第13話 引き算

 なぜか家まで教師が送ってくれた。

 ふたりでなんの話をするともなく、ぺたぺた歩いて、だ。

 特に楽しくはなかったし、特に教師は静かだった。

「俺の家と駅を挟んで対角線て感じだな」

「そうですね」

「けっこう遠いな」

「そうですね」

「来る時は連絡してこいよ。途中まで迎えに来る。葉山が来てたら車もあるし」

 ふふっと笑ってしまう。

 家出したわたしが、葉山さんの真っ白な高級車に乗る。なんだか変な話だ。まず有り得ない。

 ピカピカでどこに足を置いたらいいのかわからない助手席で、わたしはきっとその時泣きじゃくってるんだろう。笑える。

「先生の話は面白いですね」

「馬鹿だからな」

 ツッコミどころのない台詞に答えに窮する。

「これから戻ってどうするんだ?」

「とりあえずいま請け負ってる仕事を片付けます。プライベートはその後です。とりあえずバイトを探せたらいいんですけど。もう日にちが十日程度しかないんで、急がないと」

「金がない時はうちに来ればいい。それでゆっくり自分に合った仕事探せよ。人生、生き急ぐのは良くない」

「そうですね。先生のお宅にお世話にならなくて済むようにがんばってみます。じゃあ、そこなので」

 教師は大きな手を振って元来た道を帰って行った。緩やかな坂道に吸い込まれるようにその背中は見えなくなっていった。


 よし。

 とりあえず誠は仕事に行っているはずだし、その間に自分の仕事を済ませないと。何しろ教師の家に行くと言ったって、あの家にこの仕事環境は無いわけだからできるだけ早く、いまの仕事を済ませないと。

 アパートの階段を上ると扉の前で少し躊躇する。カバンから鍵が上手く出てこない。それはわたしの気持ちそのままのような気がして……とりあえず仕事を終わらせるんだと自分に喝を入れる。


 入った部屋はテーブルの上が変わっていること以外はなにも変わっていなかった。

 テーブルの上にはそこにあったコロッケの代わりに食パンを乗せたらしい皿がコーヒーカップと共に乗せられたままだった。

 仕方ないなぁと片付けると、三角コーナーに昨日のキャベツとコロッケがそのまま捨てられていて、目を背けたくなる。あれはいまのわたしと誠の醜さだ。エゴとエゴがぶつかり合って、滅茶苦茶になった。究極、生ゴミになったんだ。

 皿を洗いながら「生ゴミになったわたしたち」という妙に語呂のいいフレーズが頭を離れず、気がおかしくなりそうだった。

 昨日から着ているTシャツとデニムを洗濯機に突っ込んで、軽くシャワーを浴びる。やっぱりお風呂は他人の家だと変に緊張してしまい、自分の家の狭い風呂の方に軍配が上がる。

 晴れていたはずの空が涼しい風と共に曇ってきて、Tシャツを吊るしたハンガーが左右に風に泳がされる。

 ――疲れた。

 教師には格好のいいことを言ってしまったけど少し寝よう。Tシャツが乾くまでの間――。


 ぽたぽたと心地いいリズムに身を任せていた時、雨が降り始めたことに気づいた。急いで洗濯物を取り込む。

 危ない、たくさん洗濯しなくてよかった。

 ふぅ、と安心して立ち上がり、昨日の残りの麦茶を飲む。冷蔵庫に入っていたそれはキンキンに冷たくて、喉を冷やした。少し気持ちがシャキッとして、仕事に入る。


 まずはアイコン。

 元気のいい色合いでよろしくされたので、オレンジベースで色を乗せていく。オレンジに黄色。ガーベラかタンポポかといった感じに仕上がってかわいい。これから夏になるのでいいんじゃないかな、と思う。

 出来上がったことと、入金の説明を再度して、挨拶をつけて送る。でもこれはサンプル。サンプル印をつけての送付。


 それから例のめんどくさい人のラフから線を起こしていく。ラフは鉛筆なので、必要な線だけを拾う。紙でやる時もあるけれど、今回はスキャナーで読み込んで、新しいレイヤーに線を拾っていった。

 納期が遅れているので少し早く仕上げたい。けど妥協はしたくない。

 そのギリギリのところを狙って今度は色をつけていく。出来上がりまでは一日で上がらないので、できたところまでを添付して挨拶を送る。人にもよると思うけれど、途中経過の報告は大切にしたい。

 描いてくれてないんじゃないか、と心配させたくないからだ。

 それは、めんどくさい人でも同じ。

 要求はめんどくさくても、この人はわたしの絵を気に入ってくれているのだから大切な顧客のひとりだ。


 ここまで描いてコーヒータイム。雨は気まぐれに降っただけのようで、空は夕焼けの準備を始めているようだった。

 コーヒーの後、ベランダでタバコを吸いながらこれからのことを考える――。

 直近ではいまの仕事を終わらせること。どこに越すにしても、すぐにいまの仕事環境を整えられるかわからないし。イラストの仕事は終わらせる。

 それからバイトを探す。

 なんでもいいからとりあえず食べていけるようにならないといけない。

 アパート。

 怒られるの承知で親に頭を下げて保証人になってもらうのがいちばん妥当だよな……と考える。プライドより大切なものがある。

 でも誠と別れたと話したら、話がややこしくなりそうだ。父も母も誠をとにかく気に入っていたし、わたしが意味もなくこの街にいるのをいい顔はせずとも許したのは誠がいるからだ。

 なんで結婚しなかったの? ――これはそば屋の奥さんじゃなくても絶対、聞かれるだろう。そしてそれが次第に誠の悪口になって……。

 ふーっ。

 タバコの煙はいつも通り風に吹かれた。


 一年で一番昼の長い日がもうすぐ来る。

 ベランダに置いた本来なら植木を置くための中途半端な高さの椅子にひとり座って考え事をする。もしくは考えることをやめられない。頭から消えてくれない。

 こんなことがあろうとは、と、数日経っているのに考えてしまう。······こんなことがあろうとは。


 あの、不器用そうな指がこの髪をいてくれることもない。

 ベランダの柵に干された布団のようになっていると、解いた髪が視野を遮る。髪、切ろうかなぁと考える。

 別に何かの願をかけているわけでもないし、願をかけるならいまから伸ばした方がいい気がするし、願をかければ戻ってくるっていうのはちょっと違う気がするし。

 神様の神通力で戻ってきた誠は、それはもう誠じゃない。誠’まことダッシュだ。

 わたしが欲しいのは誠で、誠以外の何者でもない。

 慣れ親しんだ肌や指先、大きさを比べあった足の裏、刈り上げたばかりのうなじ······。

 指折り数えたらキリがない。よそう、そういう引き算の考え方は――。


 鍵の開く音がした。身構える。

 風が部屋の中から急にひゅっと吹いて、レースのカーテンとわたしの髪を巻き上げる。振り向いたその先に······。

「心配したじゃないか!」

 靴を蹴散らすように脱いで、誠はバタバタと重い足音を立てて近づいてくる。重いドアが音を立てて閉まる。そうしてベランダの柵を背に立ったわたしの襟元を掴んで揺さぶった。

「心配したじゃないか。夜のうちに帰ってくると思ってたのに」

 抱きしめられて体が柵にもたれて反り返る。このままだと頭から真っ逆さまだ。隣のおじいちゃんの丁寧に並べてある盆栽の上に落ちてしまう。

 彼の首に手を回して、その後ろ頭を撫でてしまう。

「······泣いてるの?」

「泣いてるのは有結の方だろう?」

 つまりこんなに大人になったのに、わたしたちは抱き合って泣いていた。なんだかかわいそうになってしまって、強く抱きしめてしまった。

 そうだ、この人は孤独に弱い人だった。

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