天使の快方

 

 奥田恭子はナラの苗木に首を傾げた。

 オレンジ色の小さな鉢。細い幹に不釣り合いな青葉。受け皿に溜まった泥水を外の花壇に流した恭子は、頬に皺を寄せて微笑むと、ナラの盆栽を日の当たる窓辺に置いた。廊下からその様子をじっと見つめるショートボブの天使。

 三限目の終わりを告げるチャイムが鳴る。何処かで引き戸の開かれた音がすると、廊下に響き始める生徒たちの話し声。

 存在を認知され難い存在。天使と人の狭間に漂う田中愛は天使だった頃よりも存在感が薄い。誰にも気づかれる事なく、生徒の隙間を縫うようにして廊下を歩いた田中愛は階段を上がった。

 階段を駆け下りる男子生徒。素早く階段の端に避けた田中愛の側に紺色の財布が転がる。茶髪の女生徒が財布に気が付いて男子生徒に声をかけると、田中愛は、そのまま走り去ろうとする男子生徒の背中に飛びかかった。廊下に転がる男子生徒とショートボブの天使。ううっと喉を震わせて起き上がった男子生徒に慌てて駆け寄る茶髪の女生徒。目を見合わせて笑い合う二人を横目に立ち上がった田中愛は、擦りむいた膝にハンカチを当てると、再び階段を上り始めた。


 田中愛の後ろ姿を階下から見つめる長い黒髪の女生徒。

 音の無い歩行。薄い影。人では無いものの気配。天使が生まれる原因も、天使が落ちる原理も、天使には分からない。ただ、人に落ちかけていた田中愛が天使に戻りつつあるのを、長い黒髪の天使は感じ取った。

 ショートボブの天使に背を向ける女生徒。職員室を目指して歩き始めた長い黒髪の天使は、激しく暴れる心臓を抑えて立ち止まると深く息を吐いた。

 止まらない汗。鳴り止まない鼓動。最後にもう一度、田中愛の上った階段を振り返る天使。

 天使を救った天使。誰にも認知される事なく廊下に蹲った長い黒髪の女生徒は、静かに、ゆっくりと目を瞑った。


 2年D組。白いプレートが四限目を告げるチャイムに震える。

 教室に戻った田中愛はまだ会話を続けるクラスメイトたちを一望すると、一番前の席で肘を付いて白い頬に手を当てる吉沢由里に歩み寄った。

 仏頂面。日野龍弥の存在が許せないダークブロンドの女生徒。由里の机の前に回り込んでしゃがんだ田中愛は、不満げに細められた彼女の瞳を覗き込んだ。視界の端に佇む野花。認知から遠い天使の存在に由里は気が付かない。

 教員が姿を表すと、すっと静かになる教室。いつまでも廊下側の壁を見つめる由里から視線を逸らした田中愛は、音も無く立ち上がると、窓辺の席に向かった。ノートに落書きをする中野翼の後ろに座るショートボブの天使。田中愛が窓を開けると、風に靡く白いカーテンが中野翼の頭を撫でた。授業に集中しない罰。鬱陶しそうにカーテンを払う翼。

 授業が終わると、田中愛は白紙のノートを閉じた。昼休み。ドンッとドアを叩き開けた吉沢由里が教室を出る。由里の従兄妹である太田翔吾がその後を追いかけると、田中愛も無音で翔吾の背中に続いた。

「おい由里、待てって!」

 階段前で由里に追いついた翔吾は、彼女の細い肩を掴んだ。色素の薄い長髪を揺らして振り返る由里。

「ああ?」

「お前、何やってんだよ」

「はぁ?」

「日野の奴と揉めたって聞いたぞ。おい由里、やめとけってマジで、アイツと関わるとろくな目に遭わねーぞ」

「うるせーよ、テメェには関係ねぇだろーが!」

「あるさ、叔母さんにお前の事頼まれてるって言ってんだろ」

 声のトーンを落として話す翔吾の胸ぐらを掴む由里。万が一にも殴り合いに発展しないようと、田中愛は、翔吾の足を掴んでいつでも倒せるように構えた。

「テメェ、殴られてーのか?」

「いっつも殴ってんだろ、お前」

「いいか、私は……」

 三階から下りてくる背の高い男子生徒。二人は言い合いを止めると、階段を見上げた。日野龍弥とその取り巻きたちを睨み上げた由里は、翔吾から手を離すと、龍弥に中指を立てる。

「おいコラッ、何ヘラヘラしてんだ、テメェ」

「あれ、由里ちゃん、奇遇だねぇ?」

 龍弥は階段を下りきると、キッと眉を顰める由里を見下ろして、イヤらしい笑みを浮かべた。

「奇遇じゃねーよ、テメェに会いに行こうとしてた所だ」

「僕に会いに? いやぁ、随分と積極的だね、由里ちゃん」

「死ねや」

 口笛を吹いて騒ぎ立てる取り巻きの生徒たち。通りかかった生徒の為に、体を横にずらした取り巻きの一人を見つめる田中愛。白い額に青い血管を浮かばせる由里を守ろうと、体を前に出す翔吾。

「ねぇ由里ちゃん、君、浜田クンの秘密知りたがってたよね?」

「知りたくねーよ!」

「今夜教えてあげるよ、浜田クンの秘密。それ聞いちゃったらさ、由里ちゃんも考えが変わると思うよ?」

「だから知りたくねーって言ってんだろうが!」

「由里ちゃん、君さ、それって卑怯じゃない? 一方的に怒って人の話は聞こうとしない。そういうのがさ、イジメに繋がるんだと思うよ、僕」

 卑怯と言われて言葉に詰まる由里。悔しそうに龍弥を睨みつける由里の瞳にうっすらと涙が浮かぶと、田中愛は、龍弥の太ももにローキックを喰らわした。僅かに感じた太ももの痛みに意識だけを向ける龍弥。滑って転ぶショートボブの天使。

「じゃあ、今夜十一時にT川の運動場に集合ってことでいいね? 当然、秘密の話だからさ、二人でこっそりと話そうね」

 パチリと片目を閉じる龍弥を無言で睨み上げた由里は、背中を向けてその場を離れていった。由里の背中を慌てて追った翔吾は後ろを振り返ると龍弥のニヤケ顔を睨み付ける。

 尻餅をついたまま由里と翔吾の背中を見送るショートボブの天使。地面に座り込む田中愛に気がつく取り巻きの一人。小柄な男子生徒は、田中愛の存在に不思議そうに首を傾げると、手を伸ばして天使を起こした。

 

 

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