第6話/巣立ちの日⑥

 担任の小畑教諭がいつになく神妙な面持ちで教室へ入ってきた。胸には鮮やかな生花のコサージュが挿さっている。おじさんとビビッドな生花との対比とは、なんとも妙なものである。浮いているようでいて、お互いが補完しあっている。これで完成したと言っても過言ではない。つまり、似合っているということなのだろう。そんなどうでもいいことを考えながら席へ着いた。


 小畑教諭は、いつも通りぼそぼそと、良く言えば淡々とこの一年間を振り返った。そして、突然、言葉を詰まらせた。泣いている。大の大人が泣いている。手入れのされていない凸凹の肌を、無精ヒゲの目立つ顎を、一筋の美しい涙が伝った。アラフィフ独身男の涙というのは、素直にクるものがある。


「俺はここ数年、卒業式では泣かなんだがなぁ……。明日からお前らがこの教室にいないと思うと、寂しいよぉ……」

 ぼそりと吐き出されたその言葉は、一切の例外なくクラスメイト全員の心に刺さった。最高の誉め言葉だと思った。このアラフィフの教諭が俺たちに沢山の事を教えてくれたように、俺たちも何かしらを小畑教諭へ与えられたんだという勲章のような言葉だった。


「先生!」

 感極まった亮介が椅子を大きく鳴らして立ち上がると、小畑教諭に駆け寄り、抱きついた。小畑教諭も亮介を優しく抱擁した。気づくと皆立ち上がり、小畑教諭を囲んでいる。


「おばっちゃ~ん」


 後ろの席から駆け出した詩織が大声を上げて、輪に加わった。


「小澤! おまえか、俺をおばちゃん呼ばわりしてたのは! 職員室で話題にされてたんだぞ!」

 泣きはらした目で叱咤しったする小畑教諭に、詩織はたじろいだ。


「ば、ばれたか……」


 教室に笑いが沸き起こる。やっぱり、詩織は外さない。攻めても、攻められても、確実に結果を残す。攻守両立のコミュニケーションお化けの異名を違えない働きだった。


 生徒と、そして自らの気持ちが落ち着いた事を確認して、小畑教諭は皆を再び席へ着かせた。二、三の連絡事項の伝達の後、晴れやかに言った。


「よし! みんな、これで卒業だ。 解散!」


「「「ありがとうございました!」」」

 全員が示し合わせたように立ち上がり、深く頭を下げた。




 教室には結構な人数が残り、語り合ったり、写真を撮ったりと名残を惜しんでいる。再び、小畑教諭を囲う輪ができていた。自然と緩む口元を引き結び、俺は教室を抜け出した。


「爽哉……」


 廊下で待ち構えていたのは宮永遥みやながはるかだった。窓際の壁にもたれかかって、腕を組んでいる。まだ三月だというのに健康的にけたその肌は、彼女が実直に練習を重ねているのを物語っていた。パステル調の赤毛で、耳に少しかかる位のショートカット。いつもと違って襟足を少し跳ねさせている。茶肌に短髪でもボーイッシュに見えないのは、その顔の小ささと睫毛の長さのせいだろう。ツンと通った鼻筋も印象的だ。チェックのスカートから伸びるしなやかな脚は、細いながらも程よい筋肉で野生の鹿を思わせた。


「おう! 遥! スポーツ推薦が決まったんだってな。おめでとう!」

 遥は照れたように俯いた。


「あ、ありがとう……。これも全部、爽哉のお陰だよ……」

 つぶらな瞳が上目遣いに、視線を彷徨さまよわせる。こうやって見ると、やはり顔のパーツの一つ一つが小さい。モデルのようだ。


「いや、全てはお前の努力が実を結んだ結果だ」

 遥の肩に手を置いて、まっすぐに見つめて言った。


「でも、背中を押してくれたのは爽哉だから」

 俺は頭を左右に振った。


「校長も喜んでるらしいな。あんなスポーツ有名大学に自校の生徒を輩出できるなんて、誇り高いだろう。何かにつけて、周りに言いふらしているらしいぞ」


「そんなこと言われると、恥ずかしいよ……」

 遥は顔を真っ赤に染めて、また俯いてしまった。


「また応援に行くよ。遥の大学へ」


「うん……。ありがと。待ってる。でさ……」


「何が欲しい?」

 遥は驚いたように一気に顔を上げた。


「なんでわかったの⁉」


「なんとなく」

 それは嘘だった。今日一日の経験則からの先制攻撃だった。


「ネクタイ……」

 遥は伏し目がちに呟いた。


 ネクタイ、か……。新しいパターンだな。


 俺はネクタイの結び目に手を掛けると、指を差し込んでシュルシュルと解いた。戸惑いながら見つめている遥の首筋に手を伸ばす。男子用ネクタイと同色デザインのリボンへ手を掛けた。身体には触れないように、指先だけでそっと、そのホックを外す。


「ふぁっ!」

 遥が驚きとともに短い声を上げる。


 俺はリボンを素早く引き抜くと、ポケットへ収めた。代わりにネクタイを巻いてやる。口を開けたまま固まっていた遥が小さく呟く。


「いいの……?」


「ユニフォーム交換みたいなもんだ。代わりに、リボンはもらっておくぞ」

 雑に巻き付けられたネクタイが、プロポーションの良い遥の身体を這うように伸び、女性特有の妖艶さを引き立てていた。


「似合ってるよ」


「あ、ありがと……」


 遥は息も絶え絶えに、なんとか声を捻りだした。やばい。時間がない。虚空へ視線を彷徨わせ上気する彼女を見続けていたい衝動に駆られるが、なんとか我慢する。


「じゃ、俺は行くわ」


「え、えぇ……またね」

 手を差し出すと、おずおずと握り返してくれた。前へ進む足に従って握った手が離れると、名残惜しそうに遥の指先が宙を彷徨った。しかし、それは一瞬だった。迷いを振り切るように小さな握りこぶしへと変わる。


「私、練習がんばるから! 大学で待ってるから!」

 遥は決意を吐き出すように言った。


「あぁ、楽しみにしてる!」


 小さく手を振ると、後ろ髪引かれる思いで歩き始めた。

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