第6話 ピアノのフジサキ(後編)

「デードゥアか?」

「え?」

「あー……Dメジャー、か? 調」


 くす、と息を漏らすアオ。「そうよ」と答えながら、ストラップを肩にかけた。指先で軽くボディを叩く。そのテンポに合わせて、フジサキが鍵盤に指を滑らせた。ピックを手に取ったアオは、すぐに主旋律を重ねる。


(さすがに巧いわね……)


 先の流れを読んでいるのか、フジサキのピアノは、動き続けるアオの旋律にぴったりとはまっていた。自然で、無駄のない伴奏に、感心する。


 ちらとフジサキに目を遣ると、彼は目を閉じていた。能力によって、何かを見ているのかもしれない。それなら、とびっきりの空を見せてやろう。アオはそう思った。


 トウカの言葉を思い浮かべれば、ふつふつと湧くように音の粒を感じる。指先が紡ぐのは、ついうたいたくなってしまうような、温かな旋律。


「――っ!」


 フジサキがくわっと目を見開いたのを確認して、アオは得意げに笑う。良い空でしょう? と。しかしそれは、ほんの一瞬のことだった。


(何、この人……!)


 その音は、先程までの、型にはまったピアノとは一線を画していた。あまりにも奇想天外で、アオの予想する外側からやってくる。ほんの少しでも間違えれば、不協和音になりそうな……。


(いや、違う)


 不規則に感じられた音の配置は、確かに不規則だったが、それはごく繊細な規則性によって組み立てられている。


 ……フジサキは、理論の中で遊んでいるのだ。だからきっと、間違えない。


 そのことに気づいた途端、アオの音は更に広がった。空はもっと高く、もっと深い青になる。


(まったく! どういう思考でいたら、こんな音選びができるのよっ!?)


 それでも、アオがギターを爪弾く手を止めることはない。それどころか、より良い旋律を求めて、ひたすらに指板の上を滑る。


 ――ドドッタタッタ、ドドッ、タ、パドッタタッツタ……。


 互いに誘い合うようなピアノとギターの音の中に、突如、リズムが加わった。はっとして振り向くと、様々な打楽器が置かれている、パーカッションコーナーに座っている岸。手のひらや指先を使い、器用に盃型の太鼓を叩いている。


 雨上がりの陽射しのような、水が乾くような、そんな匂いを感じた気がした。


(こっちはほんとうに自由ね……)


 岸は民族音楽にハマっていると言っていた。これもその一つなのだろうか。妙なリズムだ。それに合わせて、フジサキのピアノがまた変化する。楽しそうな彼らにつられて、アオの身体も動き出した。


 手の指を雲が通り抜けて、ふわっと弾ける。それは新しい旋律となって、アオにささやいた。もっと、上へ! うたえ、うたえ……!


 アオは笑った。

 うたっていないのに、うたっているような気分だったのだ。


(うたえないけれど、私、ここでならうたえるんだわ……!)


 トウカの言葉と、彼らの音楽があれば。

 二年間近くも溜めていた歌に対する思い。それを吐き出すかのように、アオはギターを鳴らす。




 横でアコースティックギターを爪弾く女の子に、正直、フジサキは驚いていた。

 〈受動型〉の能力は、本人の意思などおかまいなく発動する。芸術全般が好きなフジサキにとっても、音を聞いただけで色や映像が見えるというのは、煩わしく感じることだってあるのだ。しかし。


(……美しい旋律だ)


 ここまではっきりと、そして美しい景色を見たのは初めてだった。自ら「共感覚の延長だ」と考えるだけあって、色しか見えないことも多い。それなのに、アオが奏でる旋律は、次々と様相を変える空を作り出している。そのどれもが、フジサキの感覚を刺激した。


 基本的にはクラシック畑にいるフジサキだが、音楽の新しい可能性には常に興味を持っている。それは、この大学で哲学を専攻し、美学を学んでいることにも繋がっていた。

 だからこそ、彼女の凄さを強く実感する。


 真面目な伴奏から一転、枠に囚われず、それでいて複雑な音を奏でる。空が変わる。いつの間にか来ていた岸のリズムに合わせて、こちらの音も増やす。また空が変わる。


 フジサキには、アオがこれについて来られるだろうという確信があった。だから、迷わない。


 予想通り、いや、予想以上の豊かな旋律に、気がつけば口の端で小さく笑っていた。今、トウカの言葉が、出会いを期待するあの詩が、本物になったのだ。

 自分の目で見定めてやろうと考えていたことなど、とうに忘れていた。


 音が止む。

 そして、空も消えた。


 そこに残ったのは、新たな出会いを喜ぶ溜め息と、それから、二人分の拍手だった。


「……トウカ」


 扉のすぐ手前、会長は、眼鏡の奥でにやにやと笑っていた。その隣で呆然と突っ立っているトウカに、アオが笑いかける。


「これ、あなたの曲よ。歌ってみて」

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