第2話 スケルツォ(前編)

 ピアノ、良くなってる……。


 きっと最近調律したんだと思う。いま私が奏でているのは、得意なショパンのバラード1番。先生の前では全然動かなかった指も、スラスラと面白いように動く。

 到着した電車から降りてきた乗客たちがチラチラと私の方を見ては通りすぎる。


 ねえ、みんな、足を止めて。そして私の音楽を聴いて!


 両手のオクターブで半音階を下降させ、最後に終止音をキメる。しばらくの静寂の後にパラッパラッと拍手の音。

「結奈のショパン最高!」

「ホント天才! 百瀬結奈は我らが誇りよ!」

 私の大切なファンであり親友である舞子と留美。観客は、この二人のクラスメイトだけだ。

「ありがとう!」


 私は彼女たちを時々招いて、川渡中央駅でミニリサイタルを開いている。このいかんともしがたい閉塞感の中であっても、彼女たちの手放しの賞賛があれば、明日を生きるエネルギーがわいてくる。

 舞子と留美の賞賛に舞い上がっていると、ふと誰かがこちらを遠目に見ているのに気がついた。その視線の発信元はひとりの青年だった。身長は高く、グレージュのコットンニットを着て、首には紺のストールを緩めに巻いている。その肩の上には整った端麗なお顔が載っていた。

(やばい、好みだわ……)

 呆然とする私を舞子と留美が小突いた。

「ねえ、次弾いて!」

 私は慌ててピアノの前に座り、スケルツォ2番を弾き始めた。ストール君は券売機の横に立ち尽くしてじっと私の方を見ている。やだ、緊張するじゃん。普段ならしないようなつまらないミスのオンパレード。そうかと思えば指が勝手に滑ってテンポが上がったりする。完全にコントロールを失った。

 ぐちゃぐちゃ。

 だけど、舞子と留美はいつものように惜しみなく拍手を送る。そして……はしゃいでる私たちに、ストール君が近づいてきた。

 私はかーっと顔が赤くなった。

 ところがストール君の口から出た言葉は、赤らんだ顔を青ざめさせるのに充分だった。

「ひでえ演奏だな。聴いていて不愉快だ」

 私たちは一瞬呆気に取られたが、舞子が噛み付いた。

「いきなり何よ、失礼だわ!」

 留美も加勢する。

「そうよ、結奈は音大目指してるんだから!」

「音大目指してるのか? だったら、どれだけダメか自分でわかってない時点で結果見えてんじゃないの?」

 そう言い捨ててストール君はそそくさと立ち去っていった。



「あのヤロォ……ちょっとイケメンだからって調子こきやがって!」

「いい男かと思ったけど、もう最悪! 今度あんなこと言ったらぶっ飛ばす!」

 舞子や留美が散々毒づき、私にはそれが小気味良かったけど、みんなと別れて一人帰路につくと、虚しさと悔しさがどっと押し寄せてきた。ちょっと気を緩めたら涙が出そう。


 🏠


 私の家では両親がピアノ教室を開いている。主に教えているのはピアノ科出身の父・百瀬篤だ。母の本業はどちらかと言えばスーパーのパートで、今も家には父と生徒さんを除けば、私一人。お腹が空いたので、とりあえずスパゲッティーを茹でることにした。ホールトマトとベーコンで適当なソースを作っていると、レッスンの一段落した父が顔を覗かせた。

「なんや、しけたパスタやな。もっとちゃんとしたモン作ってえな」

「別にお父さんのために作ってるんじゃないから。違うものが食べたかったら、自分で作れば?」

「結奈、えらい機嫌悪いのう。なんかあったんか」

「なんかあったなんてもんじゃないわ!」

 私は駅での出来事を話した。話しているうちにあのストール君のことを思い出してムカムカしてきた。

「ははは、そやけど結奈、ええ勉強させてもろたやん」

「勉強? そんなの学校と塾で充分だわ!」

「あんなぁ結奈、ピアノの先生がナンボ厳しいゆうたかて、次のレッスンではちゃんと聴いてもらえるやろ。そやけどプロのアーティストは一回のダメ出しが命取りや。アマのうちに色々言われといた方が得やで」

 父はそんな講釈を垂れながら、いつのまにか私の作ったパスタを食べていた。

 私はこんな父のデリカシーのなさと、すぐに損得勘定で考えるところが生理的に受け付けない。ついでに言えば、父の弾くピアノも浪花節みたいで好きじゃない。



 || ||| || |||


 それから数日後、留美の携帯から電話がかかってきた。ところが、電話に出たのは男の声だった。

「もしもし、君、この間駅でひどいピアノ弾いてた子?」

 ……あのストール野郎だ。「そうだけど〝ひどい〟は余計ですっ! っていうか、どうしてあなたが留美の携帯からかけてるの?」

「詳しい話は後だ。その留美とかいう子が大変なことになってる。今すぐ駅に来れるか?」

 わけがわからなかったが、留美が大変と聞いて、私は駅に急いだ。


🚉


 駅に着いて驚いた。酔っぱらった女子高生が座り込んで何やらクダを巻いて叫んでいた。よく見るとそれは留美だった。

「もう死にたい、死にたい!」

 そんな留美のそばには例のストール君が立っていた。この前と色は違うが、やはり首にはストールを巻いている。舞子も駆けつけてそこに立っていた。

「ちょっと、いったいどうなってるの?」

「私もよくわからない。この人から電話がかかってきて、来てみたらこうなってて……」

 〝この人〟というのはストール君のことだ。

「俺も見覚えのある女がこんな状態で驚いたさ。……まあなんかあったんだろうけど、慰め合いなら君らの方が得意だろうから……あ、よかったらその水飲ませてやってくれ」

 ストール君は憎まれ口と数本のミネラルウォーターを残して去って行った。

「ねえ留美、しっかりして!」

「△⌘♂⇔♀∞っ‼︎‼︎」

 もはや彼女の言動は解読不能だ。私たちは何とか彼女に無理矢理水を飲ませた。しばらくして落ち着いた彼女の話では、同じクラスでサッカー部の男子が好きだったが、そのことを打ち明けた友人に横取りされたらしい。やり切れなくなった留美は、つい出来心でカップ酒を購入し、気がつけば泥酔して私たちに囲まれていたという。


 どうにか留美が歩けそうな状態になると、私たちは後片付けをして帰ろうとした。とその時、ペットボトルの入ったコンビニ袋に、数枚の五線紙が入っているのに気がついた。

(手書きの楽譜……ピアノ譜だわ)

 私は無意識のうちに、駅ピアノの譜面台にそれを置き、その曲を弾いてみた。それを聴いた舞子と留美は目を輝かせた。

「うわー、きれいな曲! 何ていう曲?」

「知らない。でも……」

 どこかで聴いたことがあるような……そんなデジャヴにも似た感覚に、私はとらわれた。


第2話 後編につづく

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