第18話 背徳心

 家に帰ると、その大きな空洞はいままでと違って見えてわたしを怯ませた。

 こんな宙ぶらりんの気持ちのまま、教師とキスをしてしまったことを家はまるで全部知っているかのようで、初めてキスをした帰りのお母さんのようなプレッシャーを感じた。

「お前の部屋に荷物運ぶから」

 はい、と答える声はいつも以上に小さかった。

 なぜなら明かりの下ではっきり見えた彼は大きくてしっかりした大人だったから。

 このまま流れに乗って付き合ったりするんだろうか、と自分に問うと、それもいいんじゃないの、と無責任な言葉が返ってきた。そんないい加減な気持ちじゃ全然良くないよ、ともうひとりのまともなわたしが答えた。

 そうだ、彼はいろんな意味で恩人だ。

 そしてわたしの気持ちはまだ誠にある。心はまだわたしから完全に剥がれていない。繋がりがある。何年も一緒にいたのだから。


「ピザはなにが好きなんだ?」

「本当に頼むんですか?」

「たまにはピザにビールもいいだろう」

 ……飲めないくせに。

 メニュー表を見ながら教師は顔を上げなかった。声が硬い。

 キスしたことを後悔しているのかもしれない。

 確かにわたしもどこかで後悔している。たったキスひとつでいろんなバランスが崩れていく……。

 なし崩し的にここに居続けるのが正解なのかわからなくなる。関係を仕切り直すなら、一度離れるという方法もあるんだ。


 この家でNHKのニュース以外観たことがなかったけど、驚くべきことにネット経由の映画サービスが入っていた。きっと葉山さんのセッティングだ。教師はもちろん知っていたようで「映画でも観るか」と聞いてきた。

 わたしたちはアメリカ軍で戦争中、現地に置いてきぼりになってしまったひとりの兵士を迎えに行くチームの映画を観た。何でも良かったのだけど、トム・ハンクスの映画が観たかった。

 トム・ハンクスが真面目な顔をした時の瞳は、いままで気づかなかったけれど教師のそれとよく似ていた。トム・ハンクスはそうは言わなかったけど「んん」という時の顔も。

 ちら、ちらとテレビの光を反射した彼の顔を見ながらピザを食べた。――後悔しているのかもしれない。その横顔はわたしにはそう言っているように見えた。「金沢、何も無かっただろう?」と。


 ちくちく胸の奥が痛む。


 いまも誠は苦しんでいる。それとも彼女の胸の中にいるのか? それを思うと嫉妬という業火に燃やし尽くされそうになる。

 もし彼女が誠を捨てるとしても、誠はもう彼女のものだ。わたしにすがって母性を求めた時点で何か微妙なバランスで保たれていたものが壊れた。そう、壊れたんだ――。

「先生、映画止めて」

「あまり好きじゃなかったか」

「ううん、違うの」

 わたしは立ち上がると彼の前に立ち、教師の首に腕を回してぎゅうっともたれかかった。誰かが必要だった。そして確かめたかった。さっき感じた何かが本物なのか……。

「重い」

「命の分です」

 吐息が微かに耳元を横切る。この人は男なんだと自分に刻み込む。

 教師はなにも言わず、微塵も動かなかった。わたしの方が微かに震えていたかもしれない。

「やめなさい、そういうことは」

「教師ぶるのもやめてください」

「わかった。間違いだったよ。傷ついているお前に……」

「そういうのが教師ぶった話し方なんでしょう? じゃあなんの意味もなかったってことですか?」

 んん、とひとつ唸った。わたしは子供の悪戯のようなことはやめて、自分の席にすとんと座る。

 壁掛け時計がボーンと鳴る。もう何でもいいかな、という気がしてくる。こんなことで教師を追い詰めてもいいことはない。それはわたしに返って、そしてわたしに永遠の傷をつける。

 いまさらキスひとつで喚く年齢としでもないし、あれはあれって処理してもいいのかもしれない。

 つまりさっきはひとりで盛り上がっちゃったけど……あれが教師流の慰め方なのかもしれないし。


「『先生』って呼ぶの、やめないか? 背徳的な気持ちになる。実際、教師をやめてずいぶん経つし」

「じゃあ、『森下さん』?」

 教師は冷めてしまったピザを一切れ取った。それを大きな口で咀嚼してしまうと「耀二でいい」と言った。そしてそれ以上、お互いの関係を変えてしまうようなことは言わなかった。

『耀二』と口の中で呟く。

 耳聡みみざとい彼は止まっているトム・ハンクスの前でわたしを振り向いた。ふたりはまるで同じ表情だった。

「わたしこそ名前で呼んでくれないと、50/50《フィフティフィフティ》の関係になれないでしょう? でも『先生』は『先生』ですよ。あの、年上の男性をちょっと名前ではすぐには呼びにくいし」

 ふぅ、と彼はビールの缶を持ち上げて「わかったよ、『有結』」と言った。

 わたしの名前を覚えていたんだ、と小さな感動を覚えた。


 その後はおとなしく映画を最後ラストまで観た。映画はトム・ハンクスらしいエンディングを迎えて終わっていった。「今度は戦争ものはやめよう」とふたりの意見は一致して、一服した。

「先生はどうしてわたしのこと、そんなに覚えてたんですか?」

「お前だって覚えてたじゃないか」

「人数比の問題ですよ。教師が生徒を覚えていることの方が圧倒的に難しいでしょう?」

 彼は深く煙を吸い込んだ。そうして天井のはりを見つめていた。

「お前の描く絵が好きだった。俺の理想のひとつだった」

「……それはどうも」

「いまはどんな絵を描くのか知らんけど、人間そう変わるものでもないだろう。ということは、お前っていう人間の本質は変わってないってことだ。つまり、つまりその、俺はたぶんお前のいま描いている絵も好きだと思う」

 がんばって言ってくれてるのに口元が笑ってしまった。

 たったこれだけのことで、今日あった酷い出来事がすべてチャラになるかというとそんなことはない。だけど少し、ほんの少し救われる。お釈迦様が気まぐれで蜘蛛の糸を垂らしてくれたように、いま、目の前にキラキラ光る細い糸が風に揺れていた。

 わたしはそれに素直に頼っていいのか、まだ半信半疑だった。蜘蛛の糸は引っ張ったら切れてしまうかもしれない――。


「先生もわたしに絵を見せてくれないとだめですよ。わたしは一度も先生の絵を見てないもの」

「後でな」

 ふーっ、とタバコの煙を吸ったり吐いたり。ふたりの呼吸が行ったり来たりする。

「ふたりでタバコやめるか」

「なんでそうなるんですか!?」

「いや、お前の体が心配になった」

 持っているタバコの煙だけがもうもうと上がる。彼はずるいことにそれ以上は何も言わなくて、黙ってまたタバコを吸っていた。今日は甘いデザートは出てこないようだった。


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 kana

 To Narumi Hayama

 突然メールしてしまいごめんなさい、金沢です。

 先日はお世話になりました。

 今日はお願いがあってメールしました。

 葉山さんのご都合の良い日で構わないのですが……


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 Narumi Hayama

 To kana

 耀二の世話をしてくれてありがとう。アイツも堅物だから苦労することもあるかもしれないけど、しばらく付き合ってあげて。

 それで例の件だけど……


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