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「庚申講と見て間違いないだろうね。」


 一通り話を聞き終えた先生がそう言った。庚申講とは三尸信仰によって生まれた行事である。体内にいると言われる「三尸虫(さんしちゅう)」が庚申の日の夜、宿主が寝ているときに体から抜け出て天帝に宿主の働いた悪事を報告し、宿主の死後、その報告をもとに地獄行か天国行かを決定される。三尸虫が抜け出すのを防ぐために庚申の日に貫徹するのが庚申講である。


「境内に庚申塔があるはずだ。今は暗くて危ないから朝になったら見に行こう。」


 川凪さんが僕らの暇を見計らって近づいてきた。


「ちょっとお時間良いですか。」

「構いませんよ。」


 川凪さんは、僕らが島民から冷たくあしらわれているのに責任を感じて、町長だというのに祭りが始まってからずっと僕らについてくれている。彼の頼みを足蹴にするほど僕らも鬼じゃなかった。


「ここじゃなんですから、お社の外へ出ましょう。」

「ええ、わかりました。」


 川凪さんは僕らが部屋を出るところを注目されたくないようで、他愛のない話をしながら部屋を横切った。


「お土産美味しかったです。」

「それはよかったです。町長さんなんでいろんな所の名物なんか食べ飽きているかもしれないと心配だったんですよ。」

「いえいえ、そんなことありませんよ。私はああいう甘いものに目がないんです。」


 川凪さんの甘いもの好きは、彼の突き出た腹が体現していた。

境内は川凪さんが持っている懐中電灯以外の光源はなく真っ暗だった。夜になって幾分か涼しくなっていた。木の葉や土の匂いが心地よかった。


「これを見ていただきたいと思いまして。」


 川凪さんはバッグから何か取り出して先生に手渡した。川凪さんのライトで照らすとそれが金色のティアラだということがわかった。


「先生ならこれが何か分かるかと思いまして。」

「私は考古学ではなくて宗教民俗学の専門家ですからね。ただ、日本では珍しいものだともいますよ。この文様とかが。」


 ティアラには奇妙な流線型の文様が刻まれていた。そこには目や口のようなものが彫られていて、生き物が描かれているようだったが、生き物だとすると到底この世のものだとは思えない異形の生き物が描かれていることになる。人ならぬものが彫ったとしか思えない造形の生き物のようなものが描かれていた。


「これはどこで手に入れたんですか。」


 先生がティアラをいろいろな方向から観察しながら聞いた。


「私のものじゃないんです。ヤマニシの家の押し入れの奥から見つかったんです。オシンメサマがいなくなったということだったんで、気味悪くなってヤマニシの家の中を探していたら出てきたんですよ。」

「いずれにせよ、私には詳しいことはわかりません。写真を撮ってもいいですか?」

「ええ、ぜひ撮ってください。」


 静かな暗闇の中で、スマホのシャッター音が鳴っていた。社からは太鼓の音が鳴り始めた。眠気覚ましのために大きな音を打ち鳴らすのは庚申講でよくあることだった。この山が女人禁制だったのも、庚申信仰に基づき女性が血で穢れていると考えられていたからであろう。子供たちの間で噂される「エナドリオジサン」は庚申講のためにエナジードリンクを買っている人がその正体だろう。少しずつではあるが謎は解けてきていた。

しかしながら、まだ分かっていないことがたくさんあった。というよりも、わかっていないことの方が多かった。この島で行われている「オシンメサマ」信仰の正体はわからず、不気味な印象を保っていた。

恐らくは土着信仰なのだろうが、何か禍々しいものを感じずにはいられなかった。島民も信仰について詳しく知らないようだった。わざと必要な知識だけが抜け落ちているようだった。

そして先生や熊沢さんが見たという大きな人面イモムシ。よく考えてみれば、島で祀られている「オシンメサマ」みたいだと思った。「オシンメサマ」の神像も四肢がない人の顔を持った像だった。「オシンメサマ」をヒルコと同一視していたからか、イモムシとの関連は見抜けなかった。


「庚申信仰って興味深いと思わないかい。」


 熊沢さんが僕に言った。


「けど、一種の民間信仰でしょう。」

「そう。この国では様々な信仰を受け入れてきたでしょう。この信仰はそういう日本の信仰、というか宗教観を体現していると思うんだ。庚申信仰のルーツは道教思想に基づくけど、そこに神道や仏教の要素が混じっている。サルタヒコや青面金剛だ。それに道祖神と混同しているような雰囲気もある。そうやっていろんな所から混ざり合ってこの庚申講が出来上がっているってところが、僕には非常に興味深い。」

「確かに、別の宗教が合祀されるってなかなか珍しいですよね。知ってました?西本願寺には山上の垂訓の漢訳版があると噂されているんですよ。」

「景教経由で来たのかな。あったとしてもおかしくはないよね。」


 「日本は文化の吹き溜まり」とは誰の言葉だっただろうか。「吹き溜まり」とはゴミが集まっている場所というような悪い意味にとらわれがちだが、ここでは色々なところから集まってくる場所として使われている。

 人間にとって「死」は経験したことのないものであるゆえ、恐ろしさだけでなく興味深さも併存している。そのため、世界には様々な「死の始まり」が信じされている。だが、一つの信仰に対して一つの死の起源神話があるのが普通である。

しかし、記紀では2つの死の起源神話が述べられている。イザナギとイザナミの離縁とニニギとコノハナノサクヤヒメの結婚である。前者は南洋、後者は東南アジアからの影響があったとみられる。

では、根が違う信仰が合わさって別の信仰ができた時、新しい信仰は効力を保っているのだろうか。例えばサルタヒコは後世になって庚申信仰に取り入れられた。そのサルタヒコを信じることが、庚申講に何らかのご利益を得ることにつながるのだろうか。

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