水底に沈んだ恋の水死体・肆


 夏。


 この文字を見て何をいちばんに思い出すだろうか。例えを挙げるならば蝉しぐれ、波の音、スイカの味、花火の鮮やかさなどなど。

 そのどれもが夏のイメージの定番であり、大抵の人はこういったものを答えることだろう。


 私といえば、この質問を投げかけられたとき真っ先に頭に浮かべたのは水の匂いだった。


 水といっても色々種類があって、例えば雨がアスファルトを溶かした匂いだとか、風に乗ってきた海水の匂いだとか。

 こう見ると一重に水の匂いと表現していいものか悩むところだ。


「知ってますか、人間の五感の中でいちばん古く記憶に残るのは嗅覚。つまり、最後まで記憶に残るのは匂いなんですって」


 いつかテレビだかで見た知識を披露する。


 彼女と出会い、放課後にお話をする回数は今日で三回目になった。

 部活動は細田くんが原因不明の昏睡状態のために相変わらず休止しており、気づけばメル先輩と顔を合せないのも三回目になってしまっていた。


(別に、意識しているわけじゃない。少し気まずいだけ。距離をおいたらまた元通りになる……たぶん!!)


 確証もない可能性にかけて部活に行くのをズルズルと引き伸ばす私は滑稽だ。

 映画研究倶楽部は基本は自由参加であり、毎日来るなんて約束もしていないから別になにも問題ないないはずなのに。



 最近、ドアを開ければいつも一人、ポツンと椅子に座る先輩を思うと、なんとも言い難い感情に襲われる。

 部活動が休止中のいまでも、きっと部室に独りでいるのだと漠然ばくぜんとおもうのだ。


「今日は上の空ね」

「う」

「例の彼のこと考えてるんでしょう」

「ううう」


 隣できれいに微笑む彼女は、一段と哀愁を漂わせている。

 少なくとも、私はこの人には恋煩いをする自分と同じように映っているみたいだ。


「……そうですね。今日もきっと誰もいない部室に独りなのかなって思ってました」

「あら。私もね、よく想うの。彼とびきり無愛想でね。生徒からあんまり好かれてなかったの。いつも独りでいたわ」

「へえ」

「ふふ、懐かしいわ」


 先生なんて学校に通っていれば毎日のように顔を合わせるような存在なのに、まるで故人を懐かしむように話す。

 懐かしさを滲ませた声は、彼女の心のやわい部分をよくあらわしているみたく感じた。


「昨日と一昨日はほぼ惚気のろけてたのに、今日は最初からしんみりしてますね。なにかあったんですか?」


 ちゃぷ、と足を水面に付ける。匂いたつ塩素のかおりと水の音が心地良い。周りが静かだからそう感じるだけかもしれないけど。

 私の問いかけから一分くらいは経っただろうか。慎重に言葉が重なる。


「今日はね、私の話を聞いてほしいの」

「ちい先輩の?」

「好きな人のはなしもいいけれど、ね」


 私、からだが弱かったの。


 その言葉に悲壮感はない。ただあるままの事実を言っているだけの、淡々としたものだ。


「学校には通えてたわ。でもすぐに疲れちゃって。よく保健室で休んでたの」

「いまは大丈夫なんですか」


 かける言葉があんまり思いつかず、安っぽい心配のセリフがでる。そんな私にちい子先輩は目を淡く細めた。


「せんせがね、疲れた私をよく運んでくれたの。すぐに疲れるならもう学校来るなって」

「女子生徒に随分きつい言いよう」

「ただ単純に心配してくだすってたのよ」


 それならば、なんて不器用な先生だろうか。もう少しオブラートに包んだ物言いをしなければ下手すりゃ登校拒否されてたに違いない。


「最初はね、せんせのことみんなみたく怖がってたわ。でもね、ぶっきらぼうでも優しかった。いっとう優しかったのよ、彼」


 胸に手を当て、大切ななにかを抱きしめるようにする様子はこちらまで幸せになる光景だ。

 ここまで大切にできるものがある彼女のことをすこし、羨ましく見る。


「倒れたらすっ飛んできてくれるし、私が不安がってたらいつも側にいてくれた。私、あの人の背中の熱がだいすきだったわ」

「毎回、先輩のことをおぶってくれてたんですね、その先生は」


 暗に先生優しいですね、と言ったのが正しく伝わり、目の前の人はまたひまわりみたいに笑った。


「最後まで記憶に残るのは匂いだっけ」

「そうらしいですよ」

「なら当たりね。今でも覚えてるもの」

「そうですか」

「ええ、おひさまみたいな匂いだったわ」


 揺れる水面をみて、沈黙。


 頭には、ちい子先輩の好きな先生みたいな人なんてはたしていただろうかとかでなく、メル先輩のことが浮かんでいた。

 いまごろ何をしているんだろう。もう家に帰ったかな。それともまだ校舎にいるかな。今日も独りなのかな。


「……せんせがね、私にお守りをくれたの」


 思考の海は流れ、隣を見やる。


「不器用なくせに、お揃いのミサンガ編んでくれたのよ。足につけて、体が治りますようにって。担任だからって範疇はんちゅうを超えてるわよね。もう、愛おしくてかなわなかった」


 好きにならずにはいられなかった。

 好きだった、愛している、愛していた。


 彼女からとめどなく告白がこぼれる。揺らいだ瞳は気まずくなった発端の日の、あの日のメル先輩と似ていた。


「言ったの。時が来たらあなたに言いたいことがあるって。私はまだ生徒だから、卒業式まで待ってほしいって」

「……」

「彼、一言って。嬉しかった。すごく嬉しかったわ。もう死んじゃうくらい」


 慈愛を溜め込んだ瞳は自身の足首を見つめている。するりと手で撫でたそこには、何もない。どんなに見ても、


「体もね、ほんのちょっとずつだけど良くなってたの。プールで少し泳げるくらいには」

「気持ちよかった。初めてのプールだった」

「思えば、あの時がいちばん幸せだったわ」

「なんでもできる様な気がしてたの」


 彼女は話し続ける。独白にも取れるそれは壊れた蛇口みたいに溢れて止まらない。

 足に触れていた手は今では水にさらされていた。水音がやけに大きく聞こえる。


「だから、失敗しちゃった」

「なに……を?」


 なにか、分かってしまいそうな予感があった。人間の第六感が、何かを理解しようとしている。


「せんせから貰ったお守り、プールのどこかに落っことしたの」


 消えそうな声。両手でプールからすくってみせた水は、掬ったそばから手からすり抜けて無くなっていく。


「せんせは気にするなって言ってくれたけど、そんなこと無理だった」


 彼女の話が進むたびに違和感がとめどなく押し寄せる。おかしい。おかしい。なにがおかしい。頭の中でパズルができあがっていく。


「夜にね、プールに忍び込んで、探しに行ったの。暗くて冷たくて、でもお守りは見つけたくって」


 ああ、最初から可笑おかしかったのだ。彼女はいつの間にかプールにいたが、出入り口付近にいた私がプールに侵入した彼女に気づかないわけがなかった。

 なにより、彼女の話には間違いがある。彼女の話によると想い人は男性の担任教師だ。それが本気で言ってる事ならば、彼女は嘘を言っていることになる。



 だって、二年生の担任は全員女性なのだから。



 いつの間にか立ち上がっていた彼女は、仕方ないとでも言うように、すべて諦めた表情でたたずんでいた。


「ようやく気づいたのね、鈍感さん」


 気づいた、気づいてしまった。

 彼女はもう――。


「私、最初は彼が帰ってきたと思ったの。でも勘違いで、とんでもない事をしてしまった。きっと地獄行きになるわ」


 先輩は目を閉じる。

 そこから一筋、光るものが伝った。


「でも、私は地獄にも行けない。どこにも行けないの。お守りを見つけるまでは、どこにも……を帰してあげることすらできない。ごめんなさい、ごめんなさい」


 私は彼女の事実を知ってなお恐れなかった。


 それは彼女がすごく人間くさかったからか。それともただただ慈愛しか感じなかったからか。いや――この人には、最初から愛と哀しかなかった。


「お話、聞いてくれてありがとう――どうか忘れないでいてね。私が、せんせに世界の誰よりいちばん恋してたこと」


 先輩が両手を広げ、ゆっくりプールへ倒れていく。全てがスローモーションで流れていくようで、手を伸ばせば届く距離で。



 そんなだったから。

 立ち上がり、手を――。



「ふふ、お迎えよ」


 突然、後ろから手を引かれて抱きとめられた。目の前では水飛沫があがり、彼女は泡沫うたかたに消えてしまった。


「……アナタね、溺れ死にたいんですか」


 その声は、今ではもう慣れ親しんでしまった声。たった三日間聞かなかっただけでなのに、すごく懐かしく思えた。


「メル、先輩……?」

「まったく、ただでさえ感受性が高いんです。感化されたら持ってかれますよ」

「かんか……?」

「彼女に同情して入水自殺するところだったんです。警戒心はないんですか?」

「……ううッ」


 安心からか、はたまた寂しさからか。


 いろんな感情が胸の内でこんがらがって、涙がこみ上げる。何がなんだかわからなかったが、とにかく今は、無性に泣きたい気分だった。


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