第3話

 母のお誘いを丁重に断った私と達也は、荷物を居間に置いて、そのまま父の部屋へと向かった。

 二階の一番奥の部屋。

 この部屋の中には、私にとってはそんなにいい思い出が詰まっていない。入る前に深呼吸をして、ドアのノブに手をかけるが、やはり躊躇ってしまう。

「琴、大丈夫か?」

 達也が声を掛けてくれた。傍目から見ても、私は相当緊張しているのだろう。

「うん、大丈夫」

 無理矢理に微笑んで見せると、少しだけ力が沸いて来た。

 ドアのノブを回すと、ドアはあっさりと開いた。

 途端に埃っぽい空気が廊下に流れ込んで来る。それと同時に、忘れようも無い、父の部屋の空気が、私の中に流れ込んで来る。

 一歩足を踏み入れると、父の空気を媒介にして様々な記憶が瞬時に頭を巡った。

 懐かしいとは思えなかった。

 未だに私の中には、私が思うよりも根強く、父の記憶が残っていたのだ。

「立派なピアノだな」

 達也は気後れする事無く、私の横をすり抜けて、部屋の中央に鎮座するピアノへと近づいて行った。

 大丈夫、私はもう一人じゃ無いから……。

 自分に言い聞かせながら、達也の後を追ってグランドピアノへと近づいた。

「これ、いくら位すんの?」

「さぁ、私が物心ついた時には、もう家にあったもんだし。でも実際買ったら、ん百万は下らないんじゃない?」

「はぁ、やっぱりそん位はしちゃうんだな、いい音出そうだもんな」

 関心したような相槌を打ち、達也はグランドピアノに手を触れた。こう言う時、値段の話をしておいて、そこから音に結びつく会話に流れる、達也の価値観が私は好きだ。きっと何も知らない人間なら、値段の高さに驚くだけで終わっているだろう。音楽の流れる家の生まれでは無いのに。

「弾いてみる?」

「俺、ピアノ弾けねぇよ。琴、弾けるんだろ? 弾いてみてくれよ」

「冗談。私はもうピアノはやめたのよ」

 弾き続ける理由も、とっくに無くなったし、と言う言葉は飲み込む。

「琴、それじゃお母さん、教室の方行くから、後宜しくね」

 部屋に顔を出した母は、それだけ告げて去ろうとした。

「ちょっと待って!」

 慌てて呼びとめる。

「何? あんまり時間無いのよ、頼んだわね」

「聞いてないんだけど。お母さん、今日教室あるの?」

「あら、言って無かったかしら?」

「聞いて無いよ。大体、何したらいいか分かんないんだけど……」

「そうそう、スコアとCDは捨てないでね。残った物をあんたが適当にしてくれたらいいわ」

「適当にって……」

「あんたが要ると思った物はとっておいて、残りは全部捨ててくれていいから」

「……本気で言ってる?」

「いいのよ。お母さん、全然捨てられなかったから、あんたに任せた方がよっぽどいいのよ」

「……洋もそれでいいって?」

「あの子も今忙しくなっちゃったからね」

「確認してないの?」

「スコアとCDは取っておくって言ったら、じゃあ、琴に任せるって」

「そんな……」

「いいから、親孝行だと思ってやんなさい。達也さんもいる事だし、きっとすぐ終わるわよ。部屋の中に段ボールいくつか置いといたから、適当に使ってね。それじゃ、お母さんもう行くわ。後よろしくね」

 そう言うと母は、私の横をすり抜け、部屋を覗きこんで、「それじゃ達也さん、宜しくお願いしますね」なんて高い声で達也に挨拶をするのだ。

 再び私に、「じゃあね」と声を掛けた母が階段を降りて行くのを見ながら、私は頭を掻き毟った。

「なんなのよ、全く……」

 零しながら部屋に戻ると、達也は既に畳まれた段ボールを見つけたようで、それを手際良く箱状に戻していた。

「お母さん、教室って言ってたけど、習い事でもやってんのか?」

「違うわ。お母さん、ずっと子供に教えるピアノ教室やってるの。教室って言っても、出張で相手の家に行って教えてるんだけどね」

「すごいな、本当にピアノ一家なんだな。確か、お兄さんも有名なピアニストなんだよな?」

「有名なってよりは、父さんが死んで一気に有名になったって感じね。実力もそこそこあったし、そこに話題性が乗っかったってだけよ」

 実際、洋と父さんのピアノを聞き比べたら、その出来は天と地程の違いがある。それはきっと、洋本人も分かっているのだろう。だからこそ、今はがむしゃらに頑張っているのかもしれない。いつ飽きられてもいいように、稼げる時に稼ぐつもりなのかもしれない。

「なんだ、私と一緒じゃない……」

 流石は、双子と言うべきだろうか。

「何か言ったか?」

「ん、なんでも無い。さっさとやっちゃいましょ。とりあえず、ピアノ以外全部捨てるわ」

「全部って、お前」

 部屋の中をぐるりと見渡しても、ピアノ以外の目ぼしいものは何も目につかなかった。どこかの国の置物とか、父さんの愛読書なんかもあったが、思い出の付加価値を取っ払った段階で、それらは不必要な物に成り下がる。ましてや、全権を与えられたのは、親の希望から逃げ、父と対立し続けて来た可愛くない娘だ。希少価値もプレミアも、私のフィルターには存在しない。

「本当に、全部捨てちゃっていいのか?」

「欲しい物があったら持ってってもいいわよ。ただし、結婚しても、私の目に留まる所には置かないって条件でね、それと……」

 部屋の隅にある、大きな本棚に目を移す。

 その本棚には、父さんが集めた貴重なスコアや、名の知れた指揮者やピアニストのCDが詰まっている。結局この部屋の中で、ピアノ以外で価値のあるものなんて、この棚の中に収まっている物位だ。父にとっては大事な物だったようで、一度として手を触れた事は無い。手を触れた洋に対し、父が激怒しているのを目にしていたからだ。その価値も、クラシックに暗い人間には分からない程度の物に過ぎないだろう。

「つまり、要は力仕事って事よね」

 溜息が出なくも無かったが、仕方ない、乗りかかった舟だ。達也がついて来てくれて本当によかったと、心から思った。

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