帰れない、夏

上田 直巳


どうしてここまで来てしまったのだろう。

目の前には、暗いあぜ道が続いている。




いつものように、残業を終えて会社を出た。

どれに乗っても乗換駅を通るから、行先なんて見ていなかった。急行でも各停でも構わない。どうせ急ぐ必要もないのだ。


八年付き合った彼女と別れた。

やっと終わったと思った。

いつからだろう。彩加さいかとの関係は、ルーティーンワークのようになっていた。


たまの週末、どちらかの家に泊まりに行って、次の日は彩加が行きたいと言った場所へ行く。

そして些細なことで喧嘩になって。

休み前よりもずっと疲れて、それぞれの平日に戻っていく。


こんな繰り返しに意味はあるのか。何度も自問した。

別れるよりはマシだろ、とりあえず自分を納得させた。

そのうち考えることも止めてしまった。


なんだか疲れた。

それでも足を前へ出す。ここに居たって始まらない。


昇進をちらつかされては、仕事の手を抜くこともできない。

それも今年こそと言われ続けて、もう三年目になるだろうか。


「上にも、いろいろと事情があるんだよ。いや僕は推しているんだけどね、キミのこと」


察してくれよ、と上司に肩を叩かれた。

「次でダメなら、もうこの会社辞めます」

今回こそ言うはずだった言葉を、今度もまた、飲み込んだ。




さびれたプラットフォームに俺を残して、電車はどこかへ走り去った。

たった三駅先の乗換駅を、どうやら寝過ごしてしまったらしい。


気がつけば、見知らぬ風景の中で揺られていた。

降りなければ、と思った。

でもどこで降りればいいのか、わからなかった。


『夏祭り』


無人の改札を抜けると、色せたのぼりが出ていた。

反対行きの電車まではだいぶ時間がある。


駅の前は一本道。

とりあえず進んでみることにした。




どうしてここまで来てしまったのだろう。

単調な細道をただ歩きながら俺は思った。

このまま進んで何になる。

どこへ向かうというのだろうか。


けれど電車まではまだ時間がある。

引き返しても、駅の周りには何もない。


脱いだ上着と、カバンが重い。


こんな田舎まで来ると、夜になると涼しいものだな。

そう思っていたけれど、歩いているうちに暑くなった。

俺は額の汗を拭った。


「うわぁ、星だ……」

当たり前のようなことをわざわざ口にしてしまったのは、それだけ長いこと星を見ていないせいだろう。


見上げた先には、濃紺に白く星がちりばめられていた。キラキラ輝く遠い星々。

いつか彩加と一緒に、星を見に行ったか。

自分が見たいと言い出したのに、寒いと言って怒り出した。


目が慣れてくるほどに、小さな星々が現れる。

いや、星が増えているんじゃない。

最初からそこにあったのに、俺には見えていなかったんだ。



「おぉーい、早くしないと、置いてくぞぅー」

「待ってよぅー」


子供たちが、走って通り過ぎて行く。

みんな、どこへ行くのだろう。


さわさわと風がすり抜ける。

俺を残して、田んぼの向こうに消え去った。


小さな女の子が母親に手を引かれて行く。

慣れない浴衣がぎこちない。

白地に、赤い大きな牡丹ぼたんの柄。

あの子も、こんな色のを着ていたっけ。


半幅帯はんはばおびはキライなの。こっちのほうが、かわいいでしょ」

クルリと回って笑ってみせた。


薄明りに透かされた幟が、くたびれて傾いでいる。風に押されてまた戻る。

人が現れては、みんな吸い込まれるように消えて行く。


『夏祭り』


別に懐かしくもない響き。ただの季語。

時間を気にしながら俺は石の鳥居をくぐった。

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