第13話 紅の舞台

 その後の副科実技のレッスンは、取り立てて変わったことなく進んだ。なかなか全ての色が見えるところまではいかないが、彩葉と朱雀のアンサンブルも形になり、演奏会にも間に合いそうだ。


 そして迎えた演奏会前の最後のレッスン、副科実技の時間、彩葉はフルートを構えて、朱雀を待っていた。

始業時間を過ぎて10分、なかなか朱雀は現れない。おかしいな、貝原さん間違ってんのかな。彩葉は廊下に出て辺りを見回す。丁度、別の練習室に向かって、音楽科の生徒が歩いて来た。


「ねえ、貝原先生見なかった?」

「あー、さっきトイレに入ってったよ。私が出てきた時すれ違った。金色の頭の人でしょ」

「うん、有難う」


 彩葉は廊下の端っこのトイレに向かって歩いた。並んでる練習室からいろんな楽器の音が聞こえる。男子トイレの前まで行って、彩葉は困った。入る訳にいかないしな、大声で呼んでみようかな。その時、トイレの中から咳込む声が聞こえた。随分苦しそうだ。もしかして貝原さん?体調悪いのかな。ずっと前に翠が言った事が気にかかる。あの子は何を見てあんな事言ったんだろう。私と貝原さんの事を妬いてるだけじゃなかったのかな。咳は続いている。彩葉は声を掛けてみた。


「貝原先生!大丈夫ですか?」


あれ、静かになった。暫くしてトイレのドアが開き、朱雀が出てきた。ハンカチを握りしめている。


「先生、大丈夫ですか?しんどそうでしたけど」

「あー、ごめん。心配かけちゃって。大丈夫だよ。気管に何か引っ掛かったのかな?遅刻だな、はは」


言いながら朱雀は廊下を歩き出す。


「あの、無理に歌わないほうがいいんじゃないですか」

「うん、いや大丈夫。今日が最後だからさ、ちゃんと合わせとかなきゃ」


 喋る朱雀の口元、唇の内側が何だか黒っぽく見える。あれ、先生、咳して唇噛んじゃったかも。


 しかし彩葉には、その日、青白かった朱雀の顔色は見分けられなかった。


+++


 結局、翠は何も出来ないまま、6月の終わり、音楽科の1学期末演奏会が始まった。


 演奏会は他の学科の生徒にも開放されているので、彩葉と疎遠になっているにせよ翠も最前列で見守っている。最後から3番目に彩葉の出番がやって来た。彩葉と朱雀はまず礼をして、そして朱雀は彩葉の右後方に立つ。最初に二人は短く音を合わせる。1か月以上練習しただけあって、彩葉にも朱雀の声楽伴奏に違和感はない。

演奏する『うつろな心』は元々、それほど複雑な伴奏ではなく、拍子をとるような朱雀の『ラ・ラ・ラ』が一種メトロノームのような役割も担っている。と言っても主役は彩葉である。ちらっと斜め後ろを見た彩葉は、小さく頷いて朱雀に合図をした。


 静かに朱雀がイントロを歌い出した。普段とは打って変わって滑らかで柔らかい声だ。数フレーズの後、彩葉はフルートを構え、ゆったりと吹き始める。10分程度の曲である。身体で拍子を取りながら、彩葉は曲を進めた。もう朱雀を振り返らなかった。流れるようなフルートソロのフレーズの間は朱雀は下を向いている。また伴奏が始まり、彩葉はゆったりと身体を揺らしながら吹く。


 伴奏のソロにかかった。朱雀も抑え気味の声量で、流れを乱さない。彩葉はふと、背後から小さな色紙が飛んでくるような気がした。

 最前列の翠は、目を凝らしステージの二人を見つめる。気持ち良さそうだ。だが、彩葉がソロの間、朱雀が下を向いているのが気になる。何かをこらえているようにも見える。


 フルートが小刻みなメロディを奏でた後、曲はゆったりした後半に入ってゆく。朱雀の声も落ち着いたトーンのハミングになる。そして終盤、一転して明るくフルートが音を刻み、伴奏のハミングもそれに合わせる。曲は流れ、ラストの最後のビブラートの後、朱雀は高らかにアウトロを謳い上げた。彩葉は天井を見上げた。


 良かった…上出来だ。貝原先生、有難う。緊張が緩む。朱雀が一歩前に出て、二人揃って頭を下げる。クラスの子が花束を持って近づく。


 その時だった。


 突然朱雀が激しく咳き込んだ。あ、貝原さん、大丈夫?彩葉が手を朱雀の背中に回そうとしたその瞬間、口を押えた朱雀の指の間から、無数のくれないほとばしった。


会場から悲鳴が上がる。翠が飛び出し、ステージに駆け上がる。他の先生たちも慌ててしゃがみこんだ朱雀の周りに駆け寄る。『救急車!』誰かが大声で叫んだ。彩葉は凍ったように何もできない。瞬きも出来ず頭の中は真っ白、身体全体が震える。左手に持ったフルートがだらりと下がる。翠が…、翠が言ったのは…、え? 改めて彩葉は凝視した。


 か、貝原さ…ん。嫌だ! こんなの見えるのやだ!!


彩葉の目には、ステージに飛び散った紅が鮮やかに見えていた。


+++


 何がどうなったのか記憶が飛んでいる。誰かが私の肩をそっと抱いて、そして立ち上がらせてくれた。紅の飛び散ったステージから目を離せない私を引っ張って、舞台袖からゆっくりと保健室へ。そして私はベッドに寝かされた。


+++


「糸巻さん、糸巻さん大丈夫?」


 眠っていたわけではない。気が宙を彷徨い、目は焦点が合わないだけだ。この声は、そうだ小島先生。コジババとか貝原さんと笑い合ったっけ。いや、それどころじゃない。彩葉はさっきを思い出した。ダークグレーの光景の中、そこだけが、翠が言ってたような鮮やか紅だったのを。彩葉は瞬きをして焦点を合わせ、上半身をゆっくりと起こした。


「ショックだったわね。貝原先生、病院に運ばれて、大丈夫みたいだから。心配しないで」


 コジババに似合わない優しい声だ。貝原さんなら何て言うだろう。『怖いねー』とか言いそうだ。それでまた一緒に笑うだろう。貝原さん、大丈夫かな。私のせい…かも知れない。翠がやめてって言ったのに、私は拒否して続けてしまった…、それでこんなことに。涙が溢れてきた。小島先生が優しく背中を擦る。


「大丈夫だから。糸巻さん、大丈夫だからね」

「は…い」


 ようやく声を出した彩葉は、涙に濡れる目を小島先生の背後に向けた。そこには、翠が静かに控えていた。翠が近づく。伏目がちに、しかし非難の籠った眼差しが彩葉を射る。


「貝原さん、しばらく入院だって」


 彩葉は頷くことしかできなかった。初めて紅を知ったことを、赤が見えるようになったことを、彩葉はとても言い出せなかった。ベッドサイドのテーブルに置かれたモノトーンの花束の中から、チューリップの赤だけが毒々しく彩葉を睨んでいた。

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