第4話幼い嫉妬

「青葉……一体どうしたというのだ? 仕事がもう終わっているとは」


 帳簿を差し出された勘定方の吉瀬鍬之介は、驚いたように目の前の蝶次郎を見つめる。

 周りの同僚たちもざわついている。怠け者の青葉が真面目になっているとは……

 蝶次郎は何でもないように「確認願います」と言う。


「また今日はちと急ぎの用がございまして。早退させていただきたく」

「あ、ああ。間違いがなければ良いだろう……」


 呆気に取られている鍬之介を余所に、蝶次郎は涼しい顔で「失礼します」と自身の仕事場に戻った。時刻は昼が過ぎた辺りであった。

 もちろん、蝶次郎の『急ぎの用』とは瀬美のことである。昨夜は酔っていたため、そして朝は寝起きだったため、あまり込み入った話ができなかった。


 もしも彼女が下手なことをして、人間ではないと分かってしまったら、事情の知らぬ者から物の怪扱いされるかもしれなかった。その点を彼女が理解しているか分からなかった。だからこそ、今日は急いで帰って話し合う必要があったのだ。


 元々、蝶次郎は賢い人間である。やる気が無いだけでやろうと思えば仕事などすぐに片付く。数字に強く読み書きも人並み以上にできる彼にしてみれば、怠け者と思われて宛がわれた簡単な勤めは短い時間で終わるのだった。


「確認できたぞ。今日はもう帰っていい」

「ありがとうございます」


 足早に城を後にする蝶次郎。

 まだ仕事の残っている同僚たちは口々に不思議なこともあるものだと噂した。



◆◇◆◇



「何よ! あの人! いつから蝶次郎さんに!」


 その日の午前。町医者の娘のたまは酷く機嫌が悪かった。

 朝早く起きて、おそらく二日酔いであろう蝶次郎の介抱をしようと家の前にやってきたと思ったら、見知らぬ美人が彼と一緒に出てきたのがその原因だった。


「たま姉さん。ただの知り合いかもしれないよ。そんなに怒らなくても」

「とん坊! 絶対あの人、知り合いなんかじゃないわ!」


 怒り心頭のたまの話を聞いているのは、たまより頭一つ小さい男の子のとん坊だった。実際はとん平という名前で町人の息子だったが、周りからばとん坊と呼ばれている。彼もたまより二つばかり年下なので、たま姉さんと呼んでいる。


「じゃあ知り合いじゃなかったらなんだって言うのさ」

「それは……その、いかがわしい人かもしれないじゃない!」

「分かってないのにそういうこと言わないほうがいいよ」


 とん坊の冷静な正論にたまは感情的に「うるさいわね!」と怒鳴った。

 二人が今いるところは町に流れる川にかかっている大きな橋だった。燭中橋しょくちゅうばしという、老朽化の激しい橋で、町人たちはいつ掛け直すのか気になっていた。

 たまは足元の石を蹴り飛ばした。どぼんと川に波紋が広がる。


「あんたはどっちの味方なの!?」

「その人を知らないのに、どっちの味方もできないよ」

「うー! 薄情ね!」

「そんなに気になるのなら、直接その人に聞けばいい」


 幼いながらもとん坊は沈着冷静に憤っているたまを諭す。

 はっきり言ってこのまま愚痴を聞かされるのはうんざりだと思っていた。

 しかしたまは「そんなの聞けないわよ」と小声になってしまった。


「どうして? その人のことを知りたいんでしょ?」

「そう、だけど……でも、その……」

「あ、分かった。蝶次郎さんとの関係が分かるのが怖いんだ。恋人とか許嫁だったらと思うと嫌なんだ」


 ずばり言い当てられてしまったたまは顔を真っ赤にして「そんなんじゃない!」と喚いた。

 すかさずとん坊が「じゃあ聞いてきなよ」と言う。


「違うんだったら聞けるでしょ?」

「……うう。ね、ねえ、とん坊。お願いがあるんだけど」

「おら、みたらし団子が食べたいなあ」


 とん坊はにやにやしながら、橋の向こうの茶屋を指差す。

 たまは「二本は駄目よ」と釘を刺した。


「うん。三本食べたいなあ」

「この! 調子に乗って!」

「嫌なら良いんだよぉ」

「……もう! 分かったわよ!」


 結局、とん坊は三本の団子で瀬美のことを聞くことになった。

 団子を食べ終えた後、玄関で掃き掃除をしている瀬美を二人は物陰から見た。


「あれが女の人かあ。美人さんだね。蝶次郎さんもやるなあ」

「そんなのどうでもいいでしょ! 早く聞いてきてよ!」


 たまに背中を押されて、とん坊が物陰から出る。

 仕方ないなあと思いつつ、とん坊は瀬美に近付いて話しかけた。


「こんにちは、お姉さん」

「こんにちは。あなたはどちら様ですか?」


 近くで見ると、瀬美はとても綺麗な顔立ちだったので、とん坊はどきまぎしつつ「おら、とん平って言うんだ」と答えた。


「みんなからとん坊って言われているよ。お姉さんの名前は?」

「私は瀬美といいます」

「せみ……良い名前だね」

「ご用件は何でしょうか?」


 機械的に応答する瀬美にお世辞は通じないのかなと思ったとん坊は「蝶次郎さんはどこにいるの?」とまずは様子を窺った。


「蝶次郎様は今、城にてお勤めをしております」

「そうなんだ。お姉さんは蝶次郎さんのお手伝いさん?」

「ノー。私は蝶次郎様の従姉妹です」


 とん坊は不思議な言葉を使う人だな、どこかの藩からやってきたのかなと思いつつ「蝶次郎さんに親戚がいたとは思わなかったよ」と言う。


「前に天涯孤独だって聞いたけど」

「私は遠縁ですから」

「でも従姉妹なんでしょう?」

「失礼ですが、あなたと蝶次郎様の関係はなんですか?」


 子供相手に丁寧な物言いだなととん坊は訝しげに思う。

 しかし面に出さずに「蝶次郎さんとは知り合いなんだ」と答えた。


「知ってのとおり、蝶次郎さんは優しい人で、暇なとき遊んでくれて――」

「それはそちらに隠れている人も一緒ですか?」


 脈拍が一気に跳ね上がるのを感じたとん坊。

 距離があって見えないはずなのに、どうして分かったのだろうか?


 とん坊は分からないだろうが、瀬美には感応センサーが搭載されている。特に子守りのために子供がどこにいるのか分かるようになっていた。


「……ねえ。あなた、蝶次郎さんの何なの?」


 物陰から様子を窺っていたたまが出てきて、瀬美ととん坊に近付く。

 瀬美は「私は蝶次郎様の従姉妹です」と機械的に答えた。


「へえ。どっちのほうの従姉妹なの? 蝶次郎さんのお父さんのほう? それともお母さんのほう?」

「父方の従姉妹です」

「……蝶次郎さんのお父さんには兄弟姉妹がいないわ」


 以前、何かの折に聞いていたので、たまは覚えていた。

 瀬美はしばらく沈黙して応答しなかった。


「あなた、蝶次郎さんの何なの?」


 もう一度同じ質問を繰り返すたま。

 身体が震えているのをとん坊は見て分かった。

 怒りではなく、悲しみだとも分かった。


「私は、蝶次郎様にお仕えするために来ました」


 瀬美はこれ以上誤魔化せないと判断し、言える範囲で正直に言った。


「……っ!」


 それを聞いて、たまの目から大粒の涙が流れた。

 くるりと踵を返して、走ってしまう。


「たま姉さん!」


 心配したとん坊が追いかける。

 瀬美はしばらくその場を動くことができなかった。

 どうしてたまが泣いていたのか、まるで理解できなかったこともあるが、自分のせいで子供を悲しませてしまったことが、彼女の回路に不具合を生じさせたからだ。



◆◇◆◇



「待って! たま姉さん!」


 とん坊がたまを追いかけて、ようやく追いついたのは、燭中橋の真ん中だった。

 たまは泣きながらしゃがんでいる。


「……しょうがないよ。蝶次郎さん、いい歳なんだからさ」


 とん坊はたまが蝶次郎さんを慕っているのを知っていた。

 叶わない恋だとも分かっていた。

 たまは子供で蝶次郎は大人。しかも町医者の娘と武士だ。


「もっと早く、産まれたかった……」

「うん。そうだね。それは残念だね」

 

 たまの近くに寄って、橋の手すりに背中を預けたとん坊――めしめしと音が鳴って、次の瞬間、ばきっと手すりが折れた。


「う、わああああ!?」


 とん坊の悲鳴にたまははっとして顔を上げた。

 そして無意識にとん坊の手を取った。そして自分のほうへ引っ張ろうとして――くるりと回転する。原因はとん坊がじたばたしたせいだけど、それは流石に責められないだろう。


 回転することでとん坊とたまの位置が逆転する。

 遠心力のせいで、たまは掴んだ手を離してしまった。


 全てが遅くなるのをとん坊は感じた。

 目の前でたまがゆっくりと川に落ちていく。それが一分くらいに思えた。

 そして水しぶきと音を立てて、たまは川の中に飛び込んでしまった――

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