第13話

 とめどなく溢れた血が水溜まりを作っていき、座った俺の尻を赤に染めていく。充満した血の匂いに胃がきゅっと絞られ、手首の無い左腕に気が動転してしまいそうだった。


 思考が止まる。


 回復魔法をかけるティリアに、医療班を呼ぶリティ。ガヤガヤと騒がしくなった一角には人だかりが出来つつある。


 頭が回らない。


 俺の左手……どこいった?


 僅かに顎を上げ、視線を動かす。目だけで辺りを見渡すと視界に映った。石畳を転がった先、散らばった弓矢と同じところ。ポツンと生腕が落ちていた。


 散乱する弓矢の中で、小さな水溜まりを作った手首が千切れている。


 あれは、俺の腕だよな?


「……ぅ、っ」


 嘔吐しそうになった。胃の中身が込み上げてくる。


 斬られた? ゴブリンキングに? いつ?


「ハルトさん、意識をしっかりっ!」


 ティリアが俺の耳元で叫び、両手を押し当てながら回復魔法を行使した。白く細い手からは魔力が溢れ、青色の光が灯る。


 肉体活性化の初歩的な回復魔法。


 俺の血が付着するにも関わらず、気にせず額に汗を浮かばせたティリアが何度もヒーリングしている。魔力量が極めて高いおかげもあって止血がなされていく。


「ハルト、口開けて。回復薬よ」


 リティが俺の顎を無理やり開くと、瓶に入った液体を流し込んでくる。


「――ごほッ!」


 だが、俺は口内に入った液体と血、少しだけ胃の中身も混じったものをモロに吐き出した。


 回復薬が喉を通らない。


「しっかりなさい! ハルト、こっちを向いて!」


 両手で俺の顔を押さえ込んだリティがいる。


 焦点が定まらなくなった視線がリティへ集中し、彼女が焦っていることが分かった。


 ――金髪の髪に青色の瞳。いつもツンとした彼女はティリアにだけ甘く、叱っているときも愛情を感じる。


 年下の女の子なのにしっかりしていて、俺も励まされたりして頼りにしている。


 そんな彼女はどうしていいのか分からずに狼狽えていて、うっすらと涙が溜まっているのが見えた。


 リティもこんな表情するんだなと、場違いながら思った。


「……二人とも、心配させたな。……もう大丈夫だ」


「……ッ!」


「ハルトさん!」


「……もう一個、回復薬もらえるか?」


「ええ、もちろんッ」


 再度流し込まれた瓶を空にして、浅く呼吸を繰り返す。血を流しすぎた弊害によって思考が鈍っているが、さっきよりは大分マシになった。


 すぐに自分の体を確認し、把握する。


 嘘だろうと現実逃避してしまいそうになるが、左腕は重症だ。傷が深いとかそんなものではなく、肘から先が無くなっていた。


 カスったゴブリンキングの斬撃だ。身体強化していない体だからか、一撃で両断されていた。


 幸運なことに左腕は全く痛みがない。止血もされ、断面が熱を持っているだけだ。


 右手は閉じたり開いたり繰り返してみるも問題なく動く。両足も見たところ無事で、壁と衝突した背中がやたらと痛むぐらいか。


 無理をすれば立てるな。


「……俺のことはもういい。それより、早くここから逃げないと」


 ふらつきながら立ち上がると、ティリアが脇に入って支えてくれた。


「む、無理しないでください!」


「ハルト、落ち着いて。ここにはギルドマスターが居るわ。ゴブリンキングが来ても大丈夫なはずよ」


 俺は首を振る。


「……あれは、化け物だ。避難しないと全員死ぬぞ」


 ギルドマスターの魔力量は何度か視ている。ゴブリンキングの半分すらなかった。


 魔力量が直結して戦闘力となるわけではないが、身体強化や魔法は体内に宿る魔力を使う。どれだけ練度を上げ、魔力の密度を高めたところで総魔力量を超えることはない。


 ここにいる人間が集まったところで敵う相手ではないのだ。主力となる冒険者が平原に出ている現状、加勢も期待できそうにない。


「でも、どこに避難するっていうの。騎士団の訓練所? 王立学園? どこへ逃げても、ここで負ければ全員が死ぬわよ」


「……」


 正論だ。返せる言葉がない。


 城壁を飛び越えてやってきたゴブリンキングを討たなければ国が崩壊する。


 平原で戦う英雄が一人でも戻ってくればいい話なのだが、多数の軍勢と二体の魔物の王に足を止められてしまっている。


 絶望的だ。


 リティに返す言葉が見つからずにいると、医療班らしき初老の男性が助手と思われる女性を引き連れ、医療道具を持ってやってきた。


 同時に、脳裏に警鐘がなって――ギルド本部の噴水広場にゴブリンキングが現れたことを告げる。


「――これは酷いな。応急処置は……回復魔法は君が?」


 医者の格好をした初老の男性が俺の腕を見るや、ティリアへと聞く。綺麗に止血されていることから、魔法使いのローブを着ているティリアがやったと推測したのだろう。


「は、はい。初級魔法で止血だけですが」


「……うむ、止血は完璧だな。回復薬も飲んだようだし、命に別状は無さそうだ。手当てしていくが、どれ他に痛む箇所はないか?」


 そういって診察しようとする初老の男性に俺は切迫した言葉で拒絶し、右手で押し退けた。


「逃げてください」


「ふむ?」


「早く、逃げてください……! 奴が、ゴブリンキングが来ますッ」


 ――直後、辺りを揺るがすほどの咆哮が噴水広場全域に轟いた。


「ちょ、ハルト!」


「ハルトさん!」


 二人の制止を振り切って半壊した建物から出るとゴブリンキングが居た。


 誰もが視認できる距離で悠々とこちらへ歩いてきており、視線が重なった。


 獰猛な嗤みを浮かべ、ぎざぎざの歯が覗く。


 ゴブリンキングは強靭な脚力で地面を踏み抜くと俺に向かってきた。進行方向に居た冒険者の集団を一凪ぎで払い、容易に捻り潰していく。


 複数の冒険者が胴体を真っ二つにされ、悲鳴が上がった。


 冒険者達――警備隊を任されていた者達が、散り散りになって逃げ惑う。中にはその場にへたり込み、暴君を前に抗う気力すら、逃げることもできずに心が折れた者も複数いた。


 彼等は巨大な図体をしたゴブリンキングを青白い顔で見上げ、恐怖に震わせて腰が抜けていた。


 隣区画を警備していたカーセルや仲間もそこにいて、冒険者達をゴブリンキングは容赦なく殺していく。


 ――顔見知りが呆気なく殺された。


 俺のせいだ。俺のせいで彼等は死んだ。


 少しだけしか会話していないが、良い奴という印象があった。生真面目な仲間に囲まれ、上手くパーティーを纏めようと苦労している様子だった。


 もしかしたら、仲良くできた未来もあったのかもしれない。


 でも、全部、ゴブリンキングが潰した。


「エイユウ、コロス」


 簡単に羽虫を殺すかのように肉塊を作っていくゴブリンキングを誰も止められない。 


 集約し、伝染するのは恐怖。


 噴水広場で職務を全うしていたギルド員や補給部隊の冒険者達、この場に居る者達は恐怖に呑まれていた。


 唯一、駆けつけて立ち向かっていったのはギルドマスターのみだ。待機していた高ランク冒険者も数人居るはずだが、他と同様に恐怖に呑まれている。


 ギルドマスターは飛び上がりながらの大斧を振りかざし、頭を狙った攻撃はいとも容易く大剣に阻まれ、距離を取る。


「――久々の殺し合いには荷が重い相手だなァ」


 その台詞を合図に死闘が繰り広げられていく。


 誰も身動きできずに戦いを見守った。そこには受付嬢であるエイミーさんの姿もあって、神へ祈るように両手を合わせている。


 しかし、ゴブリンキングは想像以上に強かった。


 ギルドマスターの攻撃をものともせず、強烈な膂力によって振りかぶった大剣が横腹に直撃する。


 吹き飛ばされたギルドマスターは建物に衝突し、血を吐き出した。


「お父さん!」


 倒れたギルドマスターの元へエイミーさんが駆けつける。


 致命傷だった。脇腹付近が真っ赤に染まっている。


 頼みの綱であったギルドマスターがやられたことで、恐れをなした集団が散り散りに逃げていく。そこを堂々と闊歩して進む魔物の王。


 大剣から滴り落ちる鮮血を残しながら、俺へと一直線に歩みを進めてくる。


 数秒だけで、大勢の人間がやられた。


 ゴブリンキングの標的は俺だ。それは間違いない。


「……二人とも、時間を稼ぐから逃げてくれ。できるだけ、遠くに」


「……そんな状態で何する気よ。ハルト、あなたが逃げるべきよ。ティリアを連れて早く逃げて」


「違う、そうじゃない。ゴブリンキングが狙ってるのは俺なんだ……」


「ハルトが狙われてる……?」


「だから、俺が囮になる。二人は逃げてくれ。大丈夫、俺も後から追いつくよ」


 今の俺はとてつもなく無様な顔をしているのだろうか。


 リティとティリアへ振り返った俺は泣きそうな顔で、それでも見栄を張って下手に口角を上げていた。


 ただの空元気。


 引きつった笑みになっている自覚がある。


 でもどうか、お願いだ。二人だけでも生き延びてほしいんだ。


「な、なんでハルトさんが狙われてるんですか!?」


 ごもっともな質問だ。俺が聞きたいぐらいだよ。


 どうしてか知らないが、ゴブリンキングは俺を英雄だと思い込んでいる。確かにその通りなのだが、何が原因で分かっているというのか。


 英雄の証となる紋章。左手にあって、ずっと革の手袋で隠していた。既に失ったものであり、切り離された左手は石畳の上に転がっているが。


 もちろん、ゴブリンキングに紋章を見せてもいない。


 ならば精霊に力を借りた索敵能力か。それとも風を読み、不自然に曲がる弓矢のせいなのか。


 分からない。何をもって俺を英雄だと認識したのか――それよりも、着実に迫るゴブリンキングから怒鳴ってでも後ろに居る二人をこの場から逃がそうとした。


「――いいから、早く行ってくれ! リティ、ティリアを連れてけ!」


「――そんな状態のハルトさんを置いて逃げるなんて、わたしにはできません!!」


 ティリアが叫ぶ。


 杖を両手に握り、ゴブリンキングを迎え討とうとしているが、両足が震えているじゃないか。


 死ぬかもしれないっていうこんなときに、俺を守ろうとしてくれる少女。ギルドでパーティーを組むとき命を預けるとまで言ってくれた。


 嬉しかったよ。俺を信頼してくれているみたいで。


「短い間だったけど、二人と居れて楽しかった」


「……そんな情けない顔で言わないでよ」


 すまんな、最後にこんな顔で。硬直した頬は笑顔を浮かべることができず、苦笑いみたいになってしまっていた。


 俺も死にたくはないんだ。


 だけど、それ以上に俺は二人を助けたいと思っている。


 彼女達を逃がしたところでという話にもなるが、少しでも時間を稼げば前線の英雄達が助けに来てくれるかもしれない。それに賭ける。


「リティ、あとは頼むぞ」


「……ええ」


「む、むぐっ、や、やめ、リティちゃん! ハルトさんを一人にさせちゃ!」


「いいから! ハルトがどんな気持ちで言ってるのか考えなさい!」


 リティがティリアを叱咤し、拘束して無理やりに連れていってくれた。


 後ろに離れていく二人の足音を聞きながら、ゴブリンキングと相対し、少しでも時間を稼ぐことを念頭に置く。


 とてつもなく魔力を内包した魔物。


 超重量の体躯は人間の数倍ほどで、濃密な魔力によって覆われた皮膚は硬く、俺のような凡人には太刀打ちできそうにない。


「エイユウ、コロス」


 殺気を含んだ眼に睨まれ、標的にされた俺は足がすくみそうだった。


 だが、恐怖が前面に出てこようと無視して、相手の知性を信じて俺は問いかけてみた。


「……なあ、俺が死ねば他のみんなを見逃してくれるか?」


「ゼンイン、シネ」


 問答無用に頭上から打ち下ろされた大剣。


 何人も殺してきた武骨な剣は無情にも俺を狙い、ゴブリンキングは話を聞こうともしなかった。


 当たれば肉塊となる一撃が迫り、肉薄してくる刃。


 ――時間の流れが遅くなり、緩やかに景色が動く。


 ぱらぱらと降り注ぐ雨雫の一滴すら視認できていて、空に浮かぶ魔力の塊とも言える精霊がざわめいている。


 この現象はさっきもなったが、なんなんだ。走馬灯とかじゃないのか。いやもう、何でもいいから助けてくれよ。


 緩慢な動きで俺を潰そうとする大剣をぎりぎりで避け、大剣が地面を抉る。


 先ほどはカスっただけで左手を失ったが、無事に大剣はカスることもなく俺を通過していき、石畳を砕いた。石つぶてが全方位に跳ね、俺の頬を掠めていく。


 巻き起こった衝撃波は防ぎようもなく、先程と同じように吹っ飛ばされて地面を何度も転がる。回避不可能な攻撃に打ち付けられ、背中の鈍痛が更に酷くなった。


 唇を噛んで気付けにし、俺は痛みに堪えながら片腕しかない右手を駆使して立ち上がる。


 よろめきながら足を踏み出すが、そこへゴブリンキングが持つ大剣が襲う。


 一歩の差、その場で留まっていたら今の一撃で死んでいた。前方に投げ出される形で地面に殴打し、受け身も取れず顔面を滑らせる。


 擦り傷が増える。それでも無様に足掻く。


 振り向かなくてもゴブリンキングの殺意は手に取るように分かった。精霊のおかげで位置情報も脳裏に描かれ、次に何がくるのかも読めている。


 避けて、避けて、避けて――。


 ――英雄達は来ない。


 頭の片隅で僅かな可能性に懸けながら、噴水広場を駆け回る。ボロボロの体に鞭を打って、膝に力が入らなくても走った。


「――はぁ、はぁ、はぁ」


 息が切れる。こんなに走ったのはいつぶりだ。


 ゴブリンキングは俺が攻撃を避けまくったせいか、訝しんで様子見をしている。今が距離を開けるチャンスだと思い、気張って駆けると散乱した弓矢のところまで戻ってきていた。


 血と雨に混ざった中に左手が落ちていて、冒険者の亡骸が血を絶え間なく吹き出している。


 少し遠くには瀕死のギルドマスターとエイミーさんが居て、綺麗な顔立ちを歪めて泣いて寄り添っていた。血を吐いたギルドマスターは動けそうになく、早く治療を施さなければいけないほどだ。


 しかし、ギルド員や治療班は居ない。命惜しさに逃げたのだろう。それを攻めるべきではないが、ギルドマスターの命の灯火が直ぐに消えてしまいそうだった。


 ギルド本部でもある噴水広場は閑散としている。


 簡易建物は所々崩れ、石畳に舗装された広場はゴブリンキングのせいで瓦礫が散らばっている。


 雨に打たれ、ぽつぽつと雫が落ちる。雨の音が絶え間なく聴こえてくる。


 真後ろからの咆哮――。


 建物の残骸を掴んだゴブリンキングが投げてきた。


 俺は後ろを見ることなく、斜め前に身を投げ出して回避。


 風圧が背中を撫で、轟音を響かせて大破した残骸。


『にげる? たたかう?』


 とても幼く、女の子の声が聴こえる。


 路地裏を抜けた先、ゴブリンキングと相対したときに聴こえたものと同じ声。早く逃げて――そう、胸に響いていたものだ。


『にげる? たたかう?』


 今度は逃げてではなく、二択の提示。


 最初は幻聴だと思った。だが、何度も問い掛けてきて、頭の中をぐしゃぐしゃにする。


 これは誰の声だ。それどころじゃないんだよ。


『にげる? たたかう?』


 うるさい。


『にげる? たたかう?』


 うるさい。


『にげる? たたかう?』


 うるさい。雨音と混じった雑音は耳朶を打ち、思考の邪魔をする。


 頭が割れそうだ。何度も何度も問い掛けてくる声が反響している。


「……逃げるってどこにだよ! ゴブリンキングと戦うなんて冗談だろッ!」


 時間を稼げば英雄が戻ってきて倒してくれるかもしれない。俺が戦うよりも断然勝算が高い。


 だけど、不確かな生存への道だった。


 ――英雄達は本当に来てくれるのか?


 頭を過るのはそんな疑心。


 平原の状況はそもそも知らないのだ。 


 意識を向けていた精霊を切り離し、ゴブリンキングに焦点を向けている。平原の状況を知りたいが、意識を共有するのに少しだけ時間が掛かるのだ。そんな時間をゴブリンキングは許してくれないだろう。


「……」


 拳を握る。


 やっと窮屈だった学園から解放され、冒険者として仲間もできた。


 これからの人生、楽しく生きたかった。何で俺がこんな目に遭わなくちゃならない。


 ゴブリンキングの相手は俺以外の英雄が戦うべきなんだ。


 なぁ、どうして俺なんだ、神様。


 こんな魔力も無い俺を英雄に選び、中途半端な力を与えた。


『にげる? たたかう?』


 ――しつこいぞ。どうみても逃げられない。ゴブリンキングと戦ったところで痛くて辛いだけ。


 俺では勝てない。


 もう、諦めよう。どうしようもない。


「……もう、むり、だ」


 そう思うと視界がぐにゃりと歪んだ。


 膝から力が抜け、地面に崩れ落ちる。早く立ち上がらなくてはいけないのに、力が入らない。


 雨で濡れた地面は冷たかった。


 汗だらけの体には心地よく、力が抜けていく。寝転がって、大の字に手足を伸ばし、ぱらぱらと降る続ける雨に打たれて目を瞑る。


 もう疲れた。自分自身よくやったと褒めたいぐらいだ。十分に健闘しただろ。もういいんではないだろうか。


 楽になりたい欲求に抗えない。


 ゴブリンキングを相手に数分は時間を稼いだのだ。


 やることはやった。人生に見切りをつけて、生きるのを諦めようか。


 そんなことを考えて、皮肉な笑みを浮かべてしまった。


 ――ほんと、笑ってしまう。


 昔と同じだな、と。


 ちっとも変わってはいない。無理だと決めたら、諦めだけは早かった。魔力がないからという理由で戦う人生を捨て、騎士を目指すのをやめて。


 学園では魔法の習得にしがみついたけど、数年で断念した。


 心が折れたんだ。


「エイユウ、シネ」


 薄く目を開け、重低音の声を響かせたゴブリンキングが寝転がった俺へ大剣を振り下ろしたのを無抵抗に眺める。


 あれで潰されたら痛いのだろうか。それとも痛みも感じることなく死ぬのだろうか。


 丸太のように太い腕で繰り出される一撃。凄まじい膂力を持ったゴブリンキングは意図的なのか定かだが、身体強化を使っている。


 腕に集まっていく青色の光。凝固に行き渡った魔力の密度は人間の使う身体強化とは比べ物にならないほど。


 ――こんな死に間際で、時間がゆっくりにならなくてもいいのに。俺が思考を巡らせる時間があるほど、時の流れは緩やか。


 いっそのこと、殺るのならさっさと殺してくれと願った。


 目を瞑る。


 直後、パリンと砕けた音が鳴った。


 ――魔力で構築された魔法式。


 視界を開けると、薄い青色の膜のようなものが三つ重なり、俺を守るように大剣との間に現れていた。


 誰かによって創られた壁――魔法による障壁だ。


 誰が? 賢者が来てくれた? いや、結界魔法は聖女か?


 すぐにパリン、パリン、パリンと三回も壊された障壁。


 大剣が障壁とぶつかり合い、刹那の間にひび割れてしまう。英雄が使った魔法にしてはあまりにも脆い壁で、俺を守る気があるのかと邪推してしまう。


 視野を広げて魔法を使った者を探し、特定する。


 ――杖を掲げたティリアが居た。


 俺は咄嗟に寝返りを打って大剣の直撃を避ける。


 障壁が破れて硝子のようなものが散らばり、欠片が霧散していきながら石礫も飛んでいく。転がって地面に放り出された俺は立ち上がる気力もなく、顔だけを向けて広場に戻ってきた二人へ問いかける。


「……なんで、戻ってきた」


 俺を守ろうとしたのは賢者や聖女ではなく、ティリアだった。


「ハルトさんを一人にするなんて、できませんから! ウォーターボール!」


 人を飲み込めるほどの大きさとなった水球が宙で渦巻き、指向性をもって放たれる。


 ゴブリンキングに向かった魔法の影に追従して駆ける者がいた。リティだ。目眩ましとなった水球がゴブリンキングの頭へ当たり、リティが青色の剣で胴体を素早く切りつける。


 ゴブリンキングの皮膚を撫でるように、薄皮一枚の傷が出来上がった。どれだけ弓矢を打っても無傷だった巨体に血が滲む。


「……ハルト、ごめんなさい。ティリアを言い聞かせることができなかったわ」


 ゴブリンキングの間合いから直ぐ様離脱したリティが、俺を庇うように前に立つ。


 なんで戻ってきたんだよ。俺が稼いだ時間が無駄になっただけだ。普通に逃げれたろ。


 俺の命よりも二人の命のほうが尊い。貴族で、未来があって、才能にも恵まれている。


 そのまま見捨てろよ。


「馬鹿だろ……二人とも」


 俺は率直な感想を告げた。


「そうです! わたしはバカですッ! だから! わたしは助けにきました!」


 噴水広場の一角でティリアが大声を上げる。


「……三人揃ったところで、勝ち目はない」


 そんなこと十分に分かっているはずだろう。なのに、どうしてなんだ。


「わたしは言いましたよッ! 一緒に死にましょうって! ハルトさんは、仲間なんです!」


 ティリアが叫ぶ。


「……見捨てるぐらいなら舌を噛んで死ぬって、ティリアが言ったわ。どうしようもなかった。でも、私はこれで良かったとも思ってる」


「……ティリアを生かしたいんじゃないのか」


「ええ、私が生きる意味そのものよ。でも。あなたを見捨てたとき胸がモヤモヤした」


「――仲間は見捨てません! わたしはッ、恩を返しますっ! ゴブリンキングなんて、ただのゴブリンですから! へっちゃらです! きっと勝てます! 大丈夫ですからぁぁぁ!」


 リティと喋ってるというのに、ティリアがひたすら大声で叫んでいる。途中からしか聞いていなかったが、震える自分自身を鼓舞しているようだった。怖いのならそのまま逃げてもいいってのに。


 愚直なほど真っ直ぐなティリアに呆れてしまう。


「……馬鹿すぎて、泣きそうだ」


 強大な敵を前に駆けつけ、俺を救いに来た二人。どうしようもない気持ちが逸る。


「泣かないでください! 今度はわたしたちが助けますから!」


「だ、そうよ。泣くのは三人が生き残ってからにしましょう」


 杖を両手で掲げたティリアに、剣を構えたリティ。


「……勝算はあるのか?」


「あるわけないじゃない。でも、応援を頼んできたわ。もう少しすれば、前線に出てない騎士と兵士が駆けつけて来てくれるはずよ。期待はできないけど……」


「――ァァァァァッ! ザコドモ、ジャマを、スルナァ!」


 ゴブリンキングは怒りを露にして、大剣を地面に打ち付ける。


 地面が割れ、余波で瓦礫が散る。


 二人の少女へ怒号を向けたゴブリンキング。ちょこまかと逃げ惑っていた俺を、殺せる瞬間になって邪魔されたのが余程頭にきたのだろう。


「リティちゃん! 時間を稼いでください! 混合魔法です!」


「……無茶言うわね。デカいの頼むわよ」


「任せてください!」


 リティが駆ける。


 ――早い。


 一瞬で身体強化を施し、体全体に魔力を覆っていた。剣を地面すれすれ平行させながらゴブリンキングの間合いに入り込み、挙動を読んで大剣を掻い潜る。


 青色の剣がゴブリンの体へ滑り、小さな跡を無数に付けていく。


 速剣であり、柔の剣技だ。力を入れず、逆らわず、敵に刃を合わせて滑らせている。


 間近で見たリティの剣技。俺は見惚れてしまう。ゴブリンを倒したときは一振りで終わっていたため、ここまでの技は見れなかった。


 俺も一応学園に在籍していたから評価できるが、首席だったセンラと同等なほどリティは近接戦において強い。


 というか、剣速が速すぎて見えない。精霊の力で動きを俯瞰して視えているが、ゴブリンキングも足元で縦横無尽に立ち回るリティを捉えきれていないようだ。


 速さで翻弄しているリティに、ゴブリンキングは業を煮やし、大振りに大剣を振るう。


 上手く即死級の一撃は回避。しかし、風圧が巻き起こり、リティの体を地面へ押し付ける。


 足を縫い付けられる短い硬直が発生し、近距離戦においてそれは致命的だった。


 ゴブリンキングは巨体の割りに鈍重さを感じさせず、素早く器用な蹴り上げが繰り出される。


 リティは小型の盾で捉えはしたものの、防御という体をなさずに粉砕され、盾が粉々に砕け散った。


 勢いを殺せぬまま、砕けた破片と共に宙に浮きながら吹き飛ばされたリティ。そこへ、ゴブリンキングが容赦なく殴りつける。


「――ッ!」


 咄嗟に剣を盾にした。だが、まともに受けた攻撃をいなすことができず、地面に衝突。


 リティは直ぐに立ち上がるも、血を流していた。額が割れたのか、赤い線が瞼に落ちている。片腕も今の攻防で使い物にならなくなり、左手が真っ赤に腫れ上がってぷらぷらと揺れていた。


「――ティリア! まだなの!?」


「も、もう少しです!」


 焦りが全面に出ているリティが詠唱しているティリアを急かす。返答間もなく、ゴブリンキングの猛攻が迫ってくるが、体捌きを駆使して避けたものの綻びが出てきていた。


 数秒と持たず、血で視界を塞いだ死角から――二撃目の直撃を受けてしまう。リティは地面に強く激突し、立ち上がろうとするも倒れ伏した。


「――――」


 杖を抱き込んだティリアは魔法の詠唱を高速で呟いている。


 一筋の汗を流し、複雑な術式の構築をしていたそれは、難解にも等しい魔方陣。


 魔力を視れる俺にしか分からないものだが、六個の魔法陣を重ね、複数の属性魔法を繋ぎ合わせている。俺には何の魔法か見当が付かず、ここまで複雑なものは人生で初めてだ。


 ティリアの魔法はリティが倒れるのと同時に完成し、あとは魔力を注ぎ込み、魔法の名を紡ぐだけ。


「……ティリア! 盛大にやっちゃいなさい!」


 負傷して立ち上がることもままならないリティが、相方の少女へ想いを託す。


 リティを見て、意思を受け取った少女はこくりと頷き、杖を前にかざした。


 右手で持った杖へ、左手を添えて。


 魔力が溢れかえる。


「――ディストルツィオーネ」


 奔流した魔力の渦がティリアを中心に膨れ上がり、魔方陣を介して現世に魔法という名の超常現象を顕現する。


 杖の先端に現れた光の球体。赤や青など、様々な色に点滅すると――やがて、黒に染まった。


 複数の属性魔法を合わせた魔力弾。


「――これで、倒れてください!」


 球体がゴブリンキングへ向かって放たれた。


 リティへ止めを刺そうとするゴブリンキングはティリアの魔力弾に反応し、大剣を打ち下ろして対処する。


 ティリアの魔法とゴブリンキングの大剣がぶつかり合い、真っ黒の魔力弾が荒れ狂う。


 余波を撒き散らすと地面が割れ、瓦礫となった石が空へと跳ぶ。


 凄まじいほどの力がぶつかり、ゴブリンキングの足元は陥没して数秒ほど拮抗した。


「――――ァァァァアアアッ!」


 咆哮。押しきったのは――ゴブリンキングだった。


 黒い魔力弾は次第に霧散していき、ティリアが魔力枯渇に包まれて両膝を折ってしまう。


 ペタンと座ってしまった少女は青白い顔で唇を震わせる。


「そ、そんな」


 唯一の勝ち筋を失った。


 彼女達は失意に飲まれ、ゴブリンキングを見上げることしかできない。


 ――そんなとき、ハルトが居たところから魔力災害が起こった。






 二人の決死な姿を見て、俺も何かやらなければと思った。


 気力は尽きていたが、守られてばかりではいられなかった。


 俺は地面を這いつくばり、散乱する弓矢の元まで行く。片手で矢をまとめて掴み、投げようとした。


 右手での手投げ。


 これを投げてもゴブリンキングにダメージは与えられないだろう。まともに当たるのかもさえ分からない。だが、気を逸らすことはできる。


『にげる? たたかう?』


 また、幼子の声。答えたところでどうなるというのか。


 だけど、すがりたい。奇跡を起こしてほしいと願ってしまう。


「……戦うよ。加勢したところで意味はないのかもしれない。けど、俺は二人を守りたい」


『ちから、かす?』


 差し伸べられる言葉。それが、対価を要求するものだろうと、答えは決まっていた。


「何でもいい。力を貸してくれ」


「わかった」


 女の子が忽然と現れた。


 俺の手よりも小さな少女。背中には透明な羽が四つ生えており、無邪気な笑みを浮かべている。


「は……?」


「やっと、あえた」


 呂律が怪しい少女は、図鑑で見たことがある妖精と格好が同じ。


 だが、俺は手のひらサイズの少女を一目見て――畏怖の感情を抱いてしまった。


 明らかに、少女は妖精なんて可愛い存在ではない。


 そんな生易しい存在ではないことは視えている。


 ――森の中に住まう妖精は悪戯が好きで人を惑わす存在。魔物の一種であり、長耳族と親しい。滅多に人の前に出てこず、話すことはできないものの意思疏通は可能。


 そう、図鑑に載っていた情報では話すことはできない。普通の妖精は喋らないのだ。仮に図鑑に載っているのが間違っているとして、未発見の妖精としよう。


 しかし、目の前の少女が持つ魔力量は尋常ではないのは説明できない。


 目を見張るほどのティリアよりも、ゴブリンキングよりも。平原に居る賢者よりも多い。


 明らかに、高次元な存在。


 知識として知ってはいる。


「聖霊……なのか?」


 ――神にも等しい存在。七大元素の精霊を司る上位種。


 そんな魔力の密度が桁違いなほど濃すぎる少女は俺の呟きに首を傾げ、鼻先にぷかぷかと浮かんでいた。


「うで、なおしてあげる?」


 呆気に取られている俺を無視して、聖霊が無くした左腕の付け根に手を当てる。


 何をする気だと口を開きかけるが、目を見張る現象を引き起こされ、言葉にならなかった。


 辺り一帯の魔力が集約される。異常とも言える魔力が聖霊の両手に集まり、俺の左腕だった場所に当てられる――。


 ――直後、魔力災害に似た現象が起こった。


 俺が寝転がっている周囲に風が巻き起こり、地面に亀裂が走っていく。


 地震と暴風。


 膨大な魔力が術式を通して形成し、創られていく。


 俺の腕が、付け根から生えていく。


「え、は……? なに、が、どうなって」


 幻覚を見せられた気分で、痛みもないまま指先まで創られると、暴風と地震が止んだ。


 僅か数秒の出来事に俺は呆然としてしまう。左腕が治るとかそんな次元の話ではなく、再生とか創造の類い。


 神経も通っていて動くし、英雄の紋章も健在。袖部分は千切られたままで、革の手袋もないが、左手が元通りになった。


 こんな現象、あり得るのか。


 恐ろしいとさえ感じるほどの力。それを行使した聖霊の少女はあどけない表情で俺の腕に頬擦りをして、にへらと口を弛めている。


「ちから、つかって……ねむくなってきた。でも、あれたおす。いっしょに」


「力を貸してくれるのか……?」


「ん、まかせて」


 羽の生えた聖霊が目元を擦ると身を翻し、身に纏ったブカブカな布がふわりと揺れる。小さな両手を突き出すと大気が震えた。


 王都全域から急速に魔力の集合体――精霊達がこの場に集まっていき、濃密な魔力が噴水広場の頭上を埋め尽くす。


 空が青に支配される。


「きて」


 聖霊の一言に呼応した。


 ――精霊は混ざり合い、球体となって形を作っていく。精霊の群れは超高密度の球体となり、空からいくつも降り注ぐ。


 凝縮された青色の塊が、弓矢にまとわりついていき、カタカタと音を鳴らす。


 まるで、意思を持ったかのように動いていく。


 不自然極まりない。


 精霊が宿った弓矢が、ぷかぷかと宙に浮いているのだ。


 手に握り持っていた弓矢も例外ではなく、精霊がまとわりつくと手から離れて浮かんでいった。


 青色の弓矢が等間隔にずらりと並ぶ。


 異様な光景だった。


「ハルトさん、それは……!?」


「ハルト、なにそれ……矢が浮かんで」


 二人が驚いているが、疑問に答える暇はなさそうだ。


 今にも崩れそうな両足を立たせ、ゆっくりと立ち上がる。俺は弓矢を周囲に浮かべながら、ゴブリンキングと向かい合った。


 異変に気付いたゴブリンキングも俺を直視している。


 約五十本にも及ぶ弓矢に宿った精霊達。


 ――どうしてか、負ける気はしなかった。


 精霊達の魔力が手に取るように分かる。


 一つ一つの弓矢の威力は異常。魔力の塊とも言える精霊が直接付与しているのだから当然か。


 ゴブリンキングは警戒しているのか動かなかった。


 異常な光景に本能が悟ったのだろうか。それとも、青色の景色が視えているのだろうか。


「こうやって、こうだよ?」


 左手に抱きついた聖霊が羽を必死に動かし、操作の仕方を教えてくれる。


 聖霊の言う通りに、左手を前へ、人差し指と中指をゴブリンキングに向けた。


 弓矢が空中で跳ね、一斉に矢じりがゴブリンキングへと標的を定める。


 あとは、俺が弓矢を飛ばす指示をすればいいだけ。


 こういうときは何か言ったほうがいいのだろうか。聖霊に命ずるとか、弓矢よ云々とか。


 まあいいや。面倒くさい。


「――貫け」


 俺の簡潔な指示によって、全ての弓矢が発射された。


 俺が弓矢で射るよりも、何倍も速い射出。


 超高速で青色の線が襲いかかり、回避行動すら許さずゴブリンキングを穿つ。


 今まで攻撃が通らなかったのが嘘みたいにゴブリンキングの体を貫通し、血を吹き出した。


「――ッッガア!?」


 驚愕しているゴブリンキングだが、まだ息がある。それに、初めて逃げようという素振りを見せた。


 だが、逃さない。絶対に。


 俺は弓矢を操作すると精霊達が意思を受け取り、弓矢が空中で半回転した。


 矢じりの向きが変わる。物理的な法則を完全に無視して弓矢がゴブリンキングの周囲に留まると、方向を変えて青の軌跡を描く。


 全方位からの弓矢が、再びゴブリンキングを襲う。


 聖霊の力を借りた攻撃は生易しいなんてものではなかった。鎧を貫通し、強固な肉体をいとも容易く突き破る。


 何度もゴブリンキングを穴だらけにして、ようやく動きが止まると巨体はゆっくりと地面に向かっていった。


 盛大な音を響かせ、ゴブリンキングは糸が切れたように動きを見せず、倒れ伏す。


 呆気なかった。


 それほどまでに聖霊の力が異常だった。


「……やった、か」


 ゴブリンキングの息の根を止めた。


 実感は湧かないが、俺が倒したんだ。


「ね、ねむい。すこしねむる……」


 聖霊が半目になってあくびをしている。


 この子のことはよく分からないままだが、力を貸してくれたおかげだ。


「……ありがとうな」


「ん」


 聖霊は短く答えると羽をぱたぱたと動かし、俺の胸に飛び込んでくる。衝動に身構えるものの、吸い込まれていくように消えた。


 俺の体内に入った……?


 胸の中に異物が収まっているような感覚がある。魔力を視れる目で眺めても、俺の体は魔力ゼロに変わりはないが。


 そういうのは後でまとめて考えることにしよう。

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