天使の惑い


 ショートボブの天使の視線の先。朝から機嫌の悪い大柄の教員。薄い髪から覗く頭皮を真っ赤に染めた臼田勝朗が授業中に居眠りをしていた生徒を激しく怒鳴り付ける。

 翼のない天使。田中愛は困惑した。勝朗の日頃の善行に対する報いとして届けた筈の幸が何処にも見当たらないのである。大柄の教員の薄い頭皮を見上げるショートボブの天使。届けた筈の黒い髪はいったい何処にいったのか。田中愛はプレゼントしたカツラの行方が気になった。

 何かの鬱憤を発散するかのように怒鳴り散らす大柄の教員。それでもまだ怒りが収まらないのか、固まる生徒たちギロリと一望した勝朗は「自習!」と叫んで廊下に出て行ってしまった。

 音もなく立ち上がるショートボブの天使。真後ろの生徒ですら存在を忘れる短い黒髪の女生徒。誰にも気づかれることなく廊下に出た田中愛は、そのまま勝郎の後を追った。

 校舎裏でタバコを吸う大柄の教員。全面禁煙の学校で喫煙するという悪行。田中愛は、勝郎の行為に対する報いよりも先ず、彼の怒りの原因とカツラの行方を調べることにした。

 後ろからの足跡にスッと壁に寄る天使。腕を後ろに組んだ教頭が、つかつかと勝郎に歩み寄る。

「臼田先生、タバコはいかんね」

「すいません」

 慌てたように目を丸めた勝朗は急いでタバコを携帯灰皿に押し潰す。教頭はニッコリと微笑んだ。

「何かあったのかね? 珍しく不機嫌じゃないか」

「い、いえ、ちょっと、生徒にイタズラをされまして……はは、大人げなくイラついてしまいました」

「そうか、そうか。まぁ、学校というのは、思春期の多感な子供の集まる所だからね、臼田先生なら分かっていると思うが」

「はい」

「あまりにも悪質なら、注意も必要なのだろうが」

「い、いえいえ、悪質というほどでは……。可愛らしいイタズラですよ、問題ありません」

「ふむ……。そんなことより臼田先生、久々に週末、一杯やらんかね?」

「いいですね、お供します」

 ニッコリと目を細める教頭。勝郎も口を開いて微笑み返す。

 不機嫌な理由が生徒のイタズラだと分かったショートボブの天使。カツラの行方はわからなかったが、勝郎の喫煙に対する厄災はいらないだろうと田中愛は判断した。

 日暮れ。男子生徒のイジメに対する報いを完遂した田中愛は、下校中の交差点で勝郎を見かける。相変わらず勝朗はカツラを付けていない。田中愛は向かいに進んだ勝郎を追って道路に飛び出した。猛スピードで迫る車。天使の存在に気づかない運転手。体の固まった田中愛は目を瞑った。

 横からの衝撃。ゆっくりと目を開けた田中愛は、自分にしがみつく勝郎を見る。白いワイシャツに染みる赤。車の運転手の怒鳴り声。立ち上がった勝郎は何度も頭を下げた。

 車が去ると、勝郎は怒りの形相で田中愛を見下ろす。思わず下を向く天使。深く息を吸う勝郎。その時、近くを歩いていた若い女性が勝郎に駆け寄った。

「だ、大丈夫ですか?」

「は? ……え、ええ、全く」

「危なかったですね。ほんと、あの運転手、何考えてるんでしょうね」

「い、いえいえ、飛び出した僕らにも非はありますから」

 独身の勝郎。女性との会話に顔を赤くしながら、視線を下に向ける。だが、先ほど助けた生徒の姿は無い。

「あれ、何処行った、アイツ?」

「ああ、あの猫ちゃんなら、さっさと逃げて行きましたよ」

「猫? ……えっと、子供でしたよね?」

「黒猫でしたよ。子供だと思って助けたんですか?」

「ええ、うちの生徒かと……。あれ、猫だったかな? 確かにうちの制服を着てた気がしたんだけどなぁ」

「学校の先生なんですか?」

「え? あ、はい、そこの高校の教師でして」

「すごい! 生徒を助けようとして飛び出したんですね、カッコいい!」

「い、いえいえ、猫でしたが」

 勝郎は薄い頭を撫でて笑った。女性も口元を抑えてころころと笑う。

 電柱の影に立つショートボブの天使。田中愛は勝郎が先ほど怪我をしてしまった事を知っていた。

 善行に対する報い。生徒を助けようとして受けた厄災。

 ショートボブの天使はじっと勝郎と若い女性の会話を見守った。

 

 

 

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