ピアニッシモ

泣村健汰

第1話

「それは、絶対に帰らないと駄目だ」

 土曜日の昼下がり。駅前のカフェは中々の賑わいを見せていた。朗らかに会話を楽しむ人、静かにコーヒーの香りを楽しむ人。そんな中、達也は真剣な面持ちで、私に言葉を返して来た。

「ん~、でもなぁ……」

「でもとかじゃない。何なら俺も付き合うから」

「いいよ、別に……」

「いや、琴一人だったら絶対行かない。だから俺も一緒に付いてく。そろそろ一度ご挨拶に行かなきゃって思ってたから、丁度良かったよ。明日の何時にする?」

「大丈夫だったら、一人で行けるよ……」

 達也の言葉を口では否定するが、その実、自分一人では確かに、だらだらと考えた挙句、結局行かずに終わるのだろう。


 昨夜の事である。

『琴?』

「お母さん、どうしたの?」

 母からの突然の電話を受け、私は少なからず動揺した。

『あんた、全然連絡してこないんだもの。明後日が何の日か分かってる?』

「明後日?」

 壁掛けのカレンダーに目を移す。赤い文字を見て、日曜日だと理解した直後、ああ、そうか、と胸の内で嘆息した。

 父の命日だ。

「もう三年になるんだね」

『そうよ。早いわよねぇ。あんた、帰って来るの?』

 帰って来るんでしょ? と言う、言葉にしなくても伝わって来る重圧が、母の言葉からは感じられた。

 今抱えているカット絵の締め切りは来週だ。そこまで余裕がある訳では無いが、言い訳に出来る程切迫している訳でも無い。

「ん~、まだ分かんない」

『まだって事は無いでしょう? もう明後日なんだから、帰っておいで』

「別に私がいなくたっていいでしょ?」

 死んでから三年と言うのは、実に中途半端な時期だ。一周忌と三回忌を済ませ、特に何かをやる訳では無いし、次の七回忌には随分時間が開く。心の穴を埋める程の時間には、まるで足りないにも関わらず……。

『そう言う問題じゃないの。もう三年でしょ? そろそろ、お父さんの遺品、整理しようと思うのよ。琴も手伝いなさい』

「洋は?」

『洋も、夕方に成田に着くらしいから、夜にはこっちに寄るって。ところであんた、仕事の方は上手くいってるの?』

 触れて欲しく無い話題を振られ、思わず息が詰まった。

「まぁ、そこそこね」

『今更口を出したりはしないけれど、もっと普通の仕事も一杯あるんだから』

「普通って?」

『事務とか経理とか。もっと安定した仕事も一杯あるじゃない』

「今時大手の会社だって、潰れたりリストラにあったりするんだから。それに、仕事に困ってる訳じゃないし、割と稼ぎもいいんだよ?」

『それでもねぇ、やっぱり不安定じゃない? ちゃんとご飯食べてるの? 夜は眠れてるの? 無理してても、身体壊すだけよ。なんなら、お母さんの仕事引き継いだっていいのよ? あんただってそこそこ弾けるんだから……』

「あー、もう! 分かってるよ、無理はしないから。じゃあ、まだ仕事残ってるから、切るね」

 一方的に言葉を投げつけて、電話を切った。途端、頭の中に靄がかかり始める。

 この靄の発生源は、焦りと、憂鬱だ。原因が分かっていても、振り払うのはいつも骨が折れる。

 台所に行き、沈んだ気分を持ち上げる為にコーヒーを淹れる事にした。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、サイフォンに流し込む。コーヒー豆をセットして、スイッチをオンにする。仕事をする上で、モチベーションは非常に大事だ。そしてモチベーションを上げる上で、コーヒーは非常に優秀な助手である。

 サイフォンがコーヒーを作ってくれている間に、達也に電話をする事にした。コールが3度目に差し掛かった所で、彼の声が聞こえてきた。

『はい、もしもし』

「あ、達也。ごめんね、仕事してた?」

『いや、まだ会社だけど、煙草吸ってた。どうした?』

「いや、ちょっとね~。明後日さ~、父の命日で、遺品整理するから帰ってこいって、お母さんに言われちゃってさ」

『そうか。それで?』

「いや、あの、どうしようかな~って思って……」

『え? 帰らないのか?』

「ん~、まだ迷ってる」

『どうして。帰った方がいいよ? 仕事溜まってんのか?』

「いや、締め切りにはまだ余裕があるんだけど……」

『じゃあ……』

「いや、でもさぁ、何だかんだで、私は、家を飛び出してった訳だから、帰り辛いって言うか、何と言うか……」

 受話器の向こう側で、達也が大きく息を吐く音が聞こえた。煙草の煙を吐き出したのだろう。私に対しての溜息だとは思いたく無かった。

『琴。明日時間ある?』

「明日? うん、別に大丈夫」

『俺、もう仕事に戻らなきゃいけないから。明日詳しく聞かせてくれ。後でまたメールするから』

「分かった。ごめんね、忙しいのに」

『いいよ。じゃあ、また明日』

「うん、仕事頑張ってね」

 達也との通話を終え、携帯をベッドに放り投げる。

「はぁ~……」

 思わず、一つ溜息が出た。

 ベッドに座り、作業机をぼんやりと眺める。机の上には、まだ手つかずのカット絵の仕事がいくつも乗っている。だけどそれらは、自分が実家に帰る時間を作れないと言う、都合のいい手助けはしてくれないのだ。寧ろ、時間はまだあるんだから、安心して行って来いよ、とすら言われているような気がする。

 ――下らないものを描いてる暇があるなら、一秒でも長くピアノを弾け!

 不意に、父の怒鳴り声が頭を掠めた。

 もうあの怒鳴り声を聞く事は無いんだ。そうは思っても、私はまだ心の奥底で、父を許す事が出来ずに居た。

 ベッドから身体を起こし、作業机に向かう。並べられた未完成のカット絵と、机の横に佇む本棚に仕舞われた雑誌を眺める。

「下らなくなんか、無いんだから……」

 敢えて口に出す事で、父の身勝手な暴言を頭から追い出す。

 静かな部屋の中、サイフォンがお湯を沸かす音だけが響いていた。


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