初恋

第2話 エレベータは停まらない

 今から十一年前の春。


 中学に入ると、俺は保健委員に選ばれた。親父が医者だから、という理由だが、俺としては嫌でたまらなかった。

 保健委員というと、なんだか女の仕事、みたいなイメージがあったからだ。当時の俺は、紅顔の美少年……というのは冗談にしても、どちらかというと女顔で、そのことに劣等感を持っていたのだ。声変わりもまだで、早くも髭が生え始めたやつらがうらやましかった。

 この点は十年たってもあまり変わらず、一度髭を伸ばしてみたが、なんとも貧相なので剃ってしまった。同窓会でも必ず、「おまえは変わらないなぁ」と言われてしまうありさまだ。

 とはいえ、何らかの委員に選ばれると放課後の部活動が実質免除になる点はありがたかった。

 医者の息子は医者になる。どこの誰が決めたのか、それがこの国の常識になって長い。俺の家も例外ではなく、小学校の頃からあれこれ塾や家庭教師に時間を取られていたのだ。部活は強制ではないのだが、ほとんどの生徒が入っていた。委員会は週に一度なので、部活に入らずに済めば、多少は自分の時間が増える。


 そうして二週間ほどたち、クラスメイトの名前も一通り覚えた頃、教室の一番後ろに一つだけ空いている席が気になりだした。名簿を見ると、浜田沙希とある。担任に聞いたところ、何でも去年大病を患って、進級が一年遅れたのだという。駅の向こう側の、防衛医大に入院しているらしい。


「そうだ、おまえ今度の日曜、一組の代表で見舞いに行ってくれないか?」

 清永きよなが一郎、通称キヨさんという空手五段の国語教師が、がっしりとした手で俺の肩を掴んで言った。この担任、学生時代に頭で岩石割りに挑戦したとかで、傷だらけの顔で迫力満点の容貌だった。しかし、外見に似合わず生徒想いで、俺も非常に世話になったのだが、この押しの強さだけは時折辟易する。

「え……ひょっとして俺一人で?」

「嫌か?」

「嫌って言うか……」

 照れくさい。気恥ずかしい。そもそも、思春期真っ盛りの中学生は、異性に対する意識が強すぎる。良くも悪くも。

「ほんとなら、クラス全員でいければいいんだが……この間のがあるから、今月は無理なんだ。だから、頼む」

 と、手を合わせる。

 担任に拝み倒され、俺はしぶしぶ承知した。


 ちなみに「この間の」というのは、クラスの親睦のために行ったハイキングのことだ。市の教育委員会の通達とかで、教師が主催する校外活動は月に一度まで、ということになっているらしい。クラスメイトのお見舞いが校外活動なのか? お役人のやることは、今も昔も理解しがたい。


 そんなこんなで、俺が防衛医大を訪れたのは四月最後の日曜日だった。

 昔、米軍の基地だった土地が返還された場所で、今はマンションや市役所などの施設が立ち並ぶ中に、防衛医大はある。親父の職場。ここで心臓外科医をしている。

 返還された土地の使い道によほど困ったのか、門から玄関までの距離は結構ある。面会用の入口に行くと、奥のほうから声をかけられた。

「あら、さとしくん。なに? お父さんに用?」

 顔見知りの看護婦だった。たしか、親父のいる部署の。ちょっと美人で、世話焼き。

「いえ……あの、友達の見舞いで」

 平然と言えばいいものを、うろたえたりするから勘ぐられる。

「ふーん。女の子?」

「えっ、なんで」

 わかるって。

「頑張ってねー」

 青春、青春とか言いながら、腰を振り振り歩み去る。きっと、一時間以内に病院中の看護婦全員が知ってるに違いない。

 俺は長いため息をつくと、のろのろと窓口に近づいた。もう嫌だ。帰りたい。とはいえ、それでは月曜日にキヨさんに合わせる顔がない。下手すれば平手が飛んでくるだろう。空手五段は伊達じゃないので、俺みたいな小柄な男子生徒など、部屋の端まで吹っ飛んでしまう。その後で懇々と説教が来るのだ。ごめんなさい、悪うございましたと反省するまで。近頃珍しい熱血教師だが、そのせいか生徒からの信頼も篤い……。

 心の中で、帰りに看護婦連中にからかわれるのと、担任にのされるのと、どっちが損かを天秤にかける。選択の余地はない。


 神妙な顔で面会窓口をのぞくと、警備員のおじさんがにこやかに迎えた。やれやれ、もう一人の方でなくて良かった。夜間を主に担当する方は、コワモテでぶっきらぼうなのだった。

 担任から聞いた病室番号と面会相手の氏名、自分の名前を記入すると、警備員はニコニコしながら聞いてきた。

「彼女かい?」

 ブルータス、あんたもか。弱々しくもあいまいに微笑んで、俺は奥に進んでエレベータに乗った。


 ここのエレベータは調子が悪く、階数のボタンを押しても通り過ぎることがある。このときもそうで、五階を押したのにそのまま登りつづけ、最上階まで行って停まった。小さく毒づいて、ボタンを押しなおそうとした、その時。


 かすかな歌声が響いてきた。消え入りそうなソプラノ。


 しまりかけたドアを手で押さえて、忍び足で屋上へ出た。途端に、白い光の乱舞が俺を取り巻いた。

 昨日までの春の長雨が嘘のような、抜けるような青空の下。屋上には見渡す限り洗濯物が干してあった。真っ白なシーツの群れ。そのむこうで、手すりを背にもたれながら、純白の夜具を来た少女が歌っていた。俺も良く知っている歌……翼をください、だ。春の日差しのように、温かく透き通るような声。


 目を閉じ、胸をそらして歌っているので、やせぎすにもかかわらず意外と胸のふくらみがあることに気づく。……慌てて目をそらす。

 腰まで届きそうな長い黒髪は、わずかに栗色を帯び、カールしていた。入院中だから、天然パーマなのだろう。肌は抜けるように白く、手足は折れそうなほど細い。すらりとした背丈は俺くらいはある。

 しばらくその場で凍り付いていたが、少女の声が途絶えて突然激しく咳き込みだした時、勝手に身体が前に飛び出した。

「……ありがとう」

 礼をいわれてはじめて、自分が何をしているのかに気づく。うずくまった彼女を抱え、背中をさすっていたのだ。

「あ……えっと、ごめん!」

 真っ赤になって身を離し、立ち上がる。少女も立ち上がろうとするが、ふらついて倒れそうになる。またもや、勝手に両手が少女の両肩を掴み、横から抱きかかえる格好になった。少女の白い横顔が、薄紅色に染まっていく。


 俺はしばらく、馬鹿みたいに呆けて見つめていたらしい。


「あの……もう大丈夫だから」

 はっと我に返る。またもや真っ赤になって、一メートルは飛び退る。

「ご、ごめんなさい!」

 少女はクスッと笑って言った。

「謝ることなんてないのに」

 でも、でも、……じゃあなんと言ったらいいんだ?

 熱暴走気味の脳みそをフル動員して、やっと見つけ出した言葉。

「歌、うまいんだね」

「……」

 少女の笑顔が凍りつく。そのまま瞳が潤みだし、涙がこぼれ始める。あまりのことに、俺はすっかりパニックを起こしてしまった。

「あ……あの。エレベータが五階で停まらなくって。そしたら君の歌が聞こえて……」

 声もなく、さめざめという表現がぴったりな感じで、少女は泣いていた。俺の方は、パニックを通り越して思考停止状態。

「……歌がすきなの」

 しばらくして、少女が言った。くるりと後ろを向き、手すり越しに遠くを見やる。涙は一向に止まらない。口を手で押さえながら、震える声で彼女は言った。

「でも、もう歌えない」

「……」

 機能停止した脳みそからは、投げかける言葉は出てこなかった。かわりに、少女は右胸を両手で押さえて言葉を続けた。

「この中は空っぽなの。去年、肺を片方取っちゃったから……」

 俺は……医者の息子として恥ずかしい限りだが、この時初めて、いかに病気が残酷なものかを悟った。

 きれいな声なのに。こんなにきれいな声なのに……。

 少女がこちらを向く。その目がびっくりしたように見開かれる。

「泣いてるの……?」

「え……?」

 脳みそが固まってたせいだろうか。何のコントロールも受けていなかった俺の両目からは、熱い液体がこぼれていた。

「……ありがとう」

「ご、ごめ……」

 反射的に言いかけて、はっと気づく。いくらなんでも、ちぐはぐな言葉。

 しばらく見つめあった後、どちらからともなく吹き出した。

「あなたも患者さん?」

「友達の見舞いで……」

「彼女?」

 あう。一体、顔にでも書いてあるのか? 両手でごしごしと顔をこする。半分乾いた涙がむずがゆい。

「だったら、花束くらい無くっちゃね」

 買うか、そんなもん。

 ちょっと意地になって心に決める。

「じゃあ、俺、行かなくちゃ」

「じゃあね」

 にっこり笑う少女。だが、どこか無理をしているような……。

 エレベータの前で、最後に振り返る。今でも、目を閉じるとはっきり思い出せる光景……。


 はためく白い布の中で、長い髪を春風になびかせ、寂しげにたたずむ少女の姿。


 ぎゅっと目を閉じ、無理やりエレベータに踏み込む。ドアが閉じてから目を開け、今度こそとしっかり五階のボタンを押す。

 ……またもやエレベータは停まらず、そのまま地下まで降りてしまった。ドアが開くと、そこは購買の店が並んでるフロアだった。ドアの正面は……花屋だった。どうも今日は、万事がそうらしい。

 観念してエレベータを降り、花屋に歩みよったが、そこでまた固まってしまった。生まれてこの方、花なんて買ったことがないのだ。

 すかさず、店員のおばさんが声をかけてきた。

「お見舞いですか?」

「ええ、友達の」

 そう言って、次の言葉に備えて腹をすえた。どうせまた……。

「もしかして、彼女?」

 ほらね。

「そうです」

 もう破れかぶれだった。胸まで張ってしまった。おばさんはニンマリ笑うと、特大の花束を作ってくれた。

 代金を払うと(しっかり取られてしまった。商売人め!)、当てにならないエレベータを見放して、五階まで階段を一気に駆け上った。だから、五〇一号室のドアの前に立った時、俺はまだ息が切れてはぁはぁいってた。

 ノックすると、スリッパのひたひたという音が近づいてきた。カチャリとドアが開いたとき、花屋のおばさんに言ったことが、あながち嘘でなかったことを悟った。


 ドアの向こうには、カールした長い髪をなびかせ、びっくりしたように目を見開いた少女――浜田沙希が立っていた。

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