第15話 はじめに戻る

「お前の荷物重すぎるよ、まったく。俺は普段、絵筆より重いものは持たないんだ。手を痛めるだろう?」

 と言いながら、教師の足取りは軽かった。鼻歌でもうたいそうな勢いで緩やかな坂道を難無く上っていく。荷物を持つ腕に筋肉の筋が浮かぶ。わたしの方が先に息が切れてしまって、荷物持ちすぎなんだよ、と怒られる。

 結局荷物は全部、教師が持つことになった。


「この先を曲がったところにスーパーがあるんだ。あとで買い物に来よう」

 わたしは頷いた。

「もう少し行くとうちからすぐのところにもひとつスーパーがある。そこは急を要する時にしか使わない。ちょっと高いんだよ」

 もう一度頷いた。

 果たしてここでどれくらい暮らすのか、途方に暮れてしまうけれど、家事くらいはやらないとなぁと思う。

 例えば灰皿の掃除とか。すぐに一杯になりそうだ。

 そのままにしておくと葉山さんに怒られてしまう。葉山さんはあの家のお姑さんだ。


 古い家に着いて、荷物をとりあえず下ろす。教師がみんな部屋に運んでくれる。

「いっしょくたでいいんだよな?」

「はい、手当り次第いっしょくたに詰め込んできたので」

 教師と並んで、部屋の前の縁側に座った。

「あちーな。まだ六月だろう? 梅雨はどこに行ったんだ。最近のアイツは気まぐれだよなぁ」

 それには答えず、頬をかすめる風に目を細めていた。

 なるほど、縁側の向かいには小松菜が生えていた。蒔く時期をずらしたらしく三列に並んで育っている。その隣には添え木をされたミニトマト。インゲンも育ってきていた。

「葉山さんは本当にまめなんですね」

「そう思うならお前が水やりしろよ。後ろの朝顔なんかも全部花までアイツが植えていったから」

「……はぁ」

 水やりはいいけど蚊に刺されそうだな。いまも夕暮れ、夜が足元に忍び込む時、ふたりの足元には渦巻き蚊取が置かれていた。

 蚊取り線香が煙を吐き出しているのと同時に、わたしたちは一服した。

「なかなか美味そうに吸うな」

「はい」

「いつ覚えた?」

「大学で。みんな吸ってるんだもん」

「だよなぁ。昔はうるさく言われることもなかったから本当にみんな吸ってたよ」

 そこまで言うと教師は黙った。


 時間はゆっくり流れて、悲しみもゆっくりそろりそろりとやってきた。それをため息と共に吐き出す。

「今日はゆっくりしろよ」

「はい、と言いたいところなんですけどまだ仕事が残ってて」

「好きにすればいいさ」

 よっこいしょ、と教師はタバコ片手に立ち上がった。重量感のある立ち上がり方に縁側がみしっと言った。

 この人と数日でも一緒に暮らすのか――と、不思議に思う。人生のうち、たった一年だけすれ違っただけの人なのに。


 誠からは何度も何度も何度もLINEが入っていた。

 内容は似たものばかりで、わたしの目の前には誠じゃなくて舞美さんばかりがチラついた。胸がキツくなる。

 彼女は誠の『真実ほんとう』を知らない。それはわたしにとってはアドバンテージなのだろうけど……早く誠を孤独から救ってあげてほしい。誠が好きなのは舞美さんなんだ。

 そうすればこんなに何度もメッセージを送ってくる必要はなくなるから……。


 荷解きを必要な分だけやってしまい、頃合を見計らって教師と買い物に行く。

 ミニトートにエコバッグと財布とスマホを入れて家を出ようとすると、ちょっとの買い物に大した荷物だな、と笑われる。何度見ても必要最低限だったけど、教師を見たら手ぶらだった。要はポケットに全部入れてしまっているということだ。

「女子はそんな訳にはいかないんです」と返すと「めんどくさい生き物だな」と大きな声で笑われて、私は頬を膨らませた。教師は女を知らないんだろう。

 事前にあるものを見てこなかったので、適当に買い物をする。

 今夜のおかずはどうしようか、と話し合う。あーだこーだと話し合う会話のリズムが楽しい。

 思えば誠との生活は惰性に満ちてしまって、そういう会話は省略されがちだった。「何にしよう?」と聞けば「なんでもいいよ」とか「あるものでいいよ」とか、いつもそんなのばっかりで。

 誠は食事にあまり重きを置いていなかったし、それだからわたしの料理の腕も上がらなかったのかもしれない。……なんだか寂しい。

「あ、今日は疲れてるよな。俺が簡単に作るよ」

「いえ、そういう訳じゃないんです。ただ……」

 涙が滲みそうになって慌てて俯く。

「……ハンバーグにしましょう。ちょっと豪華な感じもするし、マッシュポテトも作ったらいいんじゃないかな? スープはキャンベルのでいいですか?」

「ハンバーグ作れるのか?」

「家庭科でやりますよ」

 んん、と教師は唸った。

「俺でもできるか?」

「大抵の人はできるんじゃないかな?」

 ――とは言ったものの。


 教師のハンバーグは玉ねぎのみじん切りが通常の二倍サイズだし、肉は捏ねて捏ねましたという力の入りっぷりで、成形に至っては教師の手のひらサイズの恐ろしい大きさのものが出来上がったので、わたしが半分ずつに分けて作り直してしまった。

「なんだお前、ずいぶんとかわいらしいな」

「先生、陶芸、取らなかったでしょう?

 捏ね方がなってないもん」

 そんな会話をしながらハンバーグを焦がし、スプーンで潰してもらったジャガイモはゴロゴロで、それなのに畳み掛けるような会話の絶えない不思議な食事だった。

「タバコ買ってくる。お前は?」

「じゃあ一緒に」

「買ってきてやるよ。夜中に女がふらふら出歩くな」

 そう言うとそのまま古びたビルケンを引っかけて、ブラッと出て行ってしまった。


 静かな夜だ。

 教師ひとりがいないだけで夜の静けさがどんどん家の中に満ちていく。その重苦しい夜の空気に押しつぶされそうになり、わたしはおののいた。いまはひとりになるのが怖かった。

 振り子時計が二十二時を告げる。その重い音が家中に響き渡り、自分がいかに孤独かを実感する。

 大きな家はわたしにのしかかってこようとしていた。わたしは息苦しさにタバコを出そうとして、空だったことを思い出す。タバコのパッケージは簡単に片手でくしゃくしゃになった。


「ただいま」

 特になんの感慨もない声で教師は帰ってきた。腰を上げて出迎えようかと思ったけれど、そんなにも待っていたのかと思われたくなくて思い留まった。

「シュークリーム買ってきた。ツインホイップで良かったか? 世の中にはカスタード派とホイップ派もいるからな。シュークリームくらいは別腹だろう?」

「先生、甘いもの好きですね」

「おう。昔、禁煙しようと思って代わりに飴とかチョコやらガムなんかを食べようと思った時期があってな。禁煙は失敗したけど甘いものに目覚めたわけだ」

 エコバッグを持ち歩かない教師はガサガサとビニール袋からシュークリームとタバコを出した。

 思った通りシュークリームはハンバーグの後の胃には重くて、明らかに食べ過ぎだった。

 教師を見ると何でもない顔をして美味しそうにシュークリームを口にしていた。

 確かに入るところが違うんだなぁと思う。

 ――それとも。甘いものばかり出してきて、気を遣ってくれてるのかしら?

 だとしても返せるものはいまはない。とりあえず仕事だよなぁと最初に戻った。

 iPad Proを出してきてもラフくらいしか描けない。やっぱり愛機がないとどうにも思うようにならない。

 とりあえずお絵描き程度に描いて、SNSにアップする。そして『しばらく仕事の依頼は受けられません。連絡はDMで』とプロフを書き換える。

 ……まいったな。さすがにパソコンを腕で運んでくるわけにはいかないし。相手は精密機械だし。仕方がない、向こうが仕事の時に行って作業をして、いまの仕事に区切りがついたらパソコンを一旦ここに持ってくるしかないな。

 めんどくさいけど仕事道具だし。

 方法を考えないといけないな、と思いながら眠りについた。



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