プロローグ (2)

 若者は、はにかんで、うなずく。


 淡雪はすでに止んだ。

 浅葱あさぎの背中へ、店主はそっと、最後の一言をかける。


「後ろへ投げるんだよ」


 背が、ひたりと止まる。


「投げるときは左の肩越しに、後ろへお投げ。いま私の声が聞こえる方角だ。覚えておおき。

 ふりかえるんじゃないよ。

 いいかい、かならず、そのと二人でまたおいで。馬鹿を考えちゃいけない。死んで花実が咲くものか、ってね」


 ふりかえるんじゃないと言うに、と笑うあるじの前へ、若者は深々と、深々と頭を下げる。

 金色に濡れる目が、かならず、と言っている。

 と見るまに、

 去る。


 あとには薄雪と、月。どちらも白い。


「やれやれ」

 あるじは微笑み、こうがいをとり出して、ちょいちょいと髪を掻いた。

 ああ、江戸の花魁なんかの鼈甲や蒔絵の大笄を想像しちゃいけない。もっと昔の話だもの、刀の切羽せっぱのところにはさんである小っこいみたいなやつだ。男が使う。


 走ったものか、飛んだものか、さして息も切らせず若者は帰ってきた。

 どこへ?

 そうさな、とある池のほとりにしようか。ぱらりと葦でも茂らせておこう。


 濃淡はだらの雪に膝をつき、女を呼ぶ。

「アリエル」


 つっ、と水面みなもに脈が走る。

 浮きあがってきて、つぷりと顔を出したのは――


 どちらにしよう。女か、魚か。

 まあ、どちらでもいい。

 とにかく、白い。


 さし出された櫛を嬉しげにくわえ、つぷりともぐる。

 音もなく水の輪ばかりがひろがって、


 男の姿もすでにない。


 どうしよう。書こうとしていたのと、ぜんぜん違う話がすべり出した。


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