第12話 指揮系統チート
四月中旬に入った頃、重坂達の時間外労働時間は既に四十五時間に達していた。
平日に遅くまで残業していただけではなく、休日出勤もあったからだ。
午後六時過ぎた頃、重坂はパソコンの電源を落とし、デスクの上を片付け、鞄を手に持って立ち上がる。
重坂だけではなく、隣の川鳩をはじめとした他のT社社員も同様だ。
彼らは石窓の席に向かって歩き出した。
「お先に失礼します」
重坂が石窓に声を掛け、会釈すると、石窓もまた会釈した。
その時――
「待て! お前ら!」
オフィス内に大きな声が響き渡った。T社社員全員が声のした方に振り向く。
声の主は、鞭岡である。
「お前ら、仕事は終わったのか?」
「その事なんですけれど、これ以上残業したら四十五時間を超えてしまいます。36協定上、流石にそれはまずいので……」
重坂は弱々しい声で鞭岡の質問に答えた。
「そんな事は聞いてない! 仕事は終わったのか、と聞いている」
「……終わっていません。これ以上残業できないので、今日中は無理です」
「何だと! ふざけるな! 終わってないくせに、なぜ帰ろうとする!」
「36協定に従って残業できる時間が、これ以上無いからです」
鞭岡は席から立ち上がり、石窓の席に向かった。
「石窓、どういう事だ!?」
鞭岡が石窓に詰め寄る。
「鞭岡さん、我々が請負であるという事はご存知ですよね」
「それはわかっている」
「我々に直接指示していいんですか? 我々の仕事は、業務を承ってそれを完遂して、お客様に収める事です。お客様から指揮されてするものではありません。それをやったら偽装請負になります」
「奴らに口出しするなという事か? 今はそんな事気にしてる場合じゃねえ! お前もわかってるだろ! 今の状況」
「はい」
「石窓、お前、請負と言ったよな? 業務を完遂して収めると言ったよな?」
「はい」
「ならば、そうすべきなんじゃねえの? 今、あいつらを帰したら、終わりそうにねえだろ? 違うか?」
「……」
鞭岡からの問いに石窓は沈黙してしまった。
「何とか言えよ!」
「おっしゃる通りです」
「聞いたか、お前ら!」
「……はい」
重坂をはじめとしたT社の社員達は、同時にしょげ返ったような返事をした。
「だったら、席に戻って業務を再開しろ」
鞭岡が命令した。
重坂が「その前に、石窓さんとお話させてください」と頼むと、鞭岡は「いいだろう。さっさと済ませろよ」と答えた。
重坂達が石窓のそばに集まる。
「石窓さん」
「はい」
「我々の残業時間ですけど……」
「わかっている。これから鍋見に問い合わせてみる」
石窓は受話器を取り、N社にいる鍋見に電話する。
「すみません、石窓ですけど、鍋見さんでしょうか。重坂達の残業の件ですけど……」
N社の方でも既に定時を過ぎているが、まだ鍋見は席にいるようだ。
「はい、わかりました。では、失礼します」
石窓は電話を切った。
「とりあえず今は、お客さんの言う通りにしておけ、との事だ」
「わかりました」
重坂が返事をすると、彼らは自分達の席に戻り、仕事を再開した。
「鞭岡さんが俺達に直接こういう事言うのって、以前はありませんでしたよね」
川鳩が作業をしながら重坂に話し掛けた。
「確かにそうだな」
新人紹介があった日、鞭岡と引戸は社長室に呼ばれていた。
「ところで君達、菊軽君から話は聞いているかね」
「何の事でしょうか?」
鞭岡と引戸が同時に口を開いた。
「その様子だと聞かされていないようだな。菊軽君らしいといえば菊軽君らしい」
「……」
鞭岡と引戸は黙って社長の話を聞いている。
「これからのプロジェクトは大変な事になる。そこでだ、エヌデストウルのスタッフに直接指示を出しても構わん。もし、仕事が残っているのに帰ろうとするのなら引き留めろ。あいつらの中には外から派遣されている奴もいるかもしれないが、そんな事一切気にするな」
新人が来た時に川鳩がした自己紹介により、N社のスタッフとして常駐している者の中に外部からの派遣がいる事は、当時オフィスにいた人間の誰もが知っている。
だが、社長は、そのような事は想定済みのようである。
今や会社の中に多くの派遣や請負がいる事は、珍しくない。
D社に常駐スタッフを送り込んでいるN社もまた、れっきとした会社であり、送られる常駐スタッフ達は、N社の従業員――N社の正社員とは言っていない――である。
それならば、常駐しているスタッフの中に派遣がいてもおかしくはない。
引戸が「社長、それは違法なのでは?」と聞くと、社長は「大手でもやっている事だ。そんな考えだと他社に太刀打ちできんぞ」と答えた。
「――というわけで、君達頼むぞ」
鞭岡は「はい」と答えたが、引戸は黙ったままだった。
「引戸君、こういう時は『はい』だろ?」
「……はい」
社長と鞭岡、引戸の間で、こういうやり取りがあったのだ。
結局、重坂達は終電ギリギリまで働いた。
菊軽は速足で階段を駆け上り、廊下を歩く。
彼は社長室の前に辿り着くと、そこで立ち止まり、深呼吸して気を落ち着けてから扉をノックする。
コンコン!
「誰だね」
「菊軽です」
「入りたまえ」
「失礼します」
菊軽は扉を開けて中に入った。
ワインレッドの絨毯が敷かれ、中央付近にテーブルとソファーが配置された社長室。
窓側に上質な木製の机がある。社長のデスクである。
「社長、今回のプロジェクトについてですが、納期を延ばした方がよろしいのではないでしょうか」
菊軽の口調は重々しい。
「納期を延ばしたい? なぜだ」
「社員達の残業時間は既に五十時間に達しています。常駐の方々も同じです。このままだと、最悪の場合、過労死等の問題が発生する恐れがあります」
「わかっておる。だが、納期を延ばしたら、赤字になりかねない。それで開発中止となったら、最悪のパターンだぞ」
「……それでは、今すぐ開発中止にするわけにはいきませんか? 今からでも遅くはありません」
「それはできん! 既に著名人達にシナリオやキャラクターデザイン、音楽を発注しているわけだし、今、手のひらを返して中止したら、面目が立たん。それに……」
「それに?」
「大作を連発してくるような大手に一泡吹かせてやりたい。ゲーム業界にディスクリミネーションソフトあり、と言われるようになりたいのだ。この気持ちは格樹も同じだ」
「そんな事のために、法に触れるのですか」
「いいかね、菊軽君。大手経営者達の中には『三百六十五日二十四時間、死ぬまで働け』とか『業界ナンバーワンになるには違法行為が許される』等と言っている輩が、ごまんといるんだぞ。生ぬるい事を言っていたら、太刀打ちなんてできたもんじゃない」
『三百六十五日――』という発言は、全国に居酒屋等を展開する某実業家のものであり、『業界ナンバーワンに――』という発言は、かつて存在した業務請負大手オーナーのものである。
前者は常軌を逸した長時間労働等で、後者は常態化した偽装請負等で悪名高い。どちらも過労や事故等で死者を出している。
「しかし……」
「十一月下旬まで耐えろ。そうすれば、クリスマスイブに新作が発売されて、我が社の知名度が上がる」
予定では十一月下旬までに製品の開発を完了させ、クリスマスイブまでに製品が出回る事になっている。
「そう上手くいくのでしょうか? 働かせすぎますと、疲労から作業ミスが発生します。時には休ませる事も大事です」
「菊軽君」
「はい」
「これ以上、口答えすると、従業員全員の前で君の性癖をばらすぞ」
「!!」
菊軽の顔が真っ青になった。その驚きようは、漫画ならば暗転した背後にほとばしる稲妻が描かれるようだった。
「社長……それは、ご勘弁ください」
「ならば、今すぐ持ち場に戻れ」
「はい」
菊軽は、すごすごと社長室から出ていき、企画開発部のオフィスに戻った。
五月の連休が終わると、オフィス内の人間が一気に増え、企画開発部オフィス内の座席は満席となった。
増えたと言っても、D社の正社員や契約社員が増えたわけではない。
D社に直接派遣される人間が増えたというわけでもない。
表向きN社のスタッフとしてD社に常駐する人間が増えたのだ。
現在、プロジェクトにかかわっているスタッフは、シナリオライター等の著名人を除くと四十名弱。前回よりも多いが、まだまだ足りないので、今後も増やす予定である。
増えたスタッフ達は、彼らなりに連休を堪能してからD社に来た。
しかし、先月から携わっているスタッフ達は、連休返上で業務をこなしていた。
それは、正社員、契約社員、常駐の請負、常駐の請負に派遣されている者、全てが同様だった。
――何かおかしい。
先月、重坂は連日のように深夜残業が続き、休日出勤までさせられている事を、T社の
河骨はT社の営業部部長兼システム部部長で、重坂達の上司。すなわち、管理者である。
しかし、河骨からの返事は「そのままプロジェクト終了まで、頑張ってください」というものだった。
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