果てぬ者


 丸メガネの天使。久保玲のポニーテールは風に揺れない。

 天使の後を追う初老の男。丸メガネの天使に続いて校舎を出た新実三郎は、曇り空の向こうに覗く青々とした光の線に初夏の訪れを感じた。

 クルリと振り返る丸メガネの天使。腕を後ろに組んだ三郎は、はい、はい、と優しげに顎を動かすと、また天使の後を追って歩き始める。楽しげな女生徒たちの笑い声が梅雨空に響くと、花壇を覗いた三郎は驚いて目を見開いた。

「これはこれは……」

 緩やかな風に靡く黄金色の花々。笑い合う女生徒たちの眩い煌めき。スコップを片手に花壇で汗を流す見覚えのない女生徒の後ろで、ポニーテールの女生徒とお団子ヘアの女生徒が黒い苗ポットのマリーゴールドに水を与えていた。

「いやはや……なんとまぁ美しい花たちだ、素晴らしい。しかし、いったいどういう訳なんだい?」

 丸メガネの天使の存在を忘れた新実三郎は、いそいそと花壇に植え穴を掘る浅葱色の瞳の女生徒に微笑みかけた。

 艶のあるグレーのセミロング。見覚えのない顔立ち。浅葱色の瞳の女生徒は頬に付いた土を腕で拭うと、背の高い初老の男に向かって夏空に浮かぶ白い雲のような笑顔を見せた。

「農林高校の園芸科が譲ってくれたんだ」

「ほぉ、それはありがたい、本当に素晴らしい事だ。しっかりと礼を言っておかなければいけないね」

「お願いね」

「君も素晴らしいよ、ありがとう」

「えへへ」

「それはそれとしてだが、君、ここの生徒ではないね。何処の学校の生徒さんかな?」

「Y高校の者でござる」

「ふむ、Y高校の生徒さんか。名前はなんだい?」

「雨宮伊織だよ」

「雨宮伊織クンか、良い名前だね」

「えっへっへ」

「つかぬことお聞きするが、雨宮クン……君、まさかタバコは吸っていないよね?」

 首を傾げる初老の男。優しげな微笑。

 キョトンと目を丸めて首を捻った伊織は、あっと照れたような眩い笑みを浮かべると、真横の空気を押すような仕草をした。

「えっええー、匂いますか? えへへ、実は母がヘビースモーカーでして……」

 あはは、と笑う女生徒。何かを察したかのように微かに目を細めた三郎は乾いた唇を軽く噛んだ。

「そうか……そうだね、うん、はっは。いやいや、雨宮クン、そのだね、何か不安なことや、日常生活で嫌だなと思う事があったら、いつでも僕が相談に乗るよ?」

 何処か寂しげな三郎の微笑み。横目で何かを睨むような仕草をした伊織は、すぐにまた眩い笑顔を顔に浮かべると、手に持ったスコップをフリフリと振って見せた。

「ええー、大丈夫ですよー」

「そ、そうかね、ふむ。それにしても、農林高校というのは確かY高校の姉妹校だったね。譲ってくださった花をわざわざ届けてくれるとは……。そういえば、どうやってここまで花を運んだんだい?」

「運んで貰ったの、ヘビースモーカーの母に」

「そうか、それはそれは、何ともありがたい……。もしや、この花々は、F高校からの贈り物というわけではなく、君個人からの贈り物というわけなのかい?」

「そんな感じだね」

「ほぉ……何とまぁ、そうだったのか。いやはや、それは、本当に素晴らしい事だ。もしや、この学校の誰かに花の苗を送るよう頼まれたりしていたのかい? 例えば、あの子達とか」

「ううん、別に頼まれたわけじゃないよ。あの子達は暇そうだったからさっき声を掛けたの」

 三郎と伊織はマリーゴールドの苗に水を与えながら高い声を上げる二人の女生徒に視線を送った。元書道部の二人。先程まで空き教室で山本恵美の背中を撫でていた女生徒たちは、勝郎たちが廊下の向こうに走り去った後、グラウンドに出ておしゃべりに精を出していたのだった。

「では、いったい……?」

「えへへ、あ、でも、この学校の生徒とは友達だよ」

「ほぉ、ではその子が?」

「そんな所かな」

「いやはや、何と素晴らしい。生徒たちが自発的に学校の美化活動に取り組むなんて、それも他校の生徒さんが……いやはや、信じられないよ、本当に素晴らしいことだ。ありがとう、雨宮クン、本当にありがとう。もし宜しければ、君のお友達のお名前も教えて貰えるかな?」

「田中愛だよ」

「田中愛クンか……。その子にも感謝しなければね」

 田中愛という生徒の顔を必死に思い出そうとする初老の男。ニッコリと微笑んだ伊織は、また花壇に穴を掘り始めた。

「友達の為に汗を流して、僕は本当に感動しているよ」

 三郎は落ちていたスコップを一つ手に取った。一緒に植え穴を掘り始める初老の男。優しげに目を細めた伊織は微かに首を横に振った。

「当たり前の事をしているだけだよ」

「はっはっは、そうか、当たり前の事か、そうかそうか……。ふむ、いやはや、雨宮クン、君はまるで天使のようなお人だね」

「えっへっへ、だってあたし、元天使だもん」

「そうかそうか、はっはっは」

 三郎の楽しげな笑い声が空を舞うと、静かな校舎を震わす不穏な音が正門からマリーゴールドの花弁を靡かせた。

 顔を上げる初老の男。救急車が一台、ゆっくりと正門を潜り抜ける。

 もしや、喧嘩をしたあの子たちの怪我が……。

 心配になって立ち上がった三郎は、熱心に穴を掘る伊織に一声掛けると正門に向かって校庭を駆けた。

「何かあったのかね?」

 三郎の存在に気が付いた隊員の一人が救急車を降りる。白いヘルメットを被った救急隊員の男は三郎に質問を返した。

「救急要請があって参ったのですが、お電話では状況が掴めず……。その、怪我人は何方に?」

「先ほど喧嘩をした男子生徒たちが保健室に居ると思うのだが、状況が掴めなかったとはどういうことかね」

「それが、どうにも声が遠かったと言いますか。非常に焦ったような口調でとにかくF高校の体育館がどうの、と」

「体育館?」

「はい」

 もしや、喧嘩とは別件で生徒の身に何かあったのだろうか、と体育館を遠目に見つめた三郎の腕が誰かに引っ張られる。視線を下げた三郎は浅葱色の瞳の光を見た。

「先生、山梨さんが何かに噛まれたって。蛇かもしれない」

「何だって?」

 慌てて花壇を振り返った三郎の瞳に映るポニーテールの女生徒。苦しそうに顔を歪めた山梨恵梨香の隣でお団子ヘアの深山沙智が心配そうな表情をしている。

「君、それがどんな蛇だったか分かる?」

 救急隊の男が伊織に問い掛ける。まるで救急要請があったことなど忘れてしまっているかのように、男の視線は花壇の一点に向けられて固定されていた。

「いやいや、先ず体育館に向かってくださらないと」

「ああ、そうでした、申し訳ない。それにしても酷い有り様だ。ここはあの大火災が起こった高校だったのですね」

「何を言ってるんだね、君」

 何処か呑気そうに焼けた校舎を見上げる救急隊の男。そんな事も知らずにここを訪れたのか、と腹立だしげに眉を顰めた三郎は、伊織に腕を引かれるままに花壇に向かって走り出した。



 ふっと軽くなる空気。音の無い校舎を蠢く影が動きを止める。

 そっと顔を上げた山本恵美は目の前に揺れる長い黒髪を見た。

「お姉ちゃん?」

 驚いて立ち上がろうとする中年女性。バランスを崩した恵美は転がるようにして前に倒れ込んだ。力の入らない手足。何にもぶつからない身体。顔を上げた恵美は、確かに見た筈の女生徒を探して廊下の奥を見つめた。

「お姉ちゃん!」

 女生徒の黒髪が揺れると煤けた生徒たちが後ろに下がる。怯えるように。忌むように。蠢く者たちの瞳が黒い影に濁った。

 宮野鈴を見つめる生徒たちの成れ果て。もう一度、姉に向かって叫び声を上げようとした恵美は、その亡霊たちの表情にはっと息を止めた。記憶に掛かった黒いモヤが初夏の風に吹き飛ばされると、ほんの僅かに蓋を開けたパンドラの内の歪な表面が姿を現す。

 そ、そうだ、こんな顔だった……。

 姉をイジメていた悪魔たちの表情。その瞳に映る濁った影。

 歪だった。自分をイジメる際に見せたような楽しげな表情とは違う歪んだ笑顔。否、それが笑顔では無かったという事を恵美はやっと悟った。困惑したように横に開かれたその唇は、罪に怯える者が如く青白い光を帯びている。

 何故、どうして、イジメる側がそんな表情をするの……。

 理解の届かない底の記憶にうっすらと黒いモヤが漂う。だが、パンドラの箱が閉じられる事は無かった。

 長い黒髪の女生徒が歩くと後ろに下がる生徒たち。宮野鈴が白い首を傾げると、蠢く者たちは逃げるように音も無く姿を消していった。認知の距離が離れていった訳ではない。理性のない生徒たちの成れ果ては、残されたその本能で最悪の厄災から逃れようと物理的な距離をとったのだ。

「お姉ちゃん……?」

 恵美は太い首を微かに横に倒した。哀れな存在を怯えさせる存在。背を向ける長い黒髪の女生徒は本当にあの聖母のようだった姉なのか。

 長い黒髪の天使。宮野鈴はゆっくりと後ろを振り返った。

 漆黒の瞳。新雪の肌。純血の赤い唇。

 何処か寂しそうに首を傾げる長い黒髪の女生徒。廊下に座り込んだまま、恵美はゴクリと唾を飲み込んだ。

 スッと天使の白い指が廊下の先に向けられる。虚な瞳。寂しげな表情。

「な、なに……?」

 姉の指の先を追って恵美は後ろを振り返った。だが、廊下の先には何もない。空虚な静寂が広がっているばかりである。

「お姉ちゃん、どうしたの? わたしの事、分かる?」

 ゆっくりと、ほんの少しずつ、足の指の先から細かな振動が血管を伝って恵美の胸の内を震わせていった。温かな震え。呼吸を止める鼓動。

「お姉ちゃん、お、お姉ちゃんだよね? あ、あ、あ、あたしだよ、恵美だよ?」

 うっと声を詰まらせた恵美の頬を温かな何かが伝う。あっと袖で頬を拭いた恵美は右腕に抱えられたノートの存在を思い出した。クレパスの花々。自分という存在の証明。

「お、お、お姉ちゃん、これ、見て?」

 涙を拭った恵美は、プルプルと震え続ける指の先でノートを一枚一枚捲っていった。赤と紫の野花。青とオレンジの空。

 長い黒髪の天使。宮野鈴は赤い唇を横に開いた。漆黒の瞳に光る色。微かに首を横に振る天使。

「お、お姉ちゃん、どうしたの? 何か言いたいことがあるの?」

 胸の内から溢れ出る温かな水。心地良い感情の流れ。だが、恵美は理性的であり続けた。再び感情の海に溺れ落ちるような事はなかった。

 目の前で寂しげな表情を見せる姉。記憶に見た聖母とは違う美しくも幼い容姿。何処にでもいるかのような長い黒髪の美しい女生徒。

 宮野鈴は子供の頃のままであった。自分はもう大人なのだという事実が、恵美を理性的にさせていたのだ。

 宮野鈴は手を下ろさない。白い指の向けられた先。人けの無い旧校舎の廊下。

「旧校舎に何かあるの?」

 宮野鈴の細い首は動かない。寂しげな表情の天使。その視線は恵美に向けられている。

 姉の亡霊を見つめたまま、恵美は困惑したように太い首を捻った。

 旧校舎に何かあっただろうか? 思い出。何か大事な物。それとも誰かいるのだろうか? でも、生徒も教員も誰も……。

「中野くん!」

 あっ、と恵美は飛び上がった。心的苦痛を負ったばかりの弱り切った男子生徒を放ってここまで逃げてきたという事実を思い出した恵美の全身に力が溢れる。

「た、大変!」

 姉の存在に背を向けた恵美は慌てて廊下を走り出した。

 何と愚かな教師なのか、と後悔の念が彼女の足を前に進ませる。自分は守られる側ではなく、守る側に立っているのだ、と恵美が姉を振り返ることはなかった。

 ゆらり、ゆらりと現れては消える白い影。白髪の天使の存在に恵美は気が付かない。男子生徒の名を叫んだ恵美は旧校舎に向かって必死に手足を振った。

 

 白い影の視線の先。黒い影の微笑み。

 白髪の天使。新実和子は長い黒髪の天使を睨み下ろした。

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