向ける者


 寂れた花壇に色はなく、焼けた校舎に影はない。そこにある存在の視線は人の認知より遥か遠くの距離にある。

 この世とあの世の狭間。見下ろし見上げる位置。悪行を背負った者の行き着く先。人に報いを与える存在。



 ヨレたワイシャツ。ウルフカットのカツラ。臼田勝郎は太い腕を組んだ。

 空き教室を流れる静寂。使われていない教員机を挟んで座る二人の男。勝郎の眉は先ほどからヒクヒクと痙攣を続けている。

 突然、アポ無しで学校を訪れた私服の男たち。山本恵美の父親の知り合いなのだと柔和な笑みを浮かべた白髪の老人は、聞いてみれば、元刑事なのだという。そして、青いTシャツを着た肩の広い男は現役の警察官なのだそうだ。勝郎は、見知らぬ二人の男を愛想よく校舎に入れてしまった自分の軽率さに対して、激しく後悔をしていた。

「そんで臼田先生、山本先生は?」

 白い髪を後ろに撫で付けた老人が浮かべる柔和な表情。職業柄、長い年月を掛けて作り上げられたような感情のない笑み。勝郎は舌打ちをしそうになるのをなんとか堪えると、窓の外の曇り空に目を細めた。

「もうすぐ来ますので、お待ちください」

「悪いねぇ、先生ぇ、こんな忙しい時間帯によぉ」

「まったくですよ、アポイント無しでこんな時間に。通してしまった私が馬鹿でした」

「本当に申し訳ありません。ただ、どうしても山本先生とお話しをさせて貰いたくて、こうして突然お邪魔させて貰いました」

 肩の広い男が頭を下げる。歳は三十前後くらいであろうか。彫りの深い顔に浮かぶ小さな唇が男に優しげな印象を与えていた。

「何故、学校でなのです? いいですか、あなた方もご存知の通り、この学校の生徒たちは、大変な、本当に大変な目に遭ってしまっている。生徒たちも、山本先生を含めた私共教員も、未だ苦しみの中を彷徨いながら、ゆっくりと、前に進んでいる最中なんです。外からの視線に敏感なんですよ、我々は」

「先生ぇさんよ、そぃじゃあなんで、オイラたちを簡単に通しちまったんで?」

「あなたが山本先生のお父さんとお知り合いだと言うからだ!」

「ああ、確かにおらぁ山本先生ぇ、いや宮野恵美ちゃんの子供の頃を知っているよ」

「宮野?」

「恵美ちゃんの旧姓さ。父親の宮野正人とは、おらぁ幼馴染でね、親友だったのさ」

「そうだったんですか……。いや、でしたら尚更山本先生と直接話せば宜しいでしょうに。何故、わざわざ学校に赴いたのです?」

「先生ぇ、アンタ、恵美ちゃんの昔をご存知かい?」

「いや、知りませんな」

「へぇ、興味はねぇんですかい?」

「ありませんね、知りませんよ、過去になど何の興味もない! 私はね、他人の過去を詮索するような真似が大嫌いなんだ! いいですか、我々はあなた方と違って、常に未来を見て生きているんだ!」

 この学校の屋上から飛び降り自殺したという女生徒が、山本恵美の実姉であったという話を耳にしていた勝郎は、首筋に野太い血管を浮かべながら声を荒げた。恵美の境遇に対して彼は、果てしない同情の念を抱いているのだ。その為、気軽に過去を詮索するような真似を勝郎は許せなかった。

 白髪の老人。大場浩二は何処か寂しげな表情を浮かべると、窓の外に視線を送った。

「はは、なるほど、先生ぇの言う通り、確かにオイラたちは過去ばっかりを見つめながら生きてんのかもしんねぇ」

「分かっているのならば尚更だ。いいですか、山本先生もね、当然前を向いて生きていらっしゃる。いったい何の話をするのかは知りませんがね、過去をほじくり返すような無意味で愚かな真似だけはやめて貰いたい」

「……先生ぇ、なぁ、ほらよぉ、マスコミの奴らとか、今だとさぁ、ネットの……何だっけアイツら? 何かよく分かんねぇが、自分で動画取る奴らとかよぉ、色んな野次馬が学校に集まってきちまうんだろう? なんでぇ先生ぇは、恵美ちゃんの知り合いってだけで、オイラたちを愛想よく通しちまったんで?」

「何ですって?」

「生徒の誰かの知り合いだとか、そんな奴らいちいち通してたらキリねぇでしょうに。それとも何だ、やっぱ恵美ちゃんの知り合いってのは、相当珍しいのかねぇ?」

「どう意味だ」

「そういう意味さ。恵美ちゃんは、あの娘は昔から……」

「その辺に!」

 肩の広い男。山下克也は机を挟んで睨み合う二人の男の間に割り込んだ。

「臼田先生、本当に申し訳ありません。この人昔から偏屈で……」

「知らん! お前ら今すぐこの学校から出て行け! 二度とここに、山本先生に近づくな!」

 勝郎は顔面を真っ赤に上気させて立ち上がった。180近くある克也が見上げるほどの巨体。ゴクリと唾を飲んだ克也は愛想笑いを浮かべると、細めた目を勝郎に向ける老人の肩を叩いた。

「大場さん、帰りましょう。別に話は学校でなくても良いではないですか」

「いんや、今、この場じゃねーとダメだ」

 座ったまま腕を組む白髪の老人。山本恵美を疑う浩二は、その存在に警戒心を持たれた状態で接触するのは避けたかった。父親の知り合いというていで、厄災の慰労に参った老人という設定。それが一番都合が良いだろうと浩二は考えていたのだ。

 既に退職した老人の全く衰えを見せぬ意地。テコでも動かぬというような老人の態度に、克也は思わず笑ってしまった。この肩の広い男は別に何も疑ってはいないのである。哀れな被害者であろう山本恵美に抱いている感情も同情のみであった。

 克也の上司だった老人。大場浩二は人に頼み事をするような男ではなかった。克也はこの頑固な老人が初めて自分に見せた想いに付き添ってあげているだけなのだ。最初で最後となるであろう恩返し。因みに今日は年休である。

 無言で睨み合う大柄の教員と白髪の老人。苦笑いする男。慌てたような誰かの足音を聞いた三人は廊下に振り返った。

「せ、先生! 翔吾くんと健也くんがさ、喧嘩してて!」

 きゃあきゃあと騒ぎ立てる女生徒が二人。勝郎はヌッと立ち上がる。

「喧嘩だと?」

「めっちゃキレてて! 翔吾くん血だらけで!」

「血だらけだって!?」

 目を見開いた勝郎は慌てて空き教室を出た。興奮した様子の女生徒に案内を頼む教員。勝郎と入れ違うようにして山本恵美が姿を現すと、タイミングが良いなぁ、と克也は運の巡り合わせに感心した。

 空き教室の椅子に座る二人の男に警戒の視線を送る中年女性。山本恵美の瞳は絶望と憂いに陰鬱な光を放っている。無理もない、と克也は恵美に同情した。それほど彼女の人生は悲惨に満ちているのだ。

 克也は悩んだ。自分がこの場にいるべきかどうかを。頑固な老人と山本恵美を二人きりにさせておいて良いものかどうかを。

 廊下から空き教室を見つめる誰か。長い黒髪の美しい女生徒。

 決心したように頷いた克也は立ち上がった。

「大場さん、ただの子供の喧嘩ですが、どうやら流血騒ぎになっているようですので、臼田先生の後を追ってみます」

「お前さん、今日は非番だろ?」

「大丈夫です、僕は何もしませんから。ただ、あの熱血な先生が、どう子供に説教するのかを見てみたいんです」

「そうかぃ、迷子になんじゃねーぞ」

「はは、大場さんこそ、くれぐれも彼女の心の傷を抉るような真似だけはしないでくださいね?」

「わかってんよ」

 細めた目を老人に向けたまま扉付近で立ち竦む中年女性。恵美に頭を下げた克也はスッと廊下に出た。老人に歩み寄る中年女性の太い足。その後ろ姿を見つめた克也は、廊下の壁に背中を預けて空き教室を覗く長い黒髪の女生徒に微笑みかけた。

「山本先生のこと、見守ってて貰えるかい?」

 コクリと細い首を縦に振る女生徒。その赤い唇の美しさに思わず見惚れてしまった克也は、照れ臭くなって頭を掻くと、そそくさと空き教室を後にした。

 階段を駆け上がる男。上の階から響いてくる怒鳴り声。だが、それ以外の音はない。

 今は授業中ではないのか?

 首を捻った克也は2階の教室を覗いてみた。生徒の姿のない教室。窓は全て白いカーテンに覆われている。

 3階に上がった克也は二人の男子生徒を叱りつける勝郎の姿を見た。鼻下を血に染めた大柄の男子生徒と、髪をパープルピンクに染めた男子生徒。固唾を呑む女生徒たち。

 男子生徒の怪我は大したことないようであり、二人とも勝郎の叱責に反省している様子であった。

 流石だな、と頷く克也。3階は大丈夫だろうと4階に上がった克也は、そこにも生徒の姿がないことを確認する。不審に思った克也は一階の職員室に向かった。

「あの、すいません」

 何やら慌てた様子で職員室から出てきた女性教員に、克也は声を掛けた。不審げに、否、怯えたように肩を丸めて振り返る女性教員。克也は自分がアポ無しで学校を訪れている事を思い出して苦笑した。

「いや、突然すいません。僕はその、山本先生の知り合いの知り合いというか……。まぁ、その、決して怪しいものではありません」

「はい……」

 涼しげな細い目を震わせる女性教員。その弱々しい動作に庇護欲を駆り立てられた克也は、背筋を伸ばすと前髪を整えた。

「山下克也です。今日は非番ですが、日頃は市民の皆様の笑顔を守るために、警察官として働いております。先生、貴方のお名前をお聞きしても?」

「の、野村理恵……です」

「野村理恵先生ですか、いやぁ良い名前だ!」

「はぁ……。あの、私、急いでまして……」

「ああ、すいません、忙しい時間帯ですもんね。 ……その、理恵先生、子供たちの姿が教室にないようなのですが、今は授業中ではないのですか?」

「生徒たちは、体育館に……」

 スッと頭を下げて歩き始める女性教員。その陰鬱な瞳に山本恵美とはまた違った不穏な色を見た克也は、サッと和かな笑みを浮かべると、野村理恵の後を追って歩き始めた。

「へぇ、体育館に? 全校集会のような事を?」

「いたみの会の最中でして……」

「悼みの会?」

「はい……。神聖な会なのです……」

「神聖な会ですか? 何やら面白そうですね、僕も参加させてください、先生」

「その……部外者の参加はお断りさせて貰っていますので……」

「まあまあ、そうお堅い事をおっしゃらず、僕にも悼ませてくださいよ」

「……」

 前の一点を見つめたまま喋ることを止める女性教員。その陰鬱な瞳に宿る虚な光。それは警察官である克也が幾度となく見てきた瞳の色だった。

 死を望む者の目だ……。

 厄災の規模を考えれば当然であろうか。女性教員の瞳に生気は無かった。

 よくぞ、よくぞ今まで生を繋いできた……。

 克也はゴクリと息を呑み込んだ。同時に、初めてこの学校の異質さに気が付いた男は身震いをした。

 この学校は、F高校は、放って置かれていたのだ。そこにはもう何も無いかのように、人々の目から、世界の声から、見捨てられていたのだ。まるで溝の奥の塵が如く、アスファルトの底の大地のように、曇り空の下の焼け焦げ崩れ落ちた校舎は人々の認知の外にあった。

 それは克也にとっても同様の現象だった。克也は、名前も知らない何処にでもあるような普通の学校を訪れるような感覚で、このF高校を訪れていたのだ。

 「悼みの会」とは、いったい……。

 斜め前を歩く女性教員の感情の見えない唇。世間との繋がりを断たれた女性の空虚な瞳の先。「いたみの会」は暗がりの底に向かっていた。

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