―9―


――レイナートさんに保護されてしばらく経った頃。短い夏の一日のこと。あの日のことは忘れない。


私は、髪をひとつにくくって、サリュースさんが若い時着ていた膝丈スカートをはいていた。丸くて顔の横にあり肌と同色で無毛の人間の耳を、高地の夏のような涼風に無造作にさらしていた。人間であることが問題になるとは、考えたこともなかった。レイナートさんもサリュースさんも、何も言わなかったから。


人間のこと。熊人という種族のこと。レイナートさんは言うか言わないか幾夜も悩んで、それから私に告げ。その夜を、よく覚えている。




人間は、全ての獣人の先祖だと言われた。

そして、全ての獣人の、敵であると。







獣人の遠い遠い先祖たちは、獣の耳も尾も持たないただの人間だったという。


人間同士の間で争いが起きた。先祖たちはその争いに負けて、雪深いこの北の地にまで追われた。そして、厳しい土地で少しでも多く生き残るために、いくつかの場所に分かれて集落を築いた。ある者らは山の麓に、ある者らは森の中に、またある者らは川べりに、分かれて暮らしたという。


熊人の先祖は高い山の麓に住みついた。そこは最北の奥地で、環境は過酷だった。冬の只中は雪嵐が何十日も吹きすさぶような場所だった。それでも耐え、ひと冬ふた冬と越した。けれども三度目の冬、彼らは死に絶えそうになった。


――それを助けたのが一頭の獣である。


立派な体躯の黒い獣は、美しい人間の少女を死の淵から救いあげ、のちに彼らは結ばれたという。


他の集落でも同じようなことがあり、獣とひとは緩やかに交わっていった。昔話に語られる幾通りもの恋物語。獣人は、そうして生まれたのだ。




――けれど、種さえ超えた愛の結晶として生まれた獣混じりのひとたちは、その後長らく人間からの迫害を受けることとなる。




この地よりはるか南には人間が暮らす国がある。何百年か前、獣人たちは人間の国と国交を持つこととなった。けれど人間ははなから獣人を同列になど見ていなかった。薄汚く気味の悪い人間に似た姿をした獣は――体のいい労働力であり、使い潰し鬱憤を晴らすための道具でしかなかった。環境の厳しい北の地に人間は興味は示さなかったが、獣人という資源にだけは旺盛に手を伸ばし、その時代、多くの獣人が筆舌に尽くせないほど過酷な目に合ったという。







それも昔のこと。世代を経た者たちの多くは、人間を恨んでもいなければ、憎んでもいない。それでも先祖や仲間への所業を顧みれば思うところはあって、全ての獣人がアキを受け入れられるわけでもない。


だから耳を隠しなさい。尾のない足を隠しなさい。人間であることは、明かしてもいいと思えるひとにだけ明かしなさい。それがお前のためだから。


レイナートさんはサリュースさんの重々しい眼差しとともに、その話はそれで終わった。




言われた通りに翌日からは二人の前であっても耳を隠すため頭に布を巻くようになった。短いスカートはやめ、丈のあるスカートを履くようになった。その変化を少し寂し気な目で見ながらも、お前のためと私を諭した以上二人が何かを言うことはなかった。


そして季節は巡り、二年前の晩秋。私は二人以外のひとに初めてこの耳をさらした。レイナートさんとサリュースさんの一人息子の、彼。


彼とは会うたびに仲良く話をした。二人で野に出かけ、笑い合ったこともあった。その中にはほんの少しの恋情もあったかもしれない。熊人らしく大柄で明るく、父母の愛を一身に受け健やかに育った彼は、眩しいくらいいいひとだった。だから私は、なんの根拠もなく、受け入れてもらえると思っていたのだ。


思い返す。あの瞬間、見開かれた瞳を。今でも思い出す。一瞬で浮かんだ嫌悪の表情を。そしてその夜、レイナートさんとサリュースさんに隠れて呼び出され、告げられた、あの言葉を。




――俺は人間を信じられない。もうあんたを、親父とお袋のそばに置いておくことはできない。……この家を、出て行ってくれ。




その後すぐ、冬が来た。


自分の住処へと戻っていった彼も、レイナートさんとサリュースさんも、私一人を置いて冬眠した。ひどく長い冬を、過ごした。


そして――その春、サリュースさんは、眠りながら亡くなった。







あの日から三日。明日には男性職員二人も休暇に入り、二日の間、ギルドは私一人で開けることになる。ただ開けておくだけでいい、何もしなくていいと言われてはいても一人になる不安はあって、私は当然のように……ジオルドさんに一緒にいてもらう気でいた。一緒にいてくれると思っていたのだ。あの時と一緒。なんの根拠もなく。

けれど、彼の返事は否だった。どころか、すませておくことがあるからと二日間『見回り』は休むと告げられた。避けられ、突き放された。その衝撃は思いのほか大きかった。自分が、あの実直で無口な青年をいつの間にか随分と信用していたことに気付いたのだ。でも彼は、人間の私を受け入れてくれなかった。


――そう。彼も、受け入れては、くれなかったのだ。







一人きり、ギルドにこもり。ちらちらする雪を窓の外に眺めながら。静かすぎる空間に、考え事ばかりしている。


日本にいた頃は、漫然と毎日を生きていた。みんなと同じように学生時代を過ごし、就職し働いて。いつか誰かと結婚して家庭を作るのが当然だと思っていた。


それがこの世界にきて、ようやく必死で生きるということを知った。誰かがくれる無償の優しさを知った。ここに今いる理由を求めるようになった。


人間だと知られたら、誰もかれもがジオルドさんと同じように私を否定するようになってしまうだろうか? もう、私を受け入れてくれるひとには、出会えないのだろうか。


それは嫌だと心が囁く。ならば、どうすればいいのか。……きっともっと頑張らなければいけない。人間であっても、認めてもらえるように。信用してもらえるように。

――だって、いまだ世界の広さすら知らないこの異世界で、これからずっと一人きりなら、一体どうやって生きていけばいいのだろうか?


深く細い溜息をつく。暖炉の火は赤々と燃え上がっているのに、すうっと体の熱が抜けていく感覚に自分の体をぎゅっと抱いた。


頑張らないと。小さく、呟く。身寄りも同じ種族もいない極寒の地で、一人になるのは想像の中でも耐えられなかった。――ひしひし押し寄せる孤独感は、日本にいた頃は感じなかったもの。私はこの世界に来て、孤独というものをよく知るようになった。


ぱちり。薪の爆ぜる音だけが、空間にひどく響いていた。

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