第6話 ひもかがみ 6

―――おおい、おおい

 

 

 

 

 凍てつく空気に声がひび割れる。その響きは、酷く哀しく空に霧散した。

 

 

 

 

―――返してくれぇ

 

 

 

 

 お願いだから、どうか、どうか。

 

 

 

 春覚は、ゆっくりと双眸を閉じた。

 さすがの彼女にも、全てがわかった。

 

 鏡の向こうの、人の子の言葉。

 

 そのたった一言で、全てが理解できた。

 

 

 ため息をつくように、息を吐いた。彼女のそれは、白くは染まらなかった。

 

 

 

「返してやったらどうだ」

 

 

 

 瞼を持ち上げながら、呟いた。お前には必要の無いものだと続けた。

 

 

 

「返してやったら、どうだ」

 

 

 

 返してくれと、あんなにも声を張り上げている、あの人の子に。

 

 

 

「返してやれ」

 

 

 

 宥めるように、低く沈む音は、闇夜に溶けて消えた。けれども、はっきりと山犬の横顔に響いていた。

 

 

 

 惑うように、彼は鏡から視線を外さなかった。鏡の向こう側で雪を掻く少年を、じっと朱の目で見つめていた。

 

 

 返してくれと叫ぶ声がする。

 

 

 それがあまりにも哀しくて切ないものだったので、思わず冬雷は息を飲んだ。

 泣きたくなって、息を、飲んだ。

 

 

 

 あれは上の子だと、呟いた。

 

 

 

「赤子の、兄だ」

 

 

 

 冬雷は知っていた。鏡の向こう側で息を白くし、赤子を呼ぶ少年が誰か。

 

 

 冬雷は知っていた。彼が下に五人の弟妹を抱えた長兄で、自分が腕に抱いた赤子が末の子だと言うことを。

 

 

 冬雷は知っていた。貧しい中で、己が食うのに困っても、笑って弟妹の腹を満たしてやれる、あの少年を。

 

 

 冬雷は、知っていたのだ。

 

 

 

「これを、山に置き去りにしたのは、あれの親だ」

 

 

 

 誰に言うでもなく、山犬の面が呟いた。

 

 

 

 今年は例年よりも秋の実りが少なかった。人は皆、十分な蓄えをすることができぬまま、秋の司に去られ、冬の司を迎え入れた。

 雪が降り、水は凍り、生き物は眠りについた。

 眠らぬ人は、秋の蓄えのみで、細々と冬を生き始めた。

 

 

 

「最初に死んだのは、三の子だった」

 

 

 

 まだ薄氷しか張っていない湖で、魚がいないかと深く覗き込んだ拍子に水に落ちた。水は酷く冷たくて、あっという間に子の温かさを奪い去った。

 

 

 

「次に死んだのは、赤子の双子の片割れだった」

 

 

 

 寒さにやられ、風邪をひいた幼い子。病魔に抵抗する術を持たず、三日目の朝、死の影に攫われてしまった。

 けれど病魔は、一人だけでは飽き足らず、次いで少年のすぐ下の妹も連れて行ってしまった。

 

 

 

「一人死んで、二人死んで、三人死んで……。子が減る度に、食べるものの分け前が増えた」

 

 

 

 五人いた弟妹は二人に減っていた。

 少年の家族は、五人になっていた。

 囲炉裏端を囲む数が減る毎に、一日一度のさもしい食事の分け前が、俄かに増えていた。

 

 

 

 冬雷は言葉を切り、小さなため息をついた。

 春覚は何も言わない。黙ったまま、そっと瞼を伏せ空を仰いだ。だから嫌なのだと、唇を動かさず、呟いた。

 

 

 

「お前の言う通り、我らは、永久だ」

 

 

 

 命の限りは無い。延々と四季の廻りに順ずるだけ。そうしてたた、役目を果たすだけ。生き物のように、限られた時の中に無い。

 

 

 

 だから。

 

 

 

「だから、俺には、これの親が正しきか悪しきかなど、わかりようがないのだ」

 

 

 

 子が、死んだ。

 その度増える、自分の食事。

 一体、どんな気持ちだったのだろうかと考え、すぐに思考を打ち切った。

 そんなもの、冬雷にも春覚にも、決してわかりようのないことだ。

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