崩壊の天使


 SNSにばら撒かれた写真は瞬く間に広まった。

 暗い雪空を背景に口元を釣り上げる小太りの高校生。それが、てんかんに引き攣った顔だと気付いた人はいない。好奇心と同情心に富むネット上の人々。彼らの目に映ったのは、ただただ不敵で不気味な笑みを見せる武藤健太という名の男子生徒だった。

 再燃するイジメ問題。止める者のない炎の渦。教育委員会を動かしてF高校の問題を鎮静化しようと試みた市議会議員議長はもういない。

 


「武藤、おい、どうなんだ!」

 若い男性教員は怒鳴り声を上げた。壁を突き抜け廊下に響き渡る大声。恐々と空き教室を覗く生徒たち。

 武藤健太は顔を上げたまま体を硬直させた。緊張と恐怖に。動悸と痛みに。右の頰が激しく痙攣する。

「お前が浜田をイジメてたんか? ええ? どうなんだよ、早く答えんか!」

 若い男性教員はグイッと健太に顔を近付けて怒鳴った。鬼の形相。怯えきった健太は視線を逸らすことすらも出来ない。

 健太の胸ぐらに腕を伸ばす男性教員。何も喋らない男子生徒に強い怒りと焦りを感じた彼は、ガッと健太の体を持ち上げると激しく揺すり始めた。

「お、ま、え、が、浜田をイジメとったんかっ? どうなんだ、武藤、ゴラッ! イジメとったんなら許さんぞぉっ!」

 若い男性教員は見ていた。浜田圭太を殴って笑う日野龍弥の姿を。

 きっとあれがイジメの現場だったのだろうと、若い男性教員は後悔の念を抱いていた。だが、彼は目を瞑る。たとえあの現場に戻れたとしても、どうせ自分には何も出来ないのだろうと。無力感と悲しみの中に安息はない。ちっぽけだった。若い男性教員は受け持つクラスの生徒たちと新任教員からその存在を無視されている。

 自分は決してイジメなどに関わっておりません。

 ただ一言、武藤健太にそう言って欲しかった。キリッと太い眉を揃えて、グッと丸い顔に力を込めて、そう断言して欲しかった。自分を呑み込もうと渦巻く厄災の炎に立ち向かって欲しかった。

 この小太りで大人しい男子生徒がそう断言してくれれば、ちっぽけな自分でも何か力になってやれる事があるのではないか。ちっぽけな自分でも何かを変える事が出来るのではないか。

「どうなんだ! イジメをやっとんたんかっ、やってなかったんかっ。武藤、どうなんだと聞いているんだ!」

 若い男性教員は何度も何度も健太の体を揺すった。恐怖で歯を食いしばる健太。涙と鼻水で丸い顔がぐしゃぐしゃに濡れる。

「ちょっと、西田先生! 落ち着いてください!」

 慌てて空き教室に駆け込む女性教員。空き教室には生徒たちが集まっていた。はぁはぁと荒い息をしながら健太を手放した西田洋平は、自分も涙を流していた事に気がつく。あっと、袖で涙を拭いた洋平は、集まった生徒たちを掻き分けるようにして廊下に出て行った。

「うわっ、アイツ漏らしてるよ」

「きったねぇな……」

「何やったんだよ、アイツ」

「2年に自殺した子いたでしょ? アイツがイジメてたんだって……」

 濡れたズボンを押さえながら、健太は昔を思い出した。おねしょをして落ち込んだ彼の頭を撫でる母の微笑み。彼に手を差し伸べる人はもういない。

「えっと……君? 保健室に行ってらっしゃい」

 女性教員は人差し指の先で恐る恐る健太の丸い肩に触れると廊下を指差した。指の先を追って廊下を見た健太は、嘲笑するように光る無数の目を見る。

 体を丸めて空き教室の床に蹲る健太。保健室の奥田恭子を呼ぶように指示する女性教員。耳を塞いで一人の世界に逃げ込んだ健太は、ほんのりと、微かに柔らかな温かさを背中に感じた。



 ショートボブの天使。田中愛は困惑した。

 学校の雰囲気がまたガラリと変わってしまったのである。熱心に仕事を続けてきた新任教員たちは、何処か気怠そうな、何かに怯えたような表情で背中を丸めている。

 田中愛は視線を下げる新任教員たちを元気付けようと様々な幸を与えた。季節外れのシャボン玉を職員室に飛ばし、緑茶に茶柱を立て、富士山の絵を空き教室の黒板に描き、鷹の代わりに鳩の羽を廊下に並べ、茄子の浅漬けを教員たちの机に置いていった。

 職員室の乱雑な棚を掃除しようとよじ登るショートボブの天使。棚が急に倒れると、まさか地震か、と教員たちは携帯を開いた。

 生徒と教員の対立は激化していた。

 無法地帯となった教室。なんとか学級崩壊を止めようと声を張り上げる新任教員。その声も少しずつ小さくなっていく。教員の大半は生徒に声を掛けるのを怖がっていた。怒鳴り付けても聞かない生徒たち。彼らは徒党を組んで教員たちをイジメた。

 学級崩壊したクラスで独り言のように教科書を音読していた男性教員。複数の生徒にその姿を撮影された彼は、カッとなって生徒の一人を殴り倒した。

 何とかクラスを纏めようと毎日声を張り上げていた女性教員。次第に鬱となった彼女は、暴れ回る生徒の夢を見ては夜中に泣き叫び、やがて自分の部屋から出られなくなった。

 続出する退学者。教育改革が無くなるという噂。

 タトゥーを理由に自主退学させられた生徒の父は民事訴訟を起こすと腕を組み、特進クラス設置が無くなるという話に登校意欲を無くした生徒の母は学校側に損害賠償を請求した。

 ウルフカットのカツラ。臼田勝郎は奔走した。何とか学級崩壊の荒波を止めようと、生徒と教員の間に吹き荒れる嵐を止めようと、太い腕を広げる。

 勝郎は同情していた。教育改革の為にやってきた教員たちに。世間に、大人に振り回される生徒たちに。重なる不幸は誰のせいでもない、なればこそ立ちはだかる厄災の渦に皆で立ち向かわねばと、勝郎は太い腕を広げた。だが、勝郎に続く人はいない。

 状況が悪かった。生徒が教師を信じていない状況において、何処か間抜けに見えるカツラはマイナスでしか無かった。嘲笑と侮蔑。生徒は勝郎に負の感情以外のものを抱いていない。それは、新任教員の側も同じである。

 勝郎は一人だった。



 白の季節。雪化粧の街。寒波襲来のニュースが青く染める画面。人々は厳しい寒さに俯いた。

 白髪の天使が一人の生徒の背中を押す。カマキリのような細身。脂ぎった髪。雪の白に目を曇らせる男子生徒の腕に揺れる赤いポリタンク。

 寒かった。男子生徒は体を震わせていた。出来る兄と暮らす家庭も、友達のいない学校も、男子生徒には寒かった。

 校門の前にポリタンクを下ろす男子生徒。校庭では授業中にも関わらず生徒数人が雪を投げ合っている。

「おいおい、ガリ勉野郎、お前もサボりか?」

 生徒の一人が雪を投げた。大柄な男子生徒。細身の男子生徒は、太田翔吾の高らかな笑い声にキッと眉を捻る。

「ち、違う! た、体調が悪かったから午前中はちょっと寝てたんだ!」

 する必要のない言い訳。だが男子生徒は、自分よりも勉強が出来ない大柄のクラスメイトにだけは、絶対に馬鹿にされたくないと思った。

「そうかよ、もう治ったのか?」

「見れば分かるだろ! 治ったから来たんだ!」

「ならお前も参戦しろ!」

 曇り空を走る雪の玉。額にぶつかった冷たい衝撃に、カッと首筋を赤らめた男子生徒は雪玉を投げ返した。

「危ないだろ! 雪玉だろうと最悪死ぬ場合があるんだぞ!」

「て、お前も投げてんじゃねーか!」

 白い景色に響く声。細身の男子生徒の赤い顔。雪は冷たかった。だが、何故だか寒くはない。

 冷たい水の結晶を熱い手のひらで固めた男子生徒は、大きく肘を曲げると、曇り空に向かって雪玉を投げた。



 校門前に置かれた赤いポリタンクに視線を落とす白髪の天使。微かに漂うガソリンの臭い。白い校庭に視線を上げた新実和子は、生徒たちと一緒になって雪玉を投げるショートボブの天使を見つめた。




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