第2話 ひもかがみ 2

「鏡を渡せ」

 

 

 

 証の鏡を。

 季節を司るものが、季節を巡らせる証として携える鏡、を。

 

 

 

「もう、とうに春を迎える時期だ。だのに、お前はいつまでたっても、季節の代わりを告げる鏡を、おれに渡しに来ない。このままでは延々と冬のままだ。だからわざわざおれが出向いてきたのだ」

 

 

 

 さぁ、鏡をおれに渡せ、と手を伸ばした。

 

 

 山犬の表情は変わらず、つり気味の女の双眸をただ見つめていた。黙ったまま、何も言おうとしない。山林の間を駆け巡って小さくなった風の音が、遠くに聞こえた。

 

 

 双方、黙ったままの睨み合いが続いた。

 

 

 深々とした闇が地に落ちた雪に重なり、降り積もっていた。上機嫌に丸まっていた月は、張り詰めた様子の司たちに遠慮するように、薄く流れる黒雲へと姿を隠す。朧に霞んだ夜の中で、春覚がうんざりとした表情で首を振った。

 

 

 全く。

 

 

 

「何て頑迷なことだろう。理由も告げず、ただ黙ったままなんて」

 

 

 

 真っ直ぐな皮肉に、冬雷は顔を背けた。微かに陰りを帯びた横顔は、酷く哀しそうに見える。

 

 ああ、言い過ぎただろうかと、女は眉を顰めた。

 

 自分よりも小さな姿を模る冬の司とは、毎年、季節を受け渡す一度しか顔を合わせることがない。そのため、もう随分と長い付き合いになるにも関わらず、多くの言葉を交わす相手ではなかった。

 

 

 

 (ああ、本当に)

 

 

 

 心の内で、大きな大きなため息を、深く深くついた。

 

 

 冬雷とは、この世に春と冬が巡るようになってからの付き合いになる。元々、そう明るい性格の司ではなかった。けれど、毎年巡り、会う度に、彼の面に陰りが色濃くなっているように思えた。

 その陰は酷く危ういもののように見えた。

 

 

 すっと足元に視線を落とした。白い雪が地を覆い隠してしまっていた。月も朧に隠れた今、他の色は闇しか見つけられなかった。しくん、と春覚の胸が痛んだ。

 

 

 

 どんな季節だろうが、昼が巡り、夜が来る。それが世界の摂理だ。春覚の司る春とて、暗い闇はあるのだ。

 

 

 

 けれど。

 

 

 

 (何故、今夜は、こんなにも冷たいのだろう)

 

 

 

 雪で凍えた空気のせいではない。

 雲に隠れた月のせいではない。白と黒しか見つけられないこの夜は、何の暖かさも感じられなかった。

 まるで世界の全てが眼を閉じて、眠ってしまっているかのようだった。

 全てが目覚める春とは違う。

 

 今は、全てが眠ってしまっている、冬。

 

 

 天を仰ぎ見た。

 そのまま視線を冬雷に流す。

 

 彼はそっぽを向いたまま、腕を組んだまま。

 

 

 

 余所余所しいこの空気の中、ずっと冬雷は、独りきりで在るのか。

 

 

 

 想い、ぶるりと女は肩を震わせた。

 それは彼女を酷く哀しい気持ちにさせた。

 また胸がしくんと鳴る。軽く、唇を噛んだ。

 

 

 全てが眠り、沈黙する冬。

 

 

 

 (ああ、考えてみれば、何と心細いことだろう)

 

 

 

 あんなことを言うんじゃなかった、と後悔した。

 

 

 好きで眠りこけているわけではない。

 

 そう言った彼の言葉が、今は重く春覚の心に圧し掛かってきた。

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