第36話 院長の決断

 それから一週間経ったみぞれ混じりの雨の日、健介は駅ビルのカフェで緑と向かい合っていた。


「こんな風に会うのは久しぶりだな」

「奥様はいいっておっしゃったんですか?」

「ああ、今回は特別に許可取った。日帰りって条件だけどな」

「急にどうされたんですか?きっと翠の話だと思いますけど」


 緑も警戒している。半年前に瑠璃から聞いた下宿の話は記憶に残っている。その後、翠が志望校を県立看護大学にすると聞いて、やはり安堵していたのだ。東京に来いとか余計な茶々を入れに来たと、緑は勘繰っていた。


「あのな、翠、医学部を受けさせんか?」

「え?医学部?」


 健介の話は緑の予想とスケールが違った。


「うん。翠の成績のことは瑠璃からも聞いてるんだ。ウチの近くの医大だって多分大丈夫だろう」

「でも本人の希望は看護師ですよ」

「いや、多分キミには言えないんだと思う。そりゃそうだ、学費のことも、下宿のこともあるからな」

「そんなこと、翠が健介さんに言ったんですか?」

「いや直接は聞いていない。でもな、彩葉ちゃんが気にしてるんだよ」

「彩葉ちゃんが?」


 緑の眉間に皺が寄った。やっぱ歳取ったな…健介はそっと思った。


「うん。二人仲良しだし、大人に言えないことも聞いてるみたいだ。俺が翠に聞いてもそうは言わんだろう。でも一生を決める話だし、迷ったままで看護に行くといい結果にならないんじゃないか。もちろん看護も受けたらいいと思う。でも本命を医学部にしてやれんかな」

「だって、私はそんなに出せません。医学部って普通のサラリーマンでも苦しいって」

「だから俺が来たんだよ。これまで翠に対しては大したことはしてやれなかった。でもな、朱雀の面倒を見てもらった時、俺も後悔したんだ。キミに任せっ放しで、申し訳ないの一言なんだけど、今さらながら、ここで何かしてやれないかと」


 緑の眉間の皺は一段と深くなる。


「そう言って翠を取り込むつもりなんじゃないですか?」

「そう見えるかも知れない。でもそういう子じゃないよ、翠は。瑠璃も太鼓判だった。稀に見るいい子だって。きっとキミに似たんだって散々言われたよ」


 緑は視線を逸らした。確かに翠は自分からそんな希望を私に打ち明けることはしないだろう。アンカー…か。半年前、瑠璃から聞いた言葉が蘇る。あの時、私は瑠璃に翠の名前の理由を、キラッと光るみどりになって欲しいからって答えたんだ。それは本心だ。


「今答えないと駄目ですか?」

「いや、それは無理だろう。翠と話してみて欲しい。それで前に瑠璃も言ったそうだが、ウチに下宿すれば生活も面倒見る」

「はい…」

「キミは淋しいかも知れないけど、翠には翠の人生がある。それは尊重してあげたい。俺はあの子を貝原病院に取り込もうなんて思ってない。卒業後はこっちに戻るのもいいと思っている」


 緑は小さく頷いた。その通りになってくれたらいいけど…。


 健介は少し間を開けた。


もっとも翠が貝原病院を気に入ってくれて、残ると言ってくれたら俺としては歓迎なんだけど。実はそういう下心もゼロじゃないけどな」


 そう言ってニコッと笑った。ったくいつもこの手だ。いつも後出しジャンケンの笑顔。ちっとも変っていない。そう解っていても、残念ながら私はいつもそれに騙されて来たんだ。緑は怒った顔を見せようとしたが、その前に健介は続けた。


「それと、これも多分だけど、彩葉ちゃんも一緒に下宿してもらおうかと思ってるんだ」

「彩葉ちゃん、ですか?」

「うん。それなら少し安心だろう? 瑠璃は彼女に若月を勧めるつもりみたいだ。実力的には問題ないって」


 彩葉ちゃんと一緒。確かにそれなら幾分安心だ。彩葉ちゃんもこっちの音大って翠言ってたけど、彩葉ちゃんのフルートの実力は、もう少し上とも言っていた。


「また、連絡します」

「うん。頼みます。俺の役目も少し与えてくれ」


+++


 その夜、緑は翠に話した。健介は多分彩葉から瑠璃経由で聞いたのだろうが、そこは端折り、あくまでも健介の罪滅ぼしの体を取った。翠はじっと聞いていた。医学部の言葉を出した瞬間、翠の目は大きく見開き、拳がギュッと握られた。

その態度から、緑は翠の本心を悟った。この子は、ずっと我慢していたんだ。アンカーの事だけを思って、ずっと私に心配かけまいと笑顔を作ってたんだ。初めて恋した男性が実の兄と判っても、決して大泣きせず、抑えきれない涙と声をカーテンの陰で押し殺していた。そんな子だったんだ。アンカー…また思い出してしまう。


「ね、翠。だから遠慮はいらないと思う。お母さんは全然大丈夫。いろんなことをずっと我慢して来た翠への、神様のご褒美だと思うよ」


 翠の頬に涙がぽろっと零れた。翠は椅子から慌てて降りて、そして緑の足下に正座した。


「ごめんなさい、お母さん。あたし、そうさせてもらっていい?」


 翠はそう言うと額を床にすりつける。緑は驚いて椅子を降り、震える翠の背中を抱き締めた。


「ごめんね、翠。ずっと我慢させてきて」

「ううん…」


 翠の胸には、少ししょっぱい、しかし若々しい大きな蕾が膨らんでいた。

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