告白

第15話 家族

 沙希が眠っている。ゆっくりと息づいている。


 信じられなかった。もう二度と会えないと、とうの昔に死んでいると思っていた、俺の初恋の少女が、今、目の前にいる。

 まあ、二十五歳で少女というのは無理があるかもしれないが、今の沙希はほんとに昔のままに見えた。だが、そうでないことははっきりしている。


 ベッドにすがって、泣き疲れて眠ってしまっている小さな女の子。沙希の生き写し。手話のわかる看護婦にあの手話――頬を撫でて小指を立てる――の意味を聞いたところ、「お母さん」だった。

 沙希は、母親になっていたのだ。おそらく、結婚したのだろう。


 俺の心には葛藤があった。相手の男に対する嫉妬。しかし、沙希は幸せだったはずだ。でなければ、余命半年足らずといわれた末期癌患者が、十年以上も生き延びられるはずがない。

 俺は……その男に対して、手をついて感謝すべきだ。よくぞ、今日まで沙希を生かしてくれたと。俺に再会するまで生き延びさせてくれてありがとう、言えなかった言葉を伝えるチャンスをくれて感謝に絶えない、と。


 沙希が目を覚ましたら、十年前のことを詫びよう。きっと、沙希のことだ。笑って赦してくれる。そして……そして、俺の初恋は終わるのだ。ようやく。

「う……ん」

 女の子が身じろぎした。何かうめいて俺のほうを見ると、安心したように微笑んで、また眠りにつく。子供になつかれるのは初めてだが、悪いもんじゃない。それに、この子が俺と沙希を引き合わせてくれたのだ。

 あれだけたくさんいた人並みの中で、この子は俺だけを見つめ、まっすぐ俺に向かって駆け寄ってきた。ひょっとしたら、俺の写真を沙希から見せてもらっていたのかもしれない。見知った顔を群衆の中で見つけ、すがり付いてきたのだろう。

 女の子にかけてあった毛布がずれたので、直してやる。椅子に腰掛け、もう一度、沙希の顔を眺める。


 中学生のころも、こうして長いこと、飽きもせず沙希の顔を見つめていたことがあった。何度も、何度も。


 この都立病院の医者の診断では、沙希の症状は重かった。しかし、俺にとっては拍子抜けするほどだった。依然として、癌は全身に存在する。あの頃との違いは、吐血があったことだ。


(吐血があれば、時間の問題ね)


 天城先生はそう言っていた。しかし、あれは血小板の減少によるものだが、今回の吐血は、胃に転移した癌によるものだ。切除すれば、まだしばらくは持つ。十二年前に右肺を切除したときのように。

 ただし、体力そのものは落ちているし、他の癌による障害も考えなければならない。おそらく、成功率はそれほど見込めないだろう。医者の卵の俺にも、それくらいはわかる。


 救いは、とりあえずは出血が止まったことだ。だから、緊急手術にはならなかった。充分に検査し、準備をすることができる。食事さえ取れるという。その分、少しでも成功率が上がれば……。


 そのとき。沙希のまぶたが震えた。


「沙希……」

 俺は顔を寄せた。沙希の眉毛がくいっと寄る。ふっと緊張が抜けると、まぶたがゆっくりと開き、まぶしそうに何度か瞬いた。

「沙希……」

 俺はそっと囁いた。

「聡……」

 沙希は微笑んだ。昔とまったく変わらない笑顔。

「……おはようのキスして」

 俺はそっとしてやった。昔のように。

「ごめんね。今日は起きられない。学校休むって、清永先生に伝えて」

 ……沙希は、中学のときの夢を見ているのか。

「沙希。学校はもういいんだよ」

「……え?」

「今はもう……」

 そのとき、女の子が目を覚ました。ぱっと飛び起きると、母親の枕もとにすがりつく。

「聡美?」

 この子の名前か。沙希の目がはっきりと見開かれ、俺と聡美という女の子を交互に見比べる。

「まさか……まさか……」

「沙希。これは夢じゃないんだ」

 沙希は、両手で口を押さえて激しく震えだした。

「ああ……神様……神様……」

 大粒の涙が零れ落ちる。後から後から。沙希の両手が、震えながら俺のほうへ伸ばされる。俺は沙希の半身をそっと抱き起こす。沙希は俺の背中に手を回し、俺たちはしっかりと抱き合った。十年ぶりの抱擁。

 と、女の子……聡美が俺の膝に上がってきた。沙希と俺とで挟み込むようにして、三人で抱き合った。まるで親子のように。

 ……もし、神がいるのなら、借りを返してくれたことを感謝したい。


 夕暮れの中、堤防沿いの道を二人で歩いた。聡美をおぶって、ゆっくりと。

「このごろ思うの。生きていくのって、なんて大変なことなんだろうって」

 そうつぶやく沙希へ、思わず俺の口を突いて出た言葉。

「きっと、楽に生きられた時代なんて無いんだよ。俺達の親も、その親も、苦労を重ねて生きてきたんだから」

 そうか、そうだったんだ。

 そう言って沙希は微笑んだ。沈む夕日の最後の光が、彼女の顔を照らす。

 まだ学生で、社会の荒波など知らない俺の言葉を、沙希は素直に受け止めてくれた。彼女の両親。若くして世を去った母親、自責の念から自ら命を絶った父親。そして……たった一人、とり残された沙希。俺なんかが知るよりも、何倍もの苦労をしていたに違いないのに。

 沙希は入院が必要だった。保険証などの準備が要るので、それらを持って明日病院に来るという。そこで、俺は送っていくことにしたのだ。

 沙希に、立って歩けるだけの体力がある。俺にとってはそれだけでも信じがたいことだったが。

 沙希は祖母の家に引き取られたと聞いている。十年前には誰も教えてくれなかった、あるいは知らなかったその住所は、荒川沿いの下町にあった。沙希はそこで娘を産み、育ててきたのだ。俺の知らない、沙希の時間。

「沙希は……幸せだったか?」

 我ながら唐突な質問だと思う。沙希は小首をかしげて考え込んでいた。

「……聡美がいたから」

「……そうか」

 幸せならそれでいい。だが、考え込んでいた分、苦労もあったのだろう。


「聡は?」


 聞き返されて、返答に詰まってしまった。俺にとっての十年。凍てついたままの空白の年月。

「無我夢中だった」

 慎重に言葉を選んだ。

「医者になりたかったから。どうしても、医者になりたかったから。勉強の鬼だったよ」

「聡らしいね」

 沙希は微笑んだ。

 嘘を言っても沙希には通用しない。十年前、沙希に嘘をつけなかったように。

 沙希が目覚めてすぐ、俺は沙希に謝罪した。思ったとおり、沙希は笑って赦してくれた。

「聡がわたしにしてくれたことに比べたら、なんでもないわ」

 変わっていない。俺たちの心の絆は、あの頃からちっとも変わっていない。十年間。この時の流れはなんだったのだろう。俺にとっては、凍りついた、停まったままの時間だった。沙希にとっては、はるかに変化に富んだ時間だったはずだ。背中に感じる沙希の娘、聡美のぬくもりが、その証拠だった。


 それでも、俺に対する気持ちは、ずっと変わらなかったのだろうか。


「聡は努力の人だったものね」

「よせよ」

「だって……わたし、尊敬してたんだもの」

「尊敬?」

「わたしのために、あんなにいろいろしてくれて、勉強も頑張ってて」

 なんだかこそばゆい。

「俺にとっては、どっちも一つだったから。それに……」

 沙希の方に向き直る。

「俺も、沙希のことを尊敬していた」

「わたしを?」

 うなづく。

「合唱コンクール」

「……ああ」

 蘇る思い出に、沙希の瞳が潤んでくる。

「感動したよ。みんな泣いてた。こんなすごいことができる女の子が、俺の彼女なんだぞって、俺、心の中で自慢してたんだ」

 胸の前で手を組んで、沙希は思い出に浸るように目を閉じた。涙が頬を伝う。

「そんなことがあったわねぇ」

「……また、歌ってくれない?」

 びっくりしたように目を開ける。が、俺の顔を見て微笑んだ。

「うん……いいわ」

 すっ、と背筋を伸ばす。

 沙希は歌いだした。翼をください。

 か細い声。だが、はっきりと響く。川面を渡る風に乗り、その声は思いのほか遠くまで伝わったらしい。堤防の上を行き交う人が、何人かこちらを振り返るのが見えた。あの日と同じ感動が、俺を突き動かした。気がつくと、俺も歌っていた。

 二人の声が響きあう。絡み合い、追いかけあう。

 ほう、と息をついて、沙希は言った。

「歌うのなんて、久しぶり」

「俺も」


「……聡美には聞こえないから」


 その言葉は、ぐさりときた。俺は、背中で寝ている聡美のことを忘れていた。母親の声を聞けない哀れな少女のことを。

 黙ってしまった俺を見て、沙希は気遣うように言った。

「いいの。聡美のことは大丈夫」

 笑顔が、どこか無理をしている。

「聡美の障害があったから、わたしも無我夢中でこれたんだから」

 今、聞かなければ。

「沙希……この子の父親なんだけど」

 沙希の笑顔が凍りつく。

「聞かせてくれないか?」

 沙希が視線をさまよわせる。迷っているのだ。

「いないの」

「いない?」

「もう……死んでしまったから」

「……そうか」

「わたしが……身ごもってすぐに」


 俺の知らない沙希が、ここにいる。俺の知らない誰かのことを、思い出している沙希がいる。


 ……俺にはもう一つ、どうしても聞かなければいけないことがあった。

「愛してた?」

 沙希は、ゆっくりとうなずいた。……なら、それでいい。

 聡美は八歳か九歳だから、中三か高一の時の子供だ。よく産めたものだと思う。

 だが、それなら沙希は孤独ではなかったのだ。誰かは知らないが、沙希を愛して支えてくれたやつがいたのだ。

 俺は、浜田氏のことを思い出した。ひたすら、娘のことだけを想い、自分の命を削って愛していた父親。俺との間には、一種の戦友のような気持ちがあった。どこの誰かは知らないが、沙希を愛して死んでいったそいつにも、同じ気持ちが感じられた。

 背中の聡美が目を覚ました。体を起こして、周囲を見回しているらしい。

「あら、起きちゃったのね」

 沙希が近寄ってきて、聡美に向けて手話で話し掛ける。聡美も、俺の首に腕を回したまま、俺の顔の前で手話を紡ぐ。

「……なんて言ってる?」

「おなかがすいたって」

 沙希はくすくす笑った。

 俺たちは家路を急いだ。


 沙希の祖母の家は、木造二階建ての3DKのアパートだった。少なくとも、築三十年くらいは経っている。おそらく、沙希の母が育ったのも、ここなのだろう。

 階段を上って、玄関に上がると、沙希はそそくさと台所に入り、夕食の準備をはじめた。俺は玄関で聡美をおろすと、そのまま肩越しに沙希へ声をかけた。

「沙希、じゃあ俺、帰るから」

 沙希が首だけ出して言う。

「え、そんな、ご飯食べてってよ」

「でも……」

 くい。ジーパンを引っ張る手。

 振り返ると、聡美がじっと俺を見上げていた。どうも、この瞳には弱い。

「なんだい?」

 かがみこむと、盛んに手話を紡ぎだす。これは、本格的に勉強しないと。

「沙希、悪いけど、通訳してくれる?」

「え? ちょっとまってね」

 エプロンで手を拭きながら出てくる沙希。なんか……すごく家庭的でいい感じ。

 しゃがみこんでひとしきり娘と対話すると、沙希は俺に言った。

「一緒にご飯を食べようって」

 逆らえなかった。

 そのとき、台所でシューッという音。

「いけない! おなべが噴いちゃった」

 パタパタと走っていく沙希。俺は観念して靴を脱いだ。

 ダイニングキッチンは、質素なテーブルと四つの椅子で一杯になってしまう大きさだった。

「何もありませんが、どうぞ」

「いただきます」

 夕食の献立も、質素なものだった。俺と聡美にはクリームコロッケと野菜の煮付け。沙希の方は、そのまま病院食になるようなものだった。

「……ずっと、そういうのを?」

 沙希は、おかゆというより、おもゆに近いものをさじですくって飲んでいる。

「うん……身体を大事にしないといけないから」

 娘のために、入院はできない。だから、自分でしっかりと健康管理をしてきたのだという。医者の卵として、これは非常に参考になった。

「お昼は失敗しちゃったけど」

「何が?」

「古本屋さんを回っていて、外で食べたのがね、合わなかったみたい」

 なるほど。胃に負担をかけない外食ってのは難しい。

「古本屋で何を探してたの?」

「聡美が大好きな童話の続編が、絶版になってて」

「どれ?」

 俺は、その本のタイトルを教えてもらった。

「今度、探しとくよ。児童心理学研究室にあるかもしれない」

「ありがとう」


 食事が終わると、またもや聡美が袖を引っ張る。


「今度は何?」

 誘われるまま、隣の四畳半に移る。壁一面の本棚。沙希の部屋なのか? ちら、と背表紙を見る。一般向けの医学書や健康食、料理の本が目立ち、沙希の努力がうかがえる。

 だが、ほとんどは心理学関係のものだった。フロイド、ユング、アドラーといった古典派をはじめ、専門書が並んでいる。

 俺は「臨床心理学体系」というハードカバーの本を取り上げた。びっしりと書き込みがしてある。驚いた。大学の心理学専攻で教科書に使っている本だ。


 父親の自殺が、こうした分野への興味に向かわせたのだろうか。それが逆に、沙希の生きる力となっているのなら、まさに不幸中の幸いだ。


 聡美は、部屋の奥の小さな座卓の上にある写真を取り上げて、俺に手渡した。

「これは……」

 めくるめく思い出。

 それは、キヨさんが奥多摩で撮った、俺と沙希の写真だった。子供らしさを残した、あどけない笑顔の二人。幸せな、胸が痛むほど幸せだった一日。

 聡美が、盛んに手招きしている。振り向くと、同じ手話を繰り返した。はじめはお母さん、次に左手の甲を右手で撫でるしぐさ、最後は……。

 かたん。背後でふすまが鳴った。振り返ると沙希が立っている。複雑な表情で。

「沙希、この手話は……」

 人差し指で頬をなで下ろし親指を立てる。小指が母親なら親指は……。

 沙希は部屋の真中に正座した。うつむいて言う。

「ごめんなさい。父親の写真、無いの。だから……」


 俺は理解した。父のことを知りたがる聡美に、俺を父親だと教えたのだ。


「謝ることはないさ。だから、俺の名前を?」

 聡美はうなずいた。俺はちょっとだけ満足してしまう。そんな自分を恥じながら。聡美の実の父親は、娘の記憶に残ることができなかったのだ。そして、沙希にとっても、俺のほうが大きな位置を占めていることになる。

「まあ、あのとき、俺がしくじらなかったら、ほんとに俺の娘になったはずだもんな」

 沙希は真っ赤になってうつむいた。思い出しているのだろう、初体験未遂事件を。


 ここに来る道すがら、俺の心の中では決心が固まっていた。それは、この家の玄関をくぐってから、ますます強固なものになっていた。今こそ、言わなければ。

 俺は沙希の方を向いてきちんと正座をした。沙希はびっくりして顔を上げる。

「聡……?」

「沙希、よく聞いてくれ」

 何かを感じ取って、沙希も居住まいを正す。ぴんと伸びた姿勢。あの日のままだ。

「沙希、結婚してくれ」

「え……?」

「俺と、結婚してくれ」

「え……え……?」

「聡美の……ほんとの父親になりたいんだ」

 沙希の瞳が潤んでいく。沙希のうれし泣きは、滅多に見られない。

「うそ……うそ……だって、わたし、子持ちで」

「父親になりたいって、言っただろ?」

「わたし……病気が……」

「知ってたさ、最初から」

「最初って……」

「中一の春、おまえが退院してくる前から」

 両手で口を押さえ、目を大きく見開く。涙がさらに溢れる。

「そんな……そんな、それじゃ、ずっと……」

 俺は、沙希の両肩に手を置いた。

「俺は、おまえが死ぬ時、そばにいたい。それだけをずっと願ってきたんだ」

「聡……」

 沙希を抱きしめる。沙希は、子供のように激しく泣きじゃくっていた。


「俺は嬉しいんだ。今、おまえに会えたことが。ずっと、ずっと、俺の知らないところで、おまえがたった一人で死んだんじゃないかって、それだけを気に病んでいたんだ」

「聡……聡……聡……」

 沙希は、俺の名を呼びながら泣きつづけた。十年分の涙だ。俺の肩に顔をうずめ、シャツの上に涙で染みを作っていく。

 その肩に、小さな手がそっと置かれた。

「聡美……」

 泣いていた。微笑みながら。俺は片手を沙希から離し、聡美を抱きしめた。

 三人で抱き合い、一緒に泣いた。

 この日、俺たちは家族になった。


 沙希のアパートの玄関を出たとき、夜はすっかりふけていた。もう風が冷たい。階段を下りようとすると、下から見上げている老婦人と目が合った。和服をきちんと着こなし、背筋を伸ばしてたたずむその姿。沙希の祖母だ、そう確信した。どこか、沙希とよく似た意志の強さを感じる。

 俺は階段を下りていった。老婦人は口を開いた。

「霧島聡かね」

「はい」

 ビシッ。平手で殴られた。

「沙希がどんなに苦労したか、知っているのかね」

「結婚します」

 単刀直入に言うしかない。さすがに、老婦人の怒りもそがれたようだ。

「本気か?」

「本気です」

「あの娘は、長く生きられん」

「俺の願いは、あいつの最期を看取ることです」

 じっと目を見て答える。そのまま見交わす。やがて、老婦人は目をそらし、ため息をついて言った。

「バカな男だ」

「ありがとうございます」

 深々と一礼して歩み去った。

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