠とやり直せる未来を夢見たのかもしれない。もう一度――。


「で、気持ちは変わった?」

「え!?」

「何となく羨ましくもあるよ。僕はゲイじゃないんだけど、耀二ひとりだけを追いかけてきたからさぁ」

 下を向く。かぁっと熱が逆流して頬を熱くする。崩した足のくるぶしがほの白く光って見えた。

「あの······んと、愛が重かったです。なんていうかあんなに重さを伴って誰かを愛するなんて······わたしが言うことじゃないけど一生懸命なんだなって。それがわたしの胸に全部のしかかってきた時、受け止めきれるかなって心配になりました」

「受け止めてきたわけだ」

「······意地悪言わないでください」


 座卓の上には高級そうなメロンの箱がふたつと、ビールの缶が二本、乗っていた。少し酔ってきたのかもしれない。わたしも葉山さんも。そして葉山さんは今晩お泊まりだな、あとで布団を敷こうと思う。

 葉山さんは天板にうつ伏せになって「いいな」と言った。

 どれくらい本気なのかわからない。ほんのり頬が赤くなった彼の瞳は潤んで見えた。


「じゃあ、引っ越しごっこももうお終いだね」

「はい。そこにあったのは思い出という名の残り火だけで、本当はなんにもなかったんですよ、もう。あの人に満たされてわかったんです。わたし、空っぽだったんだなって」

「残り火でも飛び込む虫もいると思うよ」

「その手前で気づいてよかった。残り火に身を焦がしちゃうところだったから」

 わたしは笑った。葉山さんはやさしい目をしてわたしを見た。耀二の受け皿として認めてもらえたのかもしれない。


「二階にさ、ちょっと行ってみようか? アイツが帰るまでに急いで」

 あ、ちょっと、と言う間に手首を引かれて無理やり立たされた。二階に? わたしはさっきまで二階にいたというのに?

「違うよ、こっち。情事の跡は見たくないな」

「こっちって何があるんですか?」

「ほら、アトリエだよ」


 そこにはたくさんの油絵がイーゼルに、壁に、床にあった。独特の匂いが鼻をつく。

 部屋から入って一番いいところに二十号くらいの大きな絵があって、そこには底なしの海が描かれていた。ぐるぐると渦を巻いて何を飲み込んでいくのか、それはわからなかった。ただ圧倒的な存在感でわたしに押し寄せてくる。潮の音まで聴こえそうだ。潮風にあおられてどこかに飛ばされないよう、足を踏ん張る。

「有結ちゃん、そっちじゃないって。その絵はね、仕上がったらM社に引き取られることになってる。大きい会社でいろいろやってるけど海運事業部があるからね。そこに飾りたいそうだよ。耀二の絵を気に入ってくれた人がたまたまいてね、この前も一枚納品したんだよ」と呼ばれた先にはF6号くらいの小さいキャンバスがイーゼルにあって、そのモデルは······わたしだった。


 斜め下を向いたわたしの周りには緑が萌え出て、まるでわたしから生えているかのようだ。いつかの、あの絵に似ている。

「見せたことは内緒だよ。僕は仕事柄ここにちょくちょく来るんだけど、ある日見つけたんだ。あれはいつだったんだろう? とにかく隠すように置いてあるから大切な絵なんだなって思ったんだよ。見たら有結ちゃんなんだもん。わかりやすいよ、アイツ」

「こんなにキレイじゃなかったけど、わたしが中学の時に描いた絵を思い出します」

「僕も写真で見たけどさ、やっぱり本物の方が活きがいいよ。若さだね。有結ちゃんの勝ちだ。でも耀二のこの絵も、これから更に手が入って······大事に少しずつ描いてるんだよ。いい絵になると思う。そもそも耀二は人物画は描かないしね」

「え!?」

「そういう意味ではすごく価値が高い」


 とりあえず帰ってくる前に階下に戻ろうと、ふたりで忍び足で階段を下りた。

「おい」

 うわっ、とか、きゃっとか言ってわたしたちは仰け反った。いたのだ、階段の下に。

「耀二、驚かせるなよ」

「お前こそ何やってるんだよ。有結を押し倒したらタダじゃおかねぇぞ」

「違う、誓ってそんなことはしない」

「······わかってるよ、帰ってきたらアトリエに明かりがついてたからな」

 何やら良くない空気だった。

 この状況を何とか打破したいと思ったところに声がかかった。

「どうだ、いい絵だったか? お前に見せるのは初めてだからな。あの絵でよかったよ」

「はい。あの、海運事業に渦巻く海でいいんですか?」

「いいんだ、あれが海のイメージだ」

 こそこそっと葉山さんが耳打ちしてくる。

「耀二は子供の頃、海で溺れたんだって」

「スイミングには行けるのに海は怖いの?」

「海では決して泳がない。プールがいいよ」

 ほれ、とタバコを投げてくれる。葉山さんが一服する前にメロンを切るよ、と台所に行ってしまった。


「……見たんだろう? アイツ趣味悪いからわざと見せたんだ。この日に」

「葉山さんは悪くないと思うけど……」

「お前のあの絵、あれから十数年経ったお前を描こうと思ったんだ。萌出る緑からは色とりどりの花が開く。生命の花だ。夢を見て諦めない、お前の花だ」

 ぶら下がるように背の高い彼に抱きつく。そのままの姿勢でしばらく黙っていた。

「ありがとう、先生」

「先生は卒業したんだろう?」

 心臓の音がする。鼓動は強く脈打って、生きていることを実感させてくれる。厚い胸はわたしを守ってくれる。そして太い腕はわたしを決して離さない。

「海で溺れたら助けてくれる?」

「一応、人より泳げるからな。お前が溺れるのは俺が溺れるのと同じだ。助けに行くよ」

 チュ、と耳元に小さなキスをくれる。

 だからわたしはやさしく囁いた。

「ありがとう、耀二」って。

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