第4話

 校門を今日も一人で潜る。

 もうどれくらい二人きりで会ってないだろう。

 一人で歩く街は広くて、前にも後ろにも左右のどちらにも、ずーっと地平線まで拓けていて、大きな空を受けている。その中心に私はポツンと立つ。彼が横にいれば世界の広さなんて私に届かないのに。前に進む一歩がサバイバルみたいに過酷で、ぶつかって来る全ての風が、一人でいることが正解ではないと告げる。

 数えてみれば一週間しか経っていない。

 芽が出て、本葉が顔を出し始めてから、時間の進み方が遅くなった。彼を待つ程にそこまでの距離が長い。

「恋の重力の定理」

 理科っぽく言ってみても彼が現れる訳じゃない。

 焦れる想いを「さかなの歌」の第二楽章にした。

 連絡が来ないし、校門で見付けてくれないし、かと言って自分からメールを電話をするのはまだその段階の関係にないと判断して、しなくて、目は合うし、仕事の話はする、期末試験が始まった。その後には成績を付ける大仕事が待っている。何年もやっているのに毎年ギリギリになる。

 見上げた空の重い雲に光の筋が射していた。

 空を見て、一面の雲と見るか、光の射し込みを見るか。あの光は垂石先生。

 仕事をがんばろう。そして、夏休みに入ったら私から声を掛けよう。私は日々を泳いで、夏の強い日差しへ。


 夏休みが始まった。

「ママ、私おじいちゃんおばあちゃんの家に、去年も行ったでしょ? 泊まりに行きたいな」

「私は仕事が夏休みでもあるから、週末と数日くらいね」

 奏恵は不満顔を一振りする。

「だったら、もう四年生なんだし、一人で行くのはダメ?」

「一人ねぇ」

 言いながら、是非そうして欲しい、顔に出たかも知れない。

「ママは乗り気だね。二週間くらい、行って来ていいでしょ?」

「じゃあ、空港までは送るし、迎えに行くから、向こうで同じにおじいちゃんがしてくれるなら、よしとしようか」

「やったぁ! 早速電話しようよ。私からおじいちゃんにお願いするから」

 奏恵が父と電話で話している間中、私は祈った。いや念じた。パパ頼む!

「いいって」

 携帯を渡される。

「パパ、二週間も、いいの?」

『いいよ。全然問題ない。奏恵ちゃんももう赤ちゃんじゃないし、何もすることないけど、来ればいい』

「ありがとう」

 二週間も体が自由になる。仕事はあるけど、夜はたっぷり開く。決めよう。このチャンスにこの恋決めよう。

「ママ、嬉しそう。私も嬉しい」

 奏恵のことは一番大切だ。唯一自分の命と引き換えにしてもいい存在、だけど、安全に別のところにいてくれるなら、恋を遂行するのには邪魔だから、彼女からこのシチュエーションを作ってくれたのは、ラッキーと言うよりも「やれ」ってことだ。奏恵もパパも私に協力してくれている。

「楽しい夏休みをゲット出来るのは最高だよね」

「うん。私おじいちゃんおばあちゃんの家大好き」

 私のスケジュールが空いたなら、次は彼のそれを押さえなくてはならない。奏恵がテレビを見ている間に、初めてのメールを打つ。

『お疲れ様です、野城です。子供が実家に帰って夜も自由に来週月曜日から二週間なります。よかったらご飯でも行きませんか?』

 文面を何度も確認して、体の一部を放るみたいに送信ボタンを押す。

 送っちゃった。

 もう送った後なのにもう一回メールの内容を見る。うん。これなら土日も可能だって伝わる。

 すぐに返信が来ることなんて稀なのに、携帯を握り締めて、ダイニングの椅子に座って、奏恵がテレビに笑っている、同じ文言を聞いていたのに私の頭に何も残さずに芸人のギャグは通過した。

 携帯の画面を見る。

 何も来ない。

 もしかして送信されてないんじゃないのかな。送信済みのボックスにやっぱりメールは入っている。

「あー、もう」

 すぐに返事をくれない彼にじゃなくて、待つ女になっている私に対して小さく呟く。何か別のことをしよう。そして、ふと覗いたら返信が来ている。それで行こう。

 洗い物を片付けて、お風呂に入る。

 左腕の肌を右手で優しく撫でる。彼はここに触れる、きっと。唇に指をあてる。きっと。メールは来ているだろうか。

 頭を振る。一旦忘れないと。

 掛け湯をしたら、肌は恋の意味を流されて、ただの皮膚になる。新しく、いい香りがするシャンプーを用意して、もう半分くらい使っている。もう私の匂いはこのシャンプーと私の体の匂いの混じったものになっている筈だ。彼は気付いただろうか。気付いたとしてそれが彼を惹き寄せる効力を持つだろうか。奏恵がこっそり使っているのは分かっている。彼女が使っても彼女は子供の匂いしかしない。私は大人の匂いがするのだろうか。

 風呂上がりにドライヤーをかけていたら奏恵が「入るー」と言って交代に風呂場に向かう。

 もし恋が成就したら、奏恵のお父さんに、垂石先生はなる。あまり想像したくない。それじゃあまるで奏恵のために恋をしているみたいだから。奏恵は関係ない。彼も奏恵も私の大事な人だけど、彼と奏恵が仲良くなるとかは今は違う。私はもっと独善的に恋をしたい。

 髪が乾くに従って、恋にひっつこうとしていた奏恵が吹き飛ばされて、シャンプーの残り香は全部が彼のためのものになる。奏恵のいない二週間で、決める。

 メールは来ていない。

 娘がいないことをいいことに大仰に溜め息をく。麦茶を飲む。

 風呂上がりの奏恵と一緒にテレビを見て、目当ての番組が終わったら彼女は何かを読んで、私は音楽を聴いた。

「奏恵、そろそろ寝なさい」

「はーい」

 でも一人にされたらもっと待つばかりになりそう。いつもならあーだこーだ言って起きている奏恵が今日に限って素直だし、待つことを紛らわせる全てのことが一つずつ、整列をして私の前から去って行き、広大な専用の敷地で私は自分の全部を使って待つことを受け止めなくてはならなくなる。陰圧の中に置かれて、私の中身が飛び散りそう。それを私の中に保つ力は、一つしかない。

 垂石先生。

 早く会いたい。早くメールが欲しい。もういっそ抱き締めて欲しい。私の全部を奪って欲しい。

 早く会いたい。早く約束が欲しい。私こそ抱き締めたい。あなたの全部を奪いたい。

 携帯電話を握り締めて祈る。

 震える携帯。……届いた。

 急いでメールを開ける。これで別の人だったら携帯を投げ捨てよう、でも彼だった。

『お疲れ様です。早速月曜日に会いましょう。とっておきの店がありますので期待して下さい』

 期待するよ。ご飯以上に期待するよ。チャンピオンをノックアウトしたボクサーみたいに私は右手を大きく掲げた。種から始まったそれは今、つぼみを付けた。

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