夏祭り

 町内の夏祭り。


 お陰様で昼の部に出店した我らがベーカリーのブースは無事完売となり、私はちょうど折りたたみ終わったテントの、昔ながらの超重量の鉄骨の束の上で一人休憩していた。


 妻と娘は夜の部の盆踊りに備えて浴衣ゆかたに着替えるため、一旦家に戻っている。汗を拭いながら一人ぼんやりと過ごしていると、何やら視線を感じた。振り返ると一人の女性がこちらをじっと見つめている。


 町内の人ならほぼ顔見知りである。このあたりの人ではないのは間違いないだろう、たが妙に見覚えのある顔であった。


 思い出した。先程私達のブースで菓子パンを買った人である。すぐに思い出せなかったのは、パンを直接手渡ししたのが私ではなく、私の娘だったからだ。パンを買ってもらったお礼も兼ねて、立ち上がり声をかけようとした私は、ぎょっとして思わず身体を硬直させた。


 それは前妻であった。ただのお客と勘違いしたのは、私の思い出の中の彼女とあまりにもかけ離れた容姿だったためである。短く切った髪は白髪が目立ち、かつて自信に満ちてピンと伸ばしていた背筋はむしろ猫背気味で、全体的に随分としぼんでしまったようだった。10年は決して短い年月とは言えないが、それでもここまで人は変わってしまうものなのだろうか。


「ひさしぶり」


 彼女はか細い声で言った。


「どうしてここが?」


 私は挨拶を返すのも忘れて、彼女に尋ねた。


「昔旅行に行った時、この町に住みたいって言っていたのを思い出したの。ひょっとしたらいるかもしれないと思って。まさか本当に会えるとは思わなかったけど」


 そう淡々と話す彼女を見るに、あの時の蝋人形のような無表情が記憶に蘇った。よく見れば確かに前妻である。ほっそりとした身体も、端正な顔立ちも、それほど変わりない。彼女の容姿が変貌したと感じたのは、そうだ……私はここ数年、彼女の顔を思い出すことすらなくなっていたのだった。


「その節は、すいませんでした」


 思わず私の口をついたのは、謝罪の言葉だった。


 10年前のあの時、喫茶店を飛び出した私は、前妻に一度も会うことなく彼女と別れた。夫婦としてするべきはずだった話し合い等の諸々を、全てなげうって姿を消したのである。そのことが私をさいなむとまではなくとも、ずっと心の奥のどこかに引っかかっていたのであった。


「どうしてあなたが謝るの」


 前妻が苦笑いした。


「いや、あの時、もっと色々できたんじゃないかって思ってさ」

「あらそう」


 とだけ前妻は呟いた。二人とも分かっている。どうにもできなかったのだ。妻は間男に溺れ切っていたし、あの時私が泣き叫んで当時の彼女にすがり付いたところで、さらに幻滅されただけだろう。何かできたのではないかとうそぶきながら10年の月日が流れ、すでに新たな幸せを掴んでいる私は、もはや答えを模索していたことすら忘れていた。


「じゃあ、謝るついでに私と少しお話しない?」


 それでも彼女は、私との不毛な言葉遊びを続行したいようだった。

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