哀れむ者


 長い黒髪を濡らす雨。駅前のベンチに腰掛ける女。

 宮野鈴は微笑んでいた。何処か影のある微笑。立ち止まった中年の男が雨に濡れた黒髪の女を見下ろす。

「大丈夫かい?」

 首を横に振る女。

「何かあったのか? 君、このままじゃ風邪を引いてしまうよ?」

 そっと首を傾げる女。紅い唇。言葉の無い存在。細い髪を伝う雨粒が首元の白い肌を反射させると、男は、その身体に張り付いた衣服の艶かしさに唾を飲んだ。

「が、学生かい? 家の人は?」

 宮野鈴は細い首を横に振り続ける。微かな動作だった。雨に濡れた女のそんな弱々しい動きには散り際の桜の儚さがあった。

「と、とにかく、このままでは風邪を引いてしまう。と、取り敢えず、取り敢えず、私の家に来なさい。へ、変な意味ではないよ、私には妻子がある……い、いや、そんな事はどうでもいいじゃないか。とにかく、まだ春なんだ、こんな寒空で風邪でも引こうものならば、一大事だ」

 上着を脱いだ男は宮野鈴のほっそりとした体を隠すようにそれを被せた。いそいそと立ち上がる長い黒髪の女。その果実の汁に溢れたような甘ったるい匂いに動揺した男は、コホンと咳払いをすると明後日の方向を向いた。春時雨の細い霧。白い雲に覆われた空。

 何処か懐かしい宮野鈴の微笑み。細かく整った容姿に長い黒髪。男は違和感を抱かなかった。

 妻子の出掛けている休日の家で宮野鈴と肌を合わせる男。懐かしい感触。淡い記憶の彼方。それでも男は気が付かなかった。

 例え卒業アルバムを開いたとしても気が付かなかったであろう。天使と人の狭間に漂う女。宮野鈴の存在を完全に認知するには距離が離れ過ぎている。

 ベットで寝息を立てる男の隣で、長い黒髪の女は静かに目を開いた。男の家を歩く存在。アルバムの並ぶ棚。段ボール箱の積まれた押し入れ。

 記憶のない宮野鈴は、確かに存在した筈の過去を探していた。


「やぁ、山本先生、いい天気だね」

 曇り空にほんのりと浮かぶ青い筋。気まぐれな春の雨に濡れた花壇。湿ったコンクリートの段差に腰掛けて絵を描いていた山本恵美は、東門から姿を現した背の高い初老の男に恭しく頭を下げる。以前とは違う、否、昔に戻ったかのような小心な態度。新実三郎は寂しそうな笑みを浮かべた。

「おお、凄くいい絵だね! 明るくて優しい、皆んなを楽しませる絵だよ。流石は山本先生だ!」

 いつか聞いたようなセリフ。昔を思い出した恵美は頬を引き攣らせたような曖昧な笑みを浮かべた。三郎はニッコリと微笑み返す。太った体を小さく丸めた恵美の隣に「どっこらしょ」と腰を下ろした三郎は、色の無い花壇の黒々とした土をジッと見つめた。

 静寂。重苦しい沈黙。

 かつての生徒にかけるべき言葉は何か。同情か、励ましか。必死に声を探す初老の男。だが、思い浮かばない。湿った春風が運ぶ土の匂い。やがて雲が空の青い筋を消すと、パラパラと細い雨が学校に落ちた。

「おや、春時雨だね。ささ、山本先生、風邪を引く前に校舎に戻りましょう。僕なんかは、ほら、この通り老いぼれだからね、はっは、ちょっと雨を浴びただけで参ってしまうんだよ」

 三郎は折り畳み傘を開いた。ノートを彩るオレンジの花に雨粒が跳ねる。恵美はクレパスを握ったまま曇り空を見上げた。

「先生……」

 恵美の「先生」という言葉に、三郎は驚いて動きを止めた。かつての生徒の口調。頬の弛んだ中年の女性は疲れ切った瞳の奥に映る遠い過去の記憶を見ていた。

「先生、お姉ちゃんの事、覚えてますか?」

「……あ、ああ、もちろん、覚えているとも」

 掠れた声。三郎は唾を飲もうと乾いた喉を動かす。

「お姉ちゃん、どうでしたか?」

「い、いい子だったよ。ああ、本当にいい子だった。先生の自慢の生徒だよ。山本先生、貴方も貴方のお姉さんも、私の自慢の生徒たちだ。何時迄もね」

 慎重に、ゆっくりと言葉を紡いだ。三郎はなるべく昔の話を避けたかった。それが忌むべき記憶であるからという理由では決してない。今の彼女とは明るい未来の話がしたかったのだ。

 恵美は特に気にしていないかのように淡々と話を続ける。

「お姉ちゃんは人気者でした。いっつも皆んなに囲まれて、明るくて、綺麗で、いいなぁって思ってました」

「あ、ああ、そうだったね、流石は山本先生のお姉さんだった。で、でもだよ、山本先生、いや、当然今の貴方なら理解していらっしゃるとは思うんだがね、人には個性というものがあるんだ。明るく社交的な人も居れば、芸術肌で一人が好きな人もいる。それはね、その人の個性なんだよ。何も羨ましがる事なんてないのさ。皆んな違って皆んないいのだと、僕は思うよ?」

「……先生、どうしてお姉ちゃんはイジメられたのでしょうか?」

「そ……」

 三郎は紡ぐ言葉を失ってしまった。どんな声を掛けてやればいいのか。言葉の見つけられない三郎は、やはり教師失格だと、自分への激しい怒りに胸の奥を震わせた。

「私がイジメられた理由は分かります。でも、お姉ちゃんがイジメられた理由がどうしても分からなくって」

「そ、それは……」

 アレが理由だとは思えない。アレは自分と宮野鈴以外には知り得ない出来事なのである。

 三郎は胸の奥に鋭い痛みを感じた。激しい苦悩と後悔。やはり教師は辞めておくべきだったと、罪の報いを受けておくべきだったと、三郎は目を瞑って俯いた。

「済まない、宮野クン、本当に済まない」

「先生、お姉ちゃんをイジメてた人たち、どんな顔してましたか?」

「宮野クン、済まなかった……駄目だね、僕は、済まなかったとしか言えない。ほんと、教師失格だね。償えない事実だって事はわかってるんだ、だけど、済まなかったという言葉以外に出てこないんだ……。で、でもね、一つだけ分かって欲しい。か、彼らはね、確かに悪かった。だがね、まだ、こ、子供だったんだ。まだまだ善悪の判断能力に乏しい、子供だったんだ。だからね、全ての責任は大人にあるんだ。全ては、全ては僕の責任なんだよ」

 三郎は乾いた両手を握り締めて涙を流した。消えない過去に苦悩する心。泣いてどうするのだと、これ以上彼女を困らせてどうするのだと、大人が流す涙は卑怯なのだと、三郎は必死に涙を止めようと息を吐くも、止まらなかった。

 恵美は白い雲に目を細める。気まぐれな霧雨は風に消え、濡れたノートの青空には水滴が光った。

「……先生、お姉ちゃんをイジメてた人たち、どんな表情をしてたんですか?」

「宮野クン……済まなかった」

「違うんです、先生、本当にただ思い出せないだけなんです」

「……無理に思い出さなくたっていいんだよ。時には、時には忘れてしまう事だって大切なんだ」

「その……思い出そうとすると黒いモヤが浮かぶんです。お姉ちゃんをイジメて笑う彼女たちの顔と声に黒いモヤが掛かって……」

「黒いモヤ?」

「そうです。モヤモヤと黒い何かが浮かぶんです」

「宮野クン?」

「そう、そう、屋上と、屋上とおんなじ。思い出そうとしても、どうしても思い出せない……」

「宮野クン!」

 屋上という単語に思わず語気を強める三郎。哀憐と悲観の先に現れたのは強い怒りだった。子を想う親の怒り。生徒を想う教師の怒り。山本恵美の精神状態に強い不安を感じた三郎は怒りの声を上げた。

「宮野クン、しっかりしたまえ! 貴方は本当によく頑張った、でもどうしようもなく不幸だった。貴方の苦しみがどれ程のものか僕なんかには量り知ることが出来ない。本当に、本当に済まないと思っている。でもね、こんなこと言うのは酷かもしれないけど、僕がこんなことを言うのは間違っているのかもしれないけど、宮野クン、頑張りたまえ! 負けるんじゃないよ、宮野クン! 絶対にやり直せるんだから、前を向くんだ! 頑張れ、宮野クン!」

 顔を赤らめて声を荒げる三郎。コクリと、静かに俯くように頷いた恵美は、ゆっくりとクレパスを箱に仕舞った。

「……先生、少し過保護ではなくて? ワタクシ、それほど落ち込んではいませんわ」

 微かに元のキツい表情を取り戻す恵美。三郎はほっと息を吐いた。

「いや、いやいやいや、済まない、済まなかった、本当に。宮野クン、いや、山本先生の事はね、僕は信じているんだよ。……どうだろう、山本先生、貴方がもしもお酒を嗜むのであれば、今度一杯飲まないかね?」

「考えておきますわ」

「はっは、そうかそうか……。いやはや、はっはっは、では臼田先生も次いでに誘おうか」

「なら、遠慮しておきます」

 丸い背中を三郎に向けて歩き出す恵美。三郎は胸の奥に刺さったままの痛みをグッと堪えながら、校舎に向かって歩く山本恵美の後ろ姿を見送った。

 気まぐれに見える春時雨。曇り空は少し雨を降らせて、止めて、また落とした。

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