水底に沈んだ恋の水死体・弐


 ざわざわ。ひそひそ。


 聞いた?

 聞いたよ。B組の細田くん。

 溺れて病院搬送されたって。

 普通に足つくとこで溺れたって。

 いまは意識がないんだって。


 3限目に起きた事件は水の波紋のごとく広がり、昼にきて全クラスの生徒が知る出来事になってしまった。

 ま、そりゃそうだろう。教師が大慌てで校庭で救急車ぁ、なんて叫んだのだ。注目を集めるのに十分な理由だ。


 それにしても――


「なんか、みんなやけに顔色悪いね」

「気味悪そうに噂するよな。なんで?」


 耳をすましてみればきこえてしまう。そのくらいの声で話される内容はどれも同じ。溺れた彼の話である。

 そして、顔色もみな一様にして青かった。何かに怯えるみたく、不安そうにしている。


「そうか、成瀬と雀部はまだ何も聞いてないんだな」


 ラップに包んだおにぎりをかじりながら一路くんが言う。

 眉根が若干寄っていたので今回の事を彼も不安に感じているのかと思いきや、おにぎりの具が梅だっただけみたいだ。まったく紛らわしい。


「細田が溺れたときに言った言葉と状態が怪談じみてたからビビってるんだろ」

「怪談じみてる?」


 一路くんはそうだと肯定し、おにぎりを飲み込む。一息つくと彼は真剣な声色で言った。



「あいつ、プールの底には死体があるって言ったんだ」



 一年B組、細田ほそださとる。保健医である細田ほそだ荘介そうすけ先生の甥っ子であり、サッカー部所属の運動神経のもうしごである。


 彼は学年ではもっぱら健康優良児で有名な生徒で、今日もプールの授業に嬉しそうにしていたという。クロールやらバタフライやらを披露し、誰よりはやく課題をクリアした彼は一人、いちばん端のレーンで自由に泳いでいたらしい。


 他の生徒もつぎつぎ課題をこなし、B組の生徒全員がプールから引き上げたときだった。


『先生、細田がいません』


 ひとりの生徒が彼の不在に気づいた。そういえば、と周りも気づき、ざわつきはじめる。


 先生はまず一番にプールを見たが、波打つことも泡が立つ様子もなかった。次に更衣室で暖をとっているかトイレかと思った先生は名前を呼びながら確認するが、返事はおろか気配すらない。


 そこまで来て、先生は血相変えてプールに走って飛び込んだのだそうだ。そう、彼はプールのいちばん端のレーンに沈んでいたのである。


 先生が彼をプールサイドに引き上げ、呼吸ができているか確認した。すると不思議なことに、普通に息をしている。


「ん? それのどの辺りが変なの?」


 成瀬がパンの袋を開けながら訊ねた。

 さすが空気の読めない同級生の上位に食い込む男。いますごく重要なとこまで行きかけてたのに水をさすとは。とんだKY野郎だ。


「ほんと成瀬くんさー」

「話の腰を折るのが好きなんだな」

「はあ!? そんな事ねーし!!」

「いやいやあるでしょ」

「……はあ」


 空気読めない、いんや読めるとやんややんやする私たちに見かねたのか、それとも話したい気分だったのか。今まで黙々と弁当を突いていた雅さんがため息をこぼした。


「いいこと、細田くんがどれだけの間しずんでいたかは知らないけれど、先生が細田くんを引き上げるまでには更衣室を探したり、トイレを探したりしていたわ」


 ざっと二分間くらいかしら。


 彼女は弁当に鎮座するタコさんウインナーを二匹よこに並べ、そのうちの一匹を神妙そうに箸で掬いながら言った。


「二分間沈んでて引き上げたら普通に息してんのが可笑おかしいってこと? でもさ、そんなんあいつ運動部だし、二分ぐらい息止めても大丈夫じゃね?」

「まじかよコイツ」


 ここまで行間を読まないとは呆れを通り越して引く。雅さんも半目で成瀬を見ていた。埴輪みたいな顔だった。


「あのね、細田くんは引き上げられたとき、意識が無かったんだよ。だから先生が息してるか確認したの」

「それにだ、細田は先生が探し始めるよりも前に姿が見当たらなかったんだ。という事は少なくとも生徒全員がプールサイドに上がりきるより前にプール底に沈んでた可能性が高い」


 そこまで聞いてさすがの成瀬も気づいたのか、顔を引きつらせた。


 引き上げられた時に意識がなかったら、沈んでる間も当然意識が無かったはずだ。

 そして、誰もいないプールからは泡一つたつことがなかったというのに、プールサイドに引き上げられた彼は息をしていた。


 何が可笑しいのか、もうお気づきだろう。


「細田に意識が無くて息があるのなら、プールに泡が立ってないのは可笑しいだろ?」


 一路くんと雅さんはおまけとばかりに、水を飲んだり鼻から吸い込んだ様子もなかったことを教えてくれた。話の不気味さが増した。


「うーわ、やっば……」

「ちょっと、いや大分気味が悪い話だよね」


 成瀬と一緒に腕を擦る。体感温度が二度くらい下がった気分だった。


「もっと寒いのはこの先よ」

「ああ、あれはみんな腰抜かしてたな」

「なに、まだ何かあんの」

「言っただろ、さっき」

「プールの底には〜ってやつ?」


 一路くんは頷き、今度は梅が原因でない顔のしかめ方をした。


「呼吸の確認後、あいついきなり起き上がったんだ。あー、車の座席の背もたれを倒れた状態から一気に起こしたみたいな感じ?」

「言わんとすることはわかった。それで?」

「おう。それでな、真顔でプールの底には死体があるって三回言ったら、また気絶した」

「機械みたいな無機質な声だったわ。もちろん、プールの底に死体なんて無かったし」


 細田という生徒は私も見たことがあった。明るい声で笑い、見かけるといつも誰かと一緒にじゃれてるようなひと。

 そんな彼が真顔で、しかも抑揚ない声で先のセリフを言ったところを想像し、おのれのイマジネーションの強さを呪った。普通に怖い。


「これもなんか霊の仕業なんかね」

「雅さんはなにか見た?」

「今日は貧血でおやすみしたの。彼が引き上がってからはプールに近づけなくって。水底を覗きこんで確認もできなかったわ」


 思わず遠くをみた。同級生が沈んでた場所を確認しようとするなんて強心臓が過ぎないだろうか。私だったら怖くて無理だ。


「もし霊の仕業で引きずり込んでくるタイプだったらやばいし、覗きこむのはやめてね」

「あら、心配してくれるのね」


 ありがとう、とテレテレする雅さんはやっぱりかわゆい。女の子の友達ってやっぱりいいな。


「そーいえばさ、プールにまつわる七不思議ってあったよな」


 成瀬がいちご牛乳をすすりながらふと、思い出したようにつぶやいた。三人の視線が集中する。


「それが今回の事となにか関係あるのか?」

「いや知らんけど」

「凡庸性高いわよね。知らんけどって」

「それな」

「いやマ、知らんけどは置いといて」


 彼は噂話をするとき、必ず一度は言うだろう常套句じょうとうくを潜めた声で言葉にした。


「知ってる? って話」

 

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