水底に沈んだ恋の水死体・陸


 梅雨は明け、乾いた廊下は歩くたびキュッキュと元気に音を産む。歩くのだけはせっかちな私は誰もいない朝の学校にいた。向かうのは一階の保健室。怠惰なくせに、朝は早いのだ。あの先生は。


「失礼します」

「来たな。おはよう」

「おはようございます」


 保健室はコーヒーとほのかにタバコも香った。生徒に会うっていうのに朝っぱらからよく吸うもんだ。私は出入り口付近に常備された消臭スプレーを先生に吹きかける。


「臭いです」

「おっ前、先生に向かってなんだその態度」

「いやまじ臭いむり」

「喧し。ちょ、ほんとやめて。白衣湿ってきてるから。集中的にかけんな」


 匂いが幾分かマシになってきたところでスプレーをやめた。森林の爽やかな香りが部屋に充満している。


「ったく、小生意気なガキだな」


 保健医―――細田先生は額に手を当てため息をついた。眼鏡の奥の気だるげな目はこちらをみて、更に気だるく濁った。酷く疲れている様子だった。


「で? 俺にわざわざアポ取ってまでなんの用なわけ? 先生こう見えて忙しいんだよ」

「忙しいのは細田くんのことで……ですよね」


 ピクリ、額に当たっていた手が反応する。


「なに、あいつの事はなしにわざわざ呼んだの? 君さ、ちょっと不謹慎じゃない?」

「私。調べたんです。いろんな人から話を聞いたりもしました」


 先生の少し苛立ったような声を無視する。先生は少し怖いけど、この怒りが細田くんを思ってこそのものならば、そんなに怖がらなくてもいいんじゃないかともおもえるのだ。


「細田くんは運動神経はいいし性格も素直で正直。なんでも本気で嘘を言うような人柄じゃない。誰に聞いてもそう言われました」


 まっすぐ、決して目を逸らすまいと前を見据えた。こういうのは逸らしたら負け。野生動物といっしょなのだ。

 ちなみにこれは成瀬の受け売り。あいつは人心掌握に長けており、またゴリ押しのプロであった。


「彼の言った死体が沈んでいる、というのは別に間違いじゃないんです。現にそれのせいで細田くんはずっと眠ってますから」


 真剣に、慎重に、丁寧にことばを選ぶ。

 こんな小娘の荒唐無稽こうとうむけいなたわごと、大人ならば一笑に付していただろう。それが普通だとしっかり理解している。でも細田先生は黙ってはなしを聞いていた。真剣さは私と同等だ。


「プールには死体が沈んでいる。学生の間ではよくある噂です。でも、細田くんがあの状況でそんな事言うでしょうか。否、先生ならわかりますよね」


 前述の通り、細田くんはそんな冗談を言うような人ではないし、溺れた直後に言うのも意味不明だ。

 ここで幽霊のせいだと言えれば楽なんだが、霊を見たことない人にとっては立派な狂言。まだだ。まだ言わない。


「そこで私は調べました。この学校のプールにまつわる新聞を」


 今通っている高校はだいぶ古くからこの土地にある。当時の地主だかお金持ちが建てた学校ということは割と有名なはなしで、検索をかけてもらったら割と学校の名前の載った新聞が見つかった。


 しかし、そこに『女子生徒、溺死』の文字を付け足すと全くヒットしなかった。


「最初は全く見つかりませんでした。私が調べたかったのは女子生徒の溺死の記事。でも見つかるのはすべて男子生徒の溺死事件」


 なぜ女子生徒か。先生はなにも聞かなかったが、何かを考え込むようにしてただ座っていた。私が言うのもなんだが、どうしてこんな話聞いてくれるんだろう。


「どうした、続けろ」

「アはい。どうしても見つからなくて、突然ふとことに気づいたんです」


 メル先輩のお言葉を頭の中で再生する。


 ――アナタにはもうパズルのピースが揃ってる。あとは組み立てるだけ。


 ヒントはもうとっくに貰っていた。彼女はからだが弱く、歩くだけですぐ疲れていたと言った。恐らく彼女は心臓が弱かったのだ。

 そこから私は仮説を建て、検索ワードを『女子生徒、』から『女子生徒、』に置き換えた。そこでヒットする一枚の新聞。


「この高校のプールで心臓発作を起こし、深夜だったこともあって誰にも見つけられずそのまま亡くなった。名前を、たちばな千代子ちよこさんと云うそうです」


 橘千代子。この名前を新聞で見たときに確信した。これはちい子先輩のことだと。私が生まれるよりも前、四十五年前の出来事だった。


「ねえ先生、私、この人と話したことがあるんです。プールで大事なもの落として、探しに行ったって、聞いたんです」


 これは賭博。完全な賭けだった。先生は今まで真剣に話を聞いていた。ストップもかけず、キチガイを見るようにするでもなく耳を傾けていた。だから、きっと大丈夫。この人は最後まで私に喋らせてくれる。


 彼女の事を、どうしても先生に伝えたかった。


「あの人は悔やんでました。自分はきっと地獄行きだと。でも、でもあの人は……彼女は一途なだけなんです。たった一人を死んでも好きなだけ。好きな人に似ていた細田くんを、引きずり込んだ事を酷く後悔してたんです」


 正直、支離滅裂だった。声が揺らいで今にも消えそうだった。それでも、彼女の恋と後悔をどうしたって伝えたかった。彼女の想い人の血縁には、絶対に。


「……フゥー」


 細田先生は息を吐き出す。長い沈黙のあと、椅子から立ち上がり何処かへと歩いていってしまう。


(キチガイだと思われたかな……)


 噂されたらどうしよう。いやでも元々噂されていたし、今ではもう友人もできたんだ。そんな事気にするようなもんでもなかった。

 腹を括り現実逃避で閉じていた目を開くと、ちょうど先生がまた椅子に座るところだった。手には、小さな小箱を持っていた。


「……なんですか、この草臥れた箱」

「これは俺の爺さんの遺品だ。爺さんの遺言にここの教師になるなら持ってけって書いてあったんだよ」


 箱が作成された当時は相当綺麗だったであろう飾り箱。いまは色褪せていており、月日を感じさせるものだった。

 手渡されたのだから、開けてみろということなんだろう。箱が壊れてしまわないようにそっと開けると、そこには手紙が入っていた。その手紙のうち一枚を、また慎重に手にとって読む。


「親愛なる、あなたへ……」

 

 それは、誰かへ宛てたラブレターだった。茶色く変色し、何回も手にとって読んだのか紙はヨレヨレだ。所々滲んで読めないそこはきっと、涙の跡。


「今から四十五年前。爺さんが二十四のときの話はよく聞かされてたよ」



 ―回想―



 爺さんが二十四のとき、ある生徒に惚れちまったらしい。いいとこのお嬢さんでばかみたいに別嬪だったが、随分とマァ貧弱だったってはなしだ。

 すぐ息が上がって座り込むもんだから、そのたびに爺さんがおぶってやったらすぐに懐かれたんだと。先に惚れたのはお嬢さんの方だったが、爺さんもだいぶ惚れ込んだみたいでね。その手紙で文通してたんだよ。


 二人卒業してから告白するって約束してたんだと。ン、お互いがお互いに好きなこと知ってたかって? 知ってたんだろう。でも敢えて言わなかった。生徒と教師なんざどの時代も恋愛には不向きな間柄だ。しがらみが無くなってから伝えたかったんだろう。


 でも、それは叶わなかった。

 お嬢さんが学校のプールで死んだんだ。死因は心臓発作。朝まで誰にも見つからず、プールに浮かんでた。



 ―回想終了―



 先生は、コーヒーを一口だけ飲んで窓の外を見る。遠い彼方に過去を見ているみたいに、郷愁に浸るみたいに目を細めた。


「爺さんはなんだってプールなんかにって泣き崩れたらしいが……そうか。落とし物探してたんだな」


 私はまた手紙を見る。何枚も何枚も同じ便箋、同じ筆跡で書かれたそれは、そのどれもが涙で滲んでいた。

 きっと何回も読んで、何回も泣いたのだろう。もう会えない彼女のひまわりみたいな笑顔を思い浮かべながら、手紙を抱きしめたんだろう。


「……おいおい」


 パタリパタリ、手の甲に涙が降る。前にめいっぱい泣いたのに、先生のお爺さんの話を聞いたら駄目だった。


「なぁんで君が泣くんだ」

「ズッ、だ、だって、ひぐ」

「ったく、ほらティッシュ」


 泣かずにはいられなかった。だって、こんな事ってないだろう。二人はお互い愛し合ってたのに、恋しあってたのに。どうして一緒にいられなかったんだろう。どうして一緒に生きれなかったんだろう。


 私は全く関係ないはずなのに、その事実をなぜかすごく悔しく思った。


「爺さんは死ぬ間際までずっとお嬢さんのこと引きずってた。俺にこの箱託すくらいに」


 もう終わったことだと頭を撫でられる。慰められている。泣いてしまってとても申し訳なかった。


(……あれ?)


 箱のいちばん底に、小さい封筒みたいなのが貼り付けてあるのに気づいた。触れてみると、何やら紐のようなものが入っている。


「!!」


 封筒をビリビリと引っぺがした。先生が咎めたが気にしてる場合ではなかった。私の予想が当たっていればこれは――。


「やっぱり……」


 朱色、黒、白の紐で紡がれたそれは、恐らく彼女が言っていたお守りだ。それも、お揃いで付けていたものの片割れ。


「先生!!」

「な、なに」

「プールまで付いてきてください!!」

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