朧げの天使


「何なんですの、いったい」

 山本恵美は何処か気怠そうな低い声を出した。四階の階段前に集まる教員たち。皆一様に視線を上に向けている。

 階段を上り終えた恵美は少し乱れた呼吸を戻そうと丸い肩を開いて息を吸った。膨らむピンクのカーディガン。波打つ弛んだ頬。深呼吸を繰り返した恵美は後ろ髪を縛った不安げな表情の女性教員に顎をしゃくる。

「で、何の騒ぎですの?」

「その、三年の生徒たちが屋上に出ていってしまったようで」

「お、屋上……?」

 詰まる息。恵美は腹の底の血が冷えて固まっていくような圧迫感を覚えた。

「はい、鍵は壊されているようでして……。野崎先生と山下先生が先ほどから生徒たちを連れ戻そうと説得していらっしゃるのですが、どうにも、彼らは……」

 不快げに眉を顰める女性教員。ゴクリと唾を飲んだ恵美は感覚が失われた指の先に爪を立てた。

 普段は訪れる事がない四階の、決して意識の向けられる事がない階段。消えかかった遠い記憶の底の朧げな屋上。

 恐る恐る、ゆっくりと、恵美は黒い瞳を屋上へと続く階段に向けた。

 深緑色の一段目……。

 黒く揺れる二段目……。

 わっと声を上げた恵美は尻餅をついた。この世のものではない何かの影を三段目に見たのである。

 驚いて恵美を振り返る教員たち。女性教員は慌てて恵美の手を取った。

「大丈夫ですか?」

「だ、だ、だ……」

 大丈夫よ、という言葉が喉の奥に引っかかって出てこない。廊下に尻餅をついたまま、恵美はピンク色のカーディガンに視線を落とした。震えの止まらない体から抜けていく力。

「何の騒ぎですか?」

 低い大きな声。ウルフカットのカツラ。現れた大柄の男性教員に冷たい視線を送る新任教員たち。

「ああ臼田先生、実は、生徒たちが勝手に屋上に上がってしまいまして」

「何ですって?」

「今、彼らを説得しているのですが、中々……」

「説得などと言っとる場合かぁ!」

「え?」

「生徒が落ちたらどうするつもりだ! このバカもん共がっ!」

 勝朗の顔がカッと赤茶色に染まる。新任教員たちはその怒気に圧倒されて言葉を失った。彼らは知らなかったのだ、カツラを被ってニヤニヤと笑うだけに見えた大柄の男性教員の普段の顔を。

 新任教員たちをギロリと睨みつけた勝郎はカツラを脱ぎ捨てると、ズンズンと階段を上がっていった。唖然としてその背中を見送る新任教員たち。勝朗の怒鳴り声が校舎の窓ガラスを震わせると、半ベソをかく三年の生徒たちが姿を現した。

 おお、というため息に似た声が新任教員たちの間に漏れる。そんな教員たちを尻目に、やっと壁に手を付いて体を起こした恵美は、太った体を引き摺るようにして屋上から離れていった。階段を下りて三階の廊下にへたり込んだ恵美はホッと息を吐く。だが、震えは止まらない。

「おい、大丈夫かよ?」

 女生徒の高い声。顔を上げた恵美は蛍光灯の光を反射させるダークブロンドの長い髪を見た。

「だ、だ、だ……大丈夫よ!」

 醜態。情けない姿を生徒に見られてしまったと顔に血を昇らせた恵美はダンッと壁に手を叩き付けて立ち上がった。脂肪の溜まった太い腕を組んで丸い背中を伸ばす中年女性。だが、それでもまだ体の震えは止まらない。

「大丈夫じゃねーだろ、先生、一緒に保健室行こーぜ?」

 ダークブロンドの女生徒の心配そうな赤い唇。カッとなった恵美は体の震えを止めようと大きく息を吸って吐いた。

「だ、大丈夫だと言ってるでしょう! アナタ、お、お名前は何かしら? その髪の色と口調、ワタクシは許しませんことよ?」

「吉沢由里だよ、口調は、まぁ悪かったな。それより先生、何かあったの?」

「な、な、何もありません事よ、ご心配なく、ほほ。そ、それと吉沢さん、先生には、け、敬語を使いなさい」

「いや、何かあったんだろ? いいから話せよ」

「な、何も無かったと言っているでしょう!」

「何で嘘つくんだよ!」

 吉沢由里は白い頬を赤く染めた。その端正な顔に浮かぶ怒りに、恵美の体が激しく震え出す。思い出したくない影。何処かで落とした記憶。恵美は、このダークブロンドの女生徒の怒った表情に、激しい恐怖と強烈な懐かしさを感じた。

「あ……」

「何で……もう、先生なら嘘なんてつくなよ。そりゃあ、私みたいな生徒は嫌いかもしれないけどさ」

「あ……」

「ねぇ、やっぱり保健室行こうよ、先生」

 ニッコリと微笑んだ由里は白い手を差し伸べた。

 畏怖。追慕。恵美はバッとその手を払い除ける。

「や、やめて!」

「おい、いい加減に……」

「ア、ア、アナタみたいな人だったわ。そうよ、アナタみたいな金髪の……! 私と……お姉ちゃんをイジメていたのは、アナタみたいな人たちだったわ!」

「……は?」

「調子に乗って髪を染めて、徒党を組んで弱い者をイジメて。ねぇ、そんな事をして、何が楽しいのかしら? ワタクシに教えてくださる?」

 言葉を失う由里。恵美は涙を流していた。

「毎日毎日毎日、嫌がらせ嫌がらせ嫌がらせ! 楽しそうに笑って! 何が、何がそんなに楽しかったのか、教えてちょうだい!」

 騒ぎに集まる生徒たち。彼らは醜く涙を垂れ流す太った女性教員を遠目に見てクスクスと笑い始めた。

「ワ、ワタクシは、まだ、分かりますわ……だ、だって、ブスですもの! 太ってますもの! でも、でも、何で、お姉ちゃんまで、イジメますのっ?」

「わ、私はイジメなんて……」

 ヒソヒソと周囲を木霊する笑い声。集まり始める教員たち。

「お、お、お姉ちゃんは……ワタクシの姉は美人でしたわ! アナタなんかよりもずっーと美人でしたわ! 黒い髪が綺麗で、優しくて、頭が良くて、怒った事なんか一度もないような、そ、そんな人だったのに……こ、この人殺しぃ!」

 微かに、ほんの僅かに胸の奥を走る違和感。気にせず恵美は涙を流す。

「何をしとるんだっ!」

 廊下に響き渡る怒鳴り声。鬼の形相の勝郎の登場に、わっと逃げ出す生徒たち。涙を流す恵美の姿を見た勝郎は、はっと息を呑んだ。

「山本先生、ど、どうしたんですか?」

「人殺し……人殺し……」

「おい、吉沢、何があった?」

「……私が聞きたいよ」

 首を横に振る由里。取り敢えず保健室に連れて行こうと、勝郎と由里は、泣きじゃくる恵美の横についた。

 


 石田大樹は強い違和感を覚えた。

 不良達の溜まり場となっている筈の校舎裏が静かなのである。予想に反して日野龍弥は一人だった。

「ひ、日野くん、話があるんだ」

「誰?」

 日野龍弥もまた違和感を覚えていた。呼び出した筈の取り巻きたちも、ボコる予定だった小森太一も現れないのだ。代わりに現れたカマキリのような男子生徒を龍弥は冷たく見下ろした。万が一に備えて、武器となる木製のバットの位置を横目に確認する。

「い、石田大樹だ、武藤くんの友達の」

「武藤クン?」

「武藤健太くんだ。お、お前が退学にさせた武藤健太くんの友達だ!」

「ごめんね、何の話か分からないや。ほら、最近退学する奴多いからさ」

 龍弥は惚けたように微笑んだ。大樹はムッと肩を怒らせる。

「武藤くんの顔写真をSNSにばら撒いたのがお前だって事は分かってんだ! 警察に通報されたく無かったら、武藤くんの退学を取消しにしろ!」

 言った瞬間、やはり自分は演技が下手くそだと、大樹は激しく後悔した。これでは脅迫である。陰気で腹の立つ弱者を演じて日野龍弥のイジメの対象に選ばれるという作戦は失敗だろう。

 サッと一瞬赤土色に変わる龍弥の顔。だが、すぐに龍弥の肌は元の青白さを取り戻す。

「ねぇ、君、石田クンだっけ?」

「……そ、そうだけど?」

「SNSってさ、怖いよね」

「う、うん、だからお前が……」

「僕の家もね、父親の件やら何やらで、色々と叩かれてるんだよ」

 曇り空を見上げる男。大樹はその視線の先を追った。

「別に警察に通報してもらってもいいけどさ、これだけは断言させてもらう、やったのは僕じゃない」

「ど、どうせ、取り巻きにやらせたんだろ?」

「そんなまさか……。そもそも取り巻きって何さ、彼らは僕の友達だよ」

「取り巻きだろ、奴らはお前に逆らえないじゃないか」

「……あ?」

 ドクンと脈打つ血管。ヒクヒクと震え始めるこめかみ。龍弥は言いようのない不快な感覚に歯を食いしばった。

「い、いくらここでは順従な取り巻きだって、警察に捕まりそうになれば、お前を裏切るぞ?」

「あ?」

「指示したって事がバレれば、終わりだよ、お前は」

「だから……?」

 膨張する血管。暴走する血流。赤い液体に動かされるように龍弥の人差し指がピクリと痙攣する。

「だから、だって? お前、まさか自分は捕まらないとでも思ってるのか? もうお前を守ってくれる父親はいないんだぞ?」

 頭に轟く爆発音。全身を震わせる雄叫び。右手が強く握る何か。

 視界を赤く染めた龍弥は、振り上げた木製のバットを目の前の男の頭に振り下ろした。


 

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