横浜みなと探偵事務所

笹岡耕太郎

第1話 所長野島耕介と相棒亜里沙の登場

             1 セレブなクライアント


 石川町の北口改札を出て、首都高速狩場線下を左に曲がる。

西の橋交差点をまた左に曲がると、大きなビルに挟まれた五階建ての古びたビルの三階が『横浜みなと探偵事務所』である。

空はすっかり明るさを失っている。野島耕介の足取りも暗く重たそうに見える。

今日も思ったような依頼が入らず、探偵業の難しさをひしと感じ始めていた。たまに入る仕事といえば、浮気調査か身元調査の類なのだ。同業他社も同じようなものだろうと、想像に難くない。

 野島耕介は、仮にも元刑事である。他のぼったくり探偵社とは違い、成功報酬制を看板に上げているのである。成功報酬とは、読んで字のごとくクライアントの満足を頂かなければ、収入にならないという事なのだ。

しかし、最近は背に腹は代えられず相棒亜里沙の助言の通り基本料金を設定して、地味に稼ぐことも必要かと考え始めている。


 野島は、藤木ビルの前に立ち、上を見上げた。所々赤いレンガが剥がれ始めている。安全を確かめながら玄関に入るのが、入居以来習慣化しているのである。

事務所のある三階までは、階段を使うしかない。賃料を考えれば、文句などいえない立場である。重い足取りで、三階まで辿り着く(体力作りにはいいかも知れない)

開けるのに少しコツのいる木の扉を、おそらく女を扱うのと同じ慎重さで引いた。

 

「所長、帰られました?」中から、ホットしたような亜里沙の声が聴こえて来た。

「あぁ、いま帰った!」

亜里沙は、この探偵事務所唯一の社員である。

仕事は特に決められてはいないが、単純な事務員稼業に飽き足らず野島に不満をぶつける時もあった。歳は、履歴書の申告通りであれば三十二である。詳しくは、

野島にも分からない。調査稼業でありながら、ルーズな面もこの事務所の特徴でもある。亜里沙の顔立ちは、特に美人でもないが不美人でもない。野島の言う通りで

あれば、スーツの似合う個性派美人といったところであろうか・・・


「お客様がお待ちですけど~」

野島は、亜里沙の声に反応し明らかに背筋が伸びた様子である。

布地の破れかけたソファーに目をやると、四十がらみの品の良い美女が長い脚を組んで退屈そうに座っていた。着ている服から想像すると、セレブであることは間違いないようである。

「これは、お待たせしてしまって申し訳ありません」野島は、余裕のありそうな笑顔を作りながら言った。亜里沙は、失笑を隠すように下を向いたままである。


 野島は元の職業柄か、相手を足の先から頭のてっぺんまで観察する癖が出てしまう。野島耕介は、三年前まで、加賀町警察署で刑事をしており、一課の巡査部長であった。銃器・薬物犯の取り締まりが主な仕事の組織犯罪対策課の所属であったのだが、新任の刑事課長との折り合いが悪くなり、退職に追い込まれていた。

刑事課経験を積まずに、管理職になるキャリアと事あるごとに捜査方針で対立し、

また、上層部による捜査妨害にあったことが主な理由である。

 結婚経験はあるが、今は独身の四十六歳である。妻と別れた経緯は、ここでは説明しないが、いずれ衝撃的な事実が明かされることになる。

野島が現役時代に、仕事の憂さを晴らすためによく通った店が馬車道にあった。

ホステスとして働いていた亜里沙とは、その店で知り合い彼女目当てに通うことが、野島の生きる力となっていった。亜里沙に、野島と同じ社会の中で喘ぎながらも生きている影を感じ、この女と一緒に生きて行けたならと思うようになったのである。

探偵業を始めるにあたって、亜里沙を誘うことは必然であったのだ。


 警察を辞めて、探偵業を始めたのには理由があった。特別な資格や免許の必要のない事である。始めるにあたって、警察内にある公安委員会に『探偵業開始届』を

提出するだけで済むのである。もちろん、犯罪歴などはチェックされるのだが・・

むしろ、事業を継続していく方がはるかに難しいと言える。結果的に、思い付きで始めた素人の手に負えるものではないのである。

「武道歴」「張り込み」「尾行」「聞き込み」などの技術力が必要とされるのだ。

この点、加賀町警察捜査一課にいた野島にとっては、天職と言えるのかも知れない。

しかし、探偵業にしても営業力が必要であった。刑事であった野島には、営業力は

必要とされず素人同然であったのである。収入的には、開所以来苦戦が続いていた。そこに、降って湧いたような話であった。


「どういった、ご用件でしょうか?」

「実は、主人を捜して欲しいのです。お恥ずかしい話なのですが、主人が家を出た 

 まま帰らないのです。今日で一週間になってしまいました。費用はいくらかかって 

 も構いませんので、どうか捜し出して欲しいのです」

宮部興産社長と名乗る宮部ルリ子の眼差しは、真剣さを秘め訴えていた。

「分かりました。お受けしましょう。まず、料金の方ですが、平均的な三日間の調査料といたしまして三十万、そして成功報酬としてあと十五万円が必要となりますが、いかがでしょうか」野島は、あっさりと基本料金✙報酬制を取り入れることにした。


「構いませんわ。お願いできますかしら?」ルリ子の眼差しは、獲物を捜す野獣のように光った。

「もちろんです。お任せ下さい」野島は、自信ありげに見えを切った。

亜里沙があきれたように野島を見ていたが、気にしている場合ではない。収入があってなんぼの世界である。野島は、有能な営業マンに変身していた。

 セレブ夫人ルリ子は、野島に数枚の写真を渡し、宮部興産の専務である宮部純太郎失踪の顛末を詳しく話すと、「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げ、多少扉にてこずった様子であったが、靴音を響かせながら階段を下りて行った。

夢のような事も起きるものだと思いながらも、残された『デューン』の香りが事実であることを語っていた。

「亜理紗、前祝いと行こうか!」

「所長、それよりまだ今月のお給料もらってませんけど・・・」

浮かれている野島の背中に、冷静な亜里沙の声が自制をかけて来たのであった。



 野島耕介の住まいは藤木ビルの五階にあって、いわば職住最接近の理想的な形であった。野島は、起き抜けの鈍った頭を叩き昨晩の調査依頼を頭の中で再確認した。調査対象は、地元企業(株)宮部興産の専務宮部純太郎だという。依頼主は、社長のルリ子なのだから、いわば逆玉の婿養子なのだろうと、野島は推測した。

顔を洗い終わると、朝食も取らずに三階の事務所に下り調査を開始した。久しぶりの本格的調査である。元刑事の心に火が宿った。しかし、これはあくまで捜査ではなく民間業者による調査なのであった。

 企業年鑑によると、(株)宮部興産は、初代社長宮部繁三郎によって起こされた会社である。戦後の絹織物と緑茶の輸出で隆盛をなし、横浜の名家として名を連ねた時期もあった。しかし、長男正蔵に受け継がれたころから主要な輸出品目の輸出不振が始まり、それに比例するかのように会社も衰退していったのであった。

もはや古い経営感覚では、立ち行かない世の中に代わっていた。正蔵は存命中から、長女ルリ子に会社の未来を託すつもりだと話していた。ルリ子の性格は、男勝りの戦略家であり、また男社会の中での美貌の女の有利なことを知っており、周囲からも大いに期待をされていたのだった。


 再び昨晩のルリ子とのやり取りを思い出してみる。

「ご主人がいなくなられたのは、いつ頃からですか?」

「三日前の晩からだと、思うのですけれど…主人の運転手が街中で降ろしたと言っていましたから…」

「はっきりと、していないと、言われるのですか?」

「その日はたまたま会合がありまして、帰宅が遅くなったのです…」

「夫婦仲は?」「ふつうだと、思いますけれど…」

「夜は、二人で過ごす時間が多かったと、お思いですか?」

「主人は、一人で飲み歩くことが趣味みたいで、滅多には………」

「姿を隠された理由に、思い当たることは?」

「それがないんです。私が聞きたいくらいですわ!」


               2 調査開始


野島は、ルリ子の心配した様子とは裏腹に二人の冷え切った関係を探りあてた。

「宮部さん、明日の朝でいいですから、運転手がよく送って行った店のリストを

 メールで送ってもらえますか? あれば、名刺のほうもお願いします」

「そういう調べ方もあるのですね。分かりましたわ。運転手に聞いてみます」  今度は、従順な態度で応じた。

事件でなければ、男の身を隠す場所は高い確率で、女の処である。



 約束通り、八時前にはPCにメールが送られて来た。

純太郎のよく通う夜の店は、三軒であった。名刺も添付されていた。

伊勢佐木町のクラブ『ルージュ』、元町のスナック『ペペ』、そして、馬車道の

クラブ『エンジェル』である。

まず、この三軒から始めることにした。

野島と亜里沙は、日の落ちた港街に車で向かった。車は、黒くペイントされた  アルファロメオ159である。黒は闇に紛れて追尾がしやすいのだ。

 一件目の『ルージュ』から50m程先に車を止め、亜里沙に待機するように野島は

指示を出した。野島は、客を装って入りベテランホステスを指名した。

現れた女は、四十後半の万年ヘルプが似つかわしい昭和の主婦顔であった。


「チヨコです。このお店初めてなんですってね。よろしくお願いします」と、女は科をつくった。

野島は、源氏名と顔がこれほどピッタリしているホステスがいることにビックリしたが、そんなことはどうでもよかった。小一時間程たわいない話でつなぎ、ホステスとも気心も知れた頃、本題に入った。

「実は僕ね、宮部興産の専務の紹介で来たんだけど、評判通りの良い店だね」

「そうなんですか?」チヨコは、少し不思議そうな顔をする。

「専務は、よく来るのかな~?」野島は、カマを掛けた。

「私には、専務さんの記憶がないので何とも言えないのですけど、ママに聞いてみましょうか?」チヨコの眼を見ても噓をついているようには思えなかった。

「ゴメン用事を思い出したよ。また来た時に指名するね」野島はウインクをすると

間髪を入れず、立ち上がった。主婦顔ホステスの視線が背中に突き刺さる。


 慌てて車に戻ると、ふくれっ面の亜里沙がタバコを咥えていた。

「もう、遅いんだから~。どうせ鼻の下でも伸ばしてたんでしょ!」

「いやいや、ちゃんと調査して来ましたよ。結論は、此処ではないってこと!」

野島は、まじまじと亜里沙の顔を見た。

「亜理紗、お前ってこんなに可愛かったっけ?」

「チョット~! 所長酔ってません? これ、仕事なんですからね!」

「分かってる。つぎ行こう!」

 運転を亜里沙に交代し、二人は元町の『ペペ』に向かった。

『ペペ』は、カラオケが主体の小さな店であった。

「宮部興産の専務さん? そうね~、何度か、うちのお客さんに連れられて来たことがあるくらいかしら。それ以来お見えになっていないわね~」

野島は、ママの言葉に嘘があるとは思えなかった。四十二歳の純太郎と五十がらみのスナックのママとの関係が想像できないのである。

 最後に馬車道にあるクラブ『エンジェル』に向かった。ここが駄目であれば、調査の振り出しに戻ることになるのだった。店はすぐに見つかった。亜里沙は、この辺に土地勘があるらしい。時間はすでに、夜の十時を回っている。

亜里沙は引き続き待機をする。


 『エンジェル』が馬車道界隈では、高級店であることに間違いはないだろう。

店の前には見るからに高級車が並び、運転手がご主人のご帰還を暇そうに待っている。

野島は、黒服に宮部興産の専務の紹介であると告げると、すぐに豪華な作りの革の

ソファーに案内された。一目で店のママと思しき女性がやって来て、頭を下げた。


「いらっしゃいませ。宮部専務のご紹介という事で、ありがとうございます。

 この店を預からせて頂いております。菊田ユミと申します」

ママは、目線を野島の靴に落とすと微笑みながらゆっくりと顔を上げ、野島の顔に戻った。野島は、経験から目踏みをされていると思った。

こんなこともあろうと、今日の服には抜かりがなかった。スーツは、濃紺の『トムフォード』のシングル。これは、ダニエル・クレイグが映画の中で着ているものだ。

靴は、『アレックス』のストレートチップを合わせた。亜里沙には決めすぎだと評判は宜しくないが・・・(給料を先に払えと言われそうである)

 ママが席を立った後、野島は、隣に座った若いホステス理佐の膝を触りながら、小一時間程会話を楽しんだ。もちろん、役得の面があるのは、否定はしないが。


「ところで、理佐ちゃん。宮部興産の専務がいつも指名している娘って、誰なの?

 ちょっと、興味が湧くな~」と、野島はさりげなく話を振った。

「麻里さんね。紹介するわ」 

 しばらくすると、麻里が向かいの席に現れた。気のせいか、少し警戒しているようにも見える。歳は三十半ばの清楚な顔立ちの女性である。

「専務さんのお知り合いなのですか? 専務さん最近お見えにならなくて・・・

 伝えてもらえませんか? 麻里が寂しがっていたって!」

 野島は、麻里の話に不自然さを感じたのである。あえて自分から接点のなさをアピールしている点である。前もって理佐から、麻里と専務が入魂の仲であるとも聞いていた。

「お名刺、頂けません?」麻里は、専務の紹介という点に拘っているようであった。

 野島は、少し躊躇した後、ここが潮時と退散することにした。


  十二時を過ぎていた。車に戻ると、亜里沙が完全にふてている。

「もぉ~、所長いい加減遅すぎです!」

「ゴメン、ゴメン、おかげで当たりがあったんだ。とりあえず、これ夕飯の代わりだ

 から」 野島は、コンビニを見つけ買ってきたサンドウィッチとオレンジジュースを亜里沙に渡した。心なしか、亜里沙の怒りが少し緩んだように見えた。


 二人は、車を移動した後再び『エンジェル』の出入り口付近が見渡せる場所に戻ると監視を続けた。小一時間も経った頃であろうか。午前一時過ぎ、ようやく麻里が数人のホステスと連れ立って店から出て来た。全員が黒いワゴンに乗り込んだところを見ると、ホステスの送りが始まるようだ。ターゲットは、もちろん麻里である。

黒い影のように見えるワゴンが動き始める。亜里沙の運転するロメオが影を引いて追う。ホステスを順次降ろしていくが、赤いドレスの麻里ではない。

 黒いワゴンは、国道16号を下って磯子駅を通り過ぎると二つ目の信号を右折した。

そして、徐々にスピードを緩めると十階建てくらいのマンションの前で止まった。

門に填められている銘板に、『セシル磯子壱番館』と書かれている。

「ありがとう、おやすみ~」の声と共に、赤いドレスが風に揺れる。麻里である。

野島は、車が離れるのを確認すると、麻里の後を素早く追った。麻里は、共用玄関ドアのオートロックを解除するために、暗証番号を打ち込んでいる。玄関ドアが音もなく開くと、エントランスに導かれるように入って行った。

麻里の乗るエレベーターは、外からでも十分見通せた。ここは、無理することはない。野島は、エレベーターの停止階を確認すると、亜里沙の運転する車に戻った。


 やっと、長い一日が終ったのである。野島の腕の『オメガ・スピードマスター』の針は、午前二時を指している。

「きょうは、もう帰りたくない」亜里沙が、小さく呟いた。

「亜理紗、お疲れ! さぁ、家に帰ろう」野島が返した。

亜里沙は、ハンドルを切ると山下町の藤木ビルを目指して深夜の国道を走り抜けた。



                3 協力者 古畑刑事


 藤木ビル五階にある野島の自宅で、二人は昼前まで熟睡していた。昨晩の疲れがまだ身体に残っているようだと野島は思った。先に起きた亜里沙が、眠気覚ましに熱い

コーヒーを入れてくれる。ブラックでと言いたいところだが、ミルクがたっぷりと入っている。亜里沙は、野島の好みは百も承知なのだ。

 夕方までには時間があった。ルリ子の宮部興産を少し探ってみることにした。

野島が加賀町署にいた時代から、あまり良い話を聞いていなかった記憶があるからである。今は組織犯罪対策課の元部下の古畑刑事に連絡を取ってみる。野島が巡査部長であった時に、当時巡査長であった古畑を親身になって指導をしていたのだった。

野島がキャリア上りの課長と捜査方法の違いで対立していた経緯を知っている一人でもあった。

「古畑、野島だけど頑張っているか?」

「あっ、部長ですか。ご無沙汰しております」

「部長は、止してくれよ。ところで、少々頼みがあってな」

野島は、かいつまんで事情を話し、現在の宮部興産に関する情報提供を内密に依頼した。

「頼めるかな?古畑」

「部長の頼みなら断れませんよ。でも、こちらの立場もあるのでご配慮下さい」


 二人は、午後五時に山下公園前の『ニューグランドホテル』一階にある『シーガーデン』で落ち合う段取りを取った。古畑刑事が先に来ていて、野島の姿を見つけると、軽く手をあげた。

「古畑、巡査部長だってな。道理で貫禄がついているはずだよ」素直な感想が出た。

古畑刑事は、挨拶もそこそこに、資料を置いてある椅子に目線を送ると足早に店から立ち去った。反社会勢力に面が割れることを恐れているのである。また、警察内部の眼にも注意が必要であった。事務所に戻ると、野島は時間を惜しむように資料に目を通した。

 警察の内部資料によると、会社の立て直しのためにルリ子が社長に就任したのに合わせるように、宮部興産と反社会勢力との付き合いが始まって行ったようだ。

六本木に本部のある伊奈川会系の二次団体黒田組とである。黒田組が横浜港での

覚醒剤、コカイン等の流通に関わっていることは、証拠がないものの既成の事実として警察内部では認識をされていた。なぜ、黒田組と宮部興産が密接な関係を持つようになったのかは、解明がされていなかったのである。

それにしても、なぜルリ子が夫の『行方不明者届』を警察に出さずに、小さな事務所に調査(捜索)を依頼してきたのか、疑問は残されていた。


             4  純太郎の発見


 午後七時前には、野島と亜里沙の二人は、『磯子壱番館』の玄関わきに立っていた。マンションの中から中年の女性が出てくるタイミングで、居住者のふりをした二人は開いたオートロックの玄関ドアをすり抜けるとエントランスに滑り込んだ。

カップルであると、周りの人間にあまり不信感を与えないものらしい。二人は、昨晩

麻里が降りただろう八階に上がった。しばらくエレベーターホールで様子を覗う。

住人が側を通る度、熱烈なカップルを装い顔を晒すことは避けていた。何人かの住人の好奇心をやり過ごしているうちに、何軒か先の玄関ドアが開かれる気配があった。

はたして、待望の麻里の出現である。面の割れている野島は、とっさに亜里沙を抱き寄せると顔を隠すように亜里沙の唇にキスを落とした。

最初野島の急な行動に抵抗を示した亜里沙であったが、野島の唇を次第に受け入れ始めた。野島の意図を理解したためであった。

麻里が不審そうな面持ちで横を通り過ぎると、エレベーターに乗り降りて行った。

「もう、いい加減にして!」亜里沙が、野島の太ももを抓りながら抵抗を始める。

苦笑いを浮かべた野島が亜里沙に言った。

「尾行術の一つさ、部屋のインタフォンをすぐ押してくれ」

この時点では、まだ純太郎の存在に確信はなかったのであった。

イチかバチに掛けてみたのである。

亜里沙は駆け出すと、麻里の出て来た部屋のインタフォンを素早く押した。

「どうした?麻里か?」警戒した男の声である。純太郎であるに違いない。

「私・・・忘れ物・・・」 亜里沙が、はっきりしない声で言う。

すると、カチャリと音をたててドアが少しだけ開いた。男の顔が見える。

野島は、間髪を入れず部屋に飛び込んだ。身についている逮捕術が役にたった。

にわか探偵では、マネの出来ない行動である。


「お前は誰だ?」悲鳴のような甲高い声の主は、パジャマ姿の怯えた男であった。

確かに、ルリ子から提供された写真通りの四十をわずかに超えた小心そうに見える人物である。

「純太郎さんですか? 怪しいものではありません。私は、あなたの行方を捜してくれと頼まれた者です。危害を加えるつもりはありません。話を聞いて下さい」   野島は、名刺を取り出すと素早く見せた。

純太郎は、警戒心を解いていない。

「奥様から、頼まれているですが、何か事情があって身を隠されているのではないですか?」野島が、これまでの頼まれた経過を話すと、純太郎は少しづつ落ち着きを取り戻し失踪した理由を話し始めた。


                5 失踪の理由


 宮部純太郎は、旧姓を高山と言い東神奈川で自動車部品の製造を手掛ける『高山工業』の次男であり製造部長であった。近年になっては、小規模の会社は技術的には遜色のないものを持っていたとしても価格面で大手企業の大量生産に対抗できるはずもなく後塵を拝していたのだった。会社の経営状態は、悪化していく一方であった。

ことを案じた社長であった長男の純一郎は、背に腹は代えられぬ思いで街金と呼ばれる闇の金融業者に救いを求めてしまったのだ。支払いが滞り始めると、金融業者はその正体を現すことになる。これが運悪く海運業をバックに勢力を広げ始めていた黒田組であった。

 また、同じ頃宮部興産も地場産業の不振から輸出量が減っており、業績は芳しいものではなかった。当時の社長であったルリ子の父である正蔵も打開策を捜していた。

技術力のある部品メーカーと、交渉力のある輸出業者が手を組めば間違いなく業績は上向くと、話を黒田組がバックにいる金融業者から持ち掛けられたのである。

両社にとっても、この話は渡りに船であった。

しかし、これには条件があったのである。高山工業の次男純太郎と宮部興産長女の

ルリ子との入籍であった。これは、親戚関係になることで強固な繋がりを持たせるための策略であったのは、想像に難くない事である。

 会ってみると、二人は気が合った。純太郎の技術畑らしい実直さと、ルリ子の男勝りの勝気さがお互いを補うように感じられたからであった。

ルリ子を代表取締役として、また純太郎はルリ子を支える専務となり新生宮部興産は、船出を迎えたのだった。

 

 この時はまだ、黒田組の壮大な罠が仕掛けられているとは二人とも思いもしなかった。会社が順調に滑り出し、業績もわずかではあるが上向き傾向にあった一年後のことである。

 結婚をして一年も経たない頃から、ルリ子の外泊が続く様になったのだと純太郎は話した。


『ルリ子! 帰りが遅いうえに外泊までして、一体何をしているんだ?』

『私は、会社を潰さないように頑張っているだけよ!お付き合いだって大変なのよ』

『付き合いが大変なのは分かるけど、外泊の理由を聞いているんだ』

『・・・・・・・・・・・・』

『何とか言えよ!』

『そんなに寂しいなら、あなたも遊んだらいいじゃない!』

『あぁ、そうさせてもらうよ』売り言葉に、買い言葉であったらしい。


純太郎の注意にも関わらず、ルリ子の帰らない日はかえって増えて行った。

純太郎は、ルリ子のいない寂しさから夜の横浜をさ迷うようになって行った。

そんな中で、純太郎の慰めになったのが『エンジェル』の麻里であったのだ。

『麻里ちゃん、今夜泊めてくれないかな?』純太郎が初めて口説いた夜であった。

『あら~、私が奥様に怒られてしまうわ』

『その奥さんの外泊が問題なんだよ』純太郎の初めての愚痴であった。

『それって絶対おかしいわ。調べて見るべきよ』


 ある日、麻里の言葉に押されるように、自分の運転手酒井隆二に事情を話し二三日妻の行動を調べて報告するように指示を出した。

酒井の報告は純太郎にとって、恐るべきものであった。

『専務、私は何処までお話していいのか・・・』

『構わない、言ってくれ』

全ての報告を聞き終えた純太郎は、もはや真実をルリ子の口から話させるほかないと、強固な決意を持った。これで、築いてきた全てが壊れてしまったとしても・・・


 穏やかな性格である純太郎の尋常でない顔色を見て、ルリ子は話す決意をした。

『ごめんなさい。もうどうにもならない。私は、黒田栄治の女なのよ』

『それは、どういうことなんだ?』純太郎は、迫った。

『私が親睦を兼ねて金融業者と食事会を開いていた席に現れたのが、黒田栄治、  すなわちその人が金融会社の実質的なオーナー黒田組の組長だったの。

穏やかな知識人で会話も楽しく、私もかなりお酒が入ってしまっていたから・・・・その後は、覚えていないの。気が付いた時は、ベッドの中で黒田に抱かれた後だった・・・・

一度関係を持つと、黒田は執拗に私を求めて来た。そして、クスリを打たれた後は

逆に私が黒田を求めるようになって行った・・・でも、それも彼らの策略だったのよね・・』


ルリ子の告白を聞いた純太郎は、例えそれが黒田の策略であったとしても、ルリ子を許すことが出来ず、増々麻里に傾倒していったようである。

「純太郎さん、ここまでの話は分かったとしても、なぜ姿を隠さなければならなくなったのですか?そこがまだ理解できない」話を聞いていた野島が促した。

純太郎は、その後の真相を再び話し始めた。

「実は、憂さを忘れるために『エンジェル』に通っているうちに、偶然宮部興産にとって良からぬ噂を耳にしたのです。それは、港湾関係者の間では知れていた話でした。黒田組が横浜で扱う覚醒剤、コカイン等の大半が、宮部興産を隠れ蓑として利用されているのではないかというものでした・・・」

 

 純太郎は、久しぶりに家に帰って来たルリ子に問いただしたそうである。

『どういうことなんだ。お前は知っているのか?』

『あなたは、関わらなくてもいいのよ!』純太郎の存在を否定したのも同然であった。ルリ子を前面に立て、経営から少し身を引いていたのは、事実である。

さらに、ルリ子の言葉が追い打ちをかけた。

『これまで、会社が何とかやって来れたのも黒田さんのお陰なのよ』

『お前は、俺を利用しただけなのか?』

『そんなつもりじゃなかったけど、仕方なかったのよ!・・・』


黒い社会と一度でも関りを持てば、泥沼しか待っていなかったのだ。

そして、純太郎失踪の真実が明かされることになる。

純太郎は、続けた・・・ 

「私は、妻の告白を聞くと家を飛び出し、深夜の国道を自分の運転する車で走り 

野毛にある会社へと向かったのです。会社の金庫の中にしまってある帳簿から

不正の証拠を見つけるためです。いわゆる裏帳簿が金庫の奥に隠されているのは知っていましたからね。でも実態は知らなかった。調べてみると、この帳簿の中に不正の証拠が隠されているのは、明らかでした。機械部品を輸出し空になったコンテナに帰りは食品を積んで帰るのですが、そのコンテナごとに奇妙な文字と数字が書かれていたからなのです。私は、これらを写真に撮り『SDカード』をカメラから抜き取ると、会社から持ち出しました」


 以上が、純太郎の告白であった。

遅かれ早かれ、黒田組と宮部興産との不正な関係の証拠を手にしたことを、彼らにに知れるのは時間の問題だと考えた純太郎は、安全のために身を隠すことを考えたのである。救世主は、麻里であった。


               6 反社会勢力 黒田組


 ルリ子は、家を飛び出した純太郎を寝ずに朝まで待ち続けたが結局戻らなかった。会社に着いて念のために裏帳簿を調べて見ると、何者かが慌てて仕舞った痕跡があり、ページの角が不自然に折れていることを発見したのである。

不正の発覚を恐れたルリ子は黒田英二に電話をすると、指示を仰いだのであった。


 現在でも宮部興産は、緑茶が輸出品目の大部分を占めており台湾が第一の得意先である。しかし、その輸出額は年々減り続けていて、台湾の輸入販売業者にとっても

頭の痛い問題であった。これに目を付けたのが、安全な供給ルートを捜していた台湾

薬物供給組織であった。

台湾の自動車産業は、日本からのOEM生産が大部分であったが、近年は自社ブランドメーカーが誕生し、自動車用部品の輸入がわずかながら増えてきていた。

帰りは空になるコンテナに食品を詰め込む際に内部を細工することで、目的のものを日本に運び込めると判断していたのだ。

日本は、覚醒剤の末端価格が世界トップレベルである。これが、ハイエナの集まる構造なのである。台湾組織が、横浜港で勢力を張る黒田組に話を持ち掛けるのも当然の成り行きであった。

そして、高山工業と宮部興産の合併、高山純太郎と宮部ルリ子の結婚、そのすべてが

黒田英二によって仕組まれた策略であったのだ。


「純太郎さん、私は貴方の潜伏先を誰にも話すつもりはない、例え奥さんにもね。その代わり『SDカード』を預からせてもらえないか、あなたが持つには、危険すぎる。あなたが望むなら、私から警察にわたしてもいい」

野島の言葉を信じ、納得したかのように頷き『SDカード』を野島に手渡した。

やり取りを聞いていた亜里沙が車の中で、さも感心したように言った。

「さすがは、もと加賀町署の敏腕刑事、取り調べ巧いのね」

「亜理紗、取り調べはないだろう」と、亜里沙の頭を軽く小突くと軽く笑った。

 

 腕の『オメガ』は、すでに十時を指していた。

野島は、ルリ子の携帯に連絡を入れる。

「夜分すみません。野島です。純太郎さんの居所が分かりましたよ。明日、午前中に事務所でお会い出来ないでしょうか?」

「いま、教えてもらえないのですか?」

「これは、純太郎さんの安全にもかかる問題なので、待ってもらえませんか」

「分かりましたわ。では、明日十時にお伺いします」

ルリ子の安心した息遣いが、携帯越しに伝わって来た。

間違いなくこの情報が黒田英二に伝わる確信を持って、電話を切った。


「私、きょうは帰るね」亜里沙も心底疲れた様子である。二人とも、今日も

夕飯にありつけなかった。しかし、ロメオの排気音が心地よく腹に響いてくる。

久しぶりの本来の調査依頼であったが、一歩前進したという感触があったからである。助手席に座る亜里沙の髪が、風になびき優しく野島の肩に触れた。


 ルリ子は、約束通り十時きっかりに事務所に現れた。今日は、派手な深いスリットの入ったタイトスカートを穿いていた。不幸を演じる必要がなかったのだ。

「何処にいました?」挨拶もそこそこに、ソファーに座るなり聞いてきた。

「社長は、夫の安否が気にならないのですか?」野島が聞いた。

「無事なことは、分かっていますので!」ルリ子がぶっきら棒に答えた。

「これが、今回の請求となります」野島は、請求書をテーブルの上に置いた。

請求は、基本料金の三十万であった。金額を確認すると、ルリ子は訝しげに言った。「どういう、ことでしょうか?」

「宮部さん、純太郎さんを見つけることは出来ましたが、あなたが望む成功報酬を頂くわけにはいかないのです。居所を明かさないという約束で、ある物を純太郎さんから預かって来たのです。それは、データの入ってる『SDカード』でした。   本来、これは警察に届けなければならない事案ですね」野島の言葉に、ルリ子は顔色を変えたのである。                          「分かりました」これだけの言葉を言うと、簡単に引き下がった。

ルリ子としても、家庭内の問題として穏便に済ませたかったのだろう。『捜索願い』を警察に出せば、警察が動くことになり、犯罪となる不正な証拠が警察に渡ることを恐れたのではないか。しかし、結果として依頼した野島が手にしてしまった。

投げ捨てるように、三十万の現金をテーブルの上に置くと領収書も受け取らず、事務所を出て行った。ヒールの音だけがせわしく階段に響き渡り、上まで聞こえて来た。

 野島が、三階の窓から見下ろすと、人相の悪い男たちに促され、黒いベンツSクラスの後部座席にルリ子が乗り込むところであった。

男達は、黒田組配下の人間に違いないと思われた。

いよいよ、横浜の闇の勢力が動きだしたのを感じ、野島はその胎動に心震えたのであった。

              7 亜里沙の災難


 野島は、黒田組の動きを確認すると、加賀町署の組織犯罪対策課の古畑に連絡をし、これまでの経過説明をした。これは、単なる個人の失踪事件ではなく黒田組が絡んだ薬物密輸の証拠となる事案であると古畑は認識を示し、逆に野島に捜査協力を依頼してきたのである。

 そして、証拠となる『SDカード』引き渡しのため、二人は夕暮れ時の元町公園内にある『エリスマン邸』で接触することにした。

『エリスマン邸』は、最初スイス貿易商エリスマンの邸宅として外人墓地近くに建てられ、1990年に現在の場所に移築されていた。


 これから、『SDカード』を渡しに古畑刑事に会いに行くことを亜里沙に伝えると、念のためにカードをコピーし保管するように頼んだ。

野島は出がけに、鍵をかけておくように注意をし、ロメオで外人墓地を目指した。

駐車場にはすでに、銀色のクラウンがひっそりと止まっていた。

バックミラーが二枚ついている。古畑の車である。

野島が人目を気にしながら邸の中に入ると、古畑は、誰もいない二階の応接室に一人でいた。野島がすれ違いざまにカードを渡すと、古畑は観光客が見物を終えたような足取りで邸を後にした。

庭先には、すでに帳が降りていて人影はなかった・・・・・


 野島は事務所に戻ると、足早に階段を駆け上がった。

普段開けにくい扉が少し開いている。その隙間から雑然とした匂いが漂ってくる。

「亜理紗!いるか? いま、帰った!」野島は、意識して大きな声を出した。

中から、いつものため口が聞こえてこない・・・

野島は、踏み込んだ。野島が目にした光景は、自分の机の引き出しがすべて開けられ中にあったと思われる類のものがすべて床に散らばっているというものであった。

狭い事務所である。目的のものを捜すに、大した時間は掛からなかったはずだ。

念のため、亜里沙が隠れていそうなトイレを開けたが姿は見えなかった。

不吉な予感がし、黒田組の仕業が頭を過った。狭い部屋を見回すと、窓ガラスに

貼ってある白い紙が目に付いた。紙には、乱暴な字でこう書かれていた。


『 専務から預かっている物を港の宮部の倉庫まで 持って来てもらいたい

 必ず一人でだ お前の女はそれまで預かっておく 』


恐れていた事態であった。交換条件に亜里沙は拉致されていたのであった。

しかし、『カード』を黒田はまだ手にしていないことの証明でもあった。

「それにしても、カードは何処にあるんだ?」心の中で叫んでいた。

野島は亜里沙と交わしていた万が一の想定に賭けた。


 野島は、亜里沙を助け出すために本牧埠頭にある『宮部興産倉庫』に向かった。

具体的な救出策があった訳でもなかった。ただ、救い出したかったのだ。

亜里沙を、大きな事件に巻き込んでしまった後悔ばかりであった。二人だけの小さな事務所である。元刑事であっても、小さな仕事を積み重ねて生きていければ十分であったはずではないのか・・・ 

 野島は運転しながら、助手席に置かれた携帯に無意識に左手で『miyabesouko』と打っていた。


               8 対決


 荷揚げの終わった倉庫街は、ひっそりと静まり返り人影もない。

遠くでベイブリッジの灯りが水面に揺れている。宮部興産倉庫には、迷わず着くことが出来た。すでに三台の黒いベンツが止まっており、車内には、二三人の影が見え隠れしている。鉄の大きい扉は、すでに人が一人通れるほどの隙間が開いていて、中からの弱い明かりが外まで伸びていた。

野島は、三人の黒い影に囲まれると、中に入るように促された。中は薄暗く、人の顔を認識するにはいくらか時間が必要であった。正面の椅子に座らされているのは間違いなく亜里沙であった。その横には、背の高い優男が立っている。そして、周りを囲む男たちの中にルリ子に似た女の姿もあった。


「探偵さん、今どきの組織は、人を殺めたり、傷つけたりするのは好まないんですよ。まぁ、時にもよりますけどね」若頭らしい男が口を開いた。ルリ子は目をあわせようとせず、口を堅く結んで下を向いたままであった。

「あなたが、探偵稼業だけやってればこんなことにはならなかったのですよ。その点では誤算でしたね。探偵業なんて、頼まれたことだけをやってればいいんだ。世の中の善悪を決めるのは、あんたの役目ではないんだよ」インテリやくざは、言うことも違う。

「偉そうなことを言う前に、お前の名前を聞かせてもらおうか」野島は、言った。

「私は、黒田組若頭工藤順二、組長黒田栄治の使いの者だ」

「宮部興産とは、どういう関係だ。依頼主の宮部興産の社長の顔も揃っているが」

「宮部さんは、お金をお貸ししているパートナーとでもいおうか。横浜の産業界にとっては大事な企業さんなんでね、その発展のために力をお貸ししているという訳だ。

その大事な融資先がチンピラ探偵に脅かされているので、助けて欲しいとのご相談があったのですよ。あなたもか弱い女性相手に、勝手なことをしてくれたものだ」

「工藤さんとやら、あなたも随分きれいごとを並べる人だ。うちの事務所に来て何を捜していたんだ。ないとなると若い素人女を人質にしてまで、交換条件を持ちかけて来た。となると、相当お前たちにも都合の悪いものと想像がつく」

「探偵さん、あんたは、知りすぎたようだね。つべこべ言わずに渡してもらおうか」

「分かった。でも俺は持っていない!嘘は、言っていない」

「何!こいつを全部調べて見ろ!」工藤の怒りに三人の男たちが反応した。

しかし、財布以外何も出てこなかった。無駄な時間だけが過ぎて行った。     工藤の怒りは、それに比例するようにさらに高まった。


「探偵さん、俺も男だから分かるよ。目の前で自分の女が犯されるところなんか見たくもないはずだ。耐えられるはずもない。でもあんたは、自分から仕向けて来たんだ。残念だけどな。ここには、六人の男がいる。みんなまだ若い。けしかけたら何をするか分からない。そんな連中だよ。どうする?探偵さん?」

野島は、血走る目でルリ子を見た。「このまま、この男たちに暴挙を許すのか?」

ルリ子は、野島の視線を感じると、奥に移動し積み上げられた荷物の影に隠れた。

絶対絶命であった。野島は、敗れたのだ。


「分かった。捜している物を渡したら、亜里沙を解放してくれるのだな…・」

「分かってくれたか。そうだよ。専務から預かったものを渡してくれたら、

お引き取り願っても結構ですよ」

しかし、宮部興産と黒田組の関係があからさまになってしまった以上、二人が無事に帰れる保証は何処にもなかったが、野島は覚悟を決めたのだ。

「分かった。渡してやる。亜里沙が持っている」

「なに~?!」若頭が、低く声を震わせると目をむいた。


 野島が亜里沙に近づき目くばせをすると、亜里沙が恥ずかしそうに小さく頷く。

亜里沙の豊かな隆起を隠している白いシャツのボタンを外し、手を差し入れた。

案の定、固いものに触れたのである。野島は、亜里沙のブラジャーの中からそれを取り出すと、安堵の表情で工藤に手渡した。

野島と亜里沙は、このような事態を想定して取り決めをしていたのだったが、その確証がなかったのだ。

 野島が、身体に食い込んでいた縄を解いてやると、亜里沙は、涙をにじませながら抱き着いてきた。

「大丈夫か?」と聞く野島の声に、「もちろん」と、亜里沙は気丈に返した。


 その時、大きな音がし、重量を持った鉄製の扉が開かれた。

「警察だ!」「動くな!」と、叫ぶ大きな声が薄暗い倉庫の天井まで響き渡った。

同時に、警官隊がなだれ込んで来た。

「全員、誘拐、またその補助の現行犯で逮捕だ!」声の主は、加賀町署の古畑刑事部長であった。どうやら、車の中で野島の打った『SMS』が無事に古畑に届いていたようである。「間に合いましたね、部長!」と言い、ニヤリと視線を向けた。

「みんな、抵抗するんじゃない。大人しく従うんだ」若頭工藤順二の声が続いた。

若頭に続いて、六人の組員が抵抗もなく次々に逮捕されたのである。

去り際に工藤は、野島に言い残した。

「野島さん、今回は誘拐の現行犯容疑での逮捕らしいですが、私は、実行犯ではないのですよ。たまたま訳も知らずに頼まれてやって来ただけなんです。当然、条件付き執行猶予がせいぜいなところです。この次が楽しみですね」

「冗談じゃない!警察はそれほど甘くはないぞ。黒田組壊滅のための証拠は十分あるんだ。楽しみにしているのは俺の方だよ。工藤さん、組長によろしく言ってくれ」

野島の強い言葉に、工藤は何を思ったのか・・・

ただ、野島の未来に巨大な黒い雲が迫ってくるのは、間違いなかったのである。

反社会的勢力にとって逮捕されることなど、想定内のことであろう。そして、その罪を被る者が必ず出てくることになる・・・


ひっそりと積み荷の影に隠れていたルリ子が、捜査員によって引き出された。

「宮部興産の社長、宮部ルリ子さんですか?」古畑が聞いた。

「・・・そうです・・・」ルリ子は、素直に答えた。

「私たちは、あなたを今回の事件の重要参考人として考えているのです。むしろ

あなたは、被害者ではないのですか? 宮部興産といえば、かつて横浜経済を牽引した優秀な会社でしたね。そんな会社のトップが、いくら衰退したとはいえ自ら

犯罪に手を染める訳はないと思いますよ。きっと、事情がおありなんだと思います。

不正があったと思われる『データ』は、すでに我々の手に渡っているのですから、 横浜を反社から一掃するために証言をお願いできないでしょうか?」

真実を探るためには、ルリ子の証言が不可欠であった。そこに、古畑は切り込んだのである。ルリ子は小さくうなずくと、古畑と共に車の中に消えて行った。


             9 ルリ子の供述


 後日、野島と古畑が某所で落ち合い聞いた話である。

ルリ子の協力のもと『SDカード』が解析され、黒田組の絡んだ不正な密輸の明らかな証拠が見つかったそうである。

自働車部品を降ろし、空になったコンテナに食品を積み込む際に不正に覚醒剤を隠し、横浜に運び込むことを黙認する見返りとしての現金授受は事実であった。

その額は、毎月500万円ほどである。密輸される覚醒剤は毎回百キロ近くになり、末端価格で60億と推定された。これも、氷山の一角に過ぎない。港町に隠された闇は、その華やかさに反して暗く深い影を抱いているのであった。

ルリ子の顔が夜景に重なった。ルリ子の人生を狂わせたのは、何だったのだろうか? 野島は、闇に眼を向けた。

 あまりにも時代の変化が早すぎるのではないだろうか。創業当時の業種に固執する企業の寿命が極端に短くなっている。中小の経営者は、伝統を守り二代、三代目へと企業を存続させることの難しさに直面しているのだ。そこに付け込み甘い汁を吸おうと画策するのが現代のハイエナと呼ばれる反社会勢力なのである。

ルリ子も見方を代えれば、被害者であるのかも知れない。しかし、犯罪に手を染めても会社を守ろうとする人間は、もはや経営者の資格を失った者でしかない。


 ルリ子は、供述していた・・・

「私は、宮部興産の三代目として1974年に野毛に生まれました。会社を興した戦前の初代社長宮部繁三郎の頃は、まだ生糸や絹織物の輸出が盛んで暮らしも豊かだったそうです。すべての従業員に対しても家族のように接していました。

しかし、二代目社長正蔵の頃には輸出品も様変わりをし、金属の加工品、特に自動車部品などが主流になって行ったのです。緑茶が輸出の主力品であった宮部は、新しい品目のルート開発が遅れ業績は悪化し、多くの大事な従業員が去って行きました。

そんな中の2010年に、父が亡くなってしまったのです。会社を潰す訳にはいきません。36歳の私が、会社を受け継ぐ決心をしたのでした。

会社はすでに危機的な状況にありました。新たな融資先を探さなければいけません。一時は、続いてきた会社を畳む覚悟もしておりましたが、従業員員30名、そして、その家族を含めれば100名を路頭に迷わせる訳にはいかなかったのです。

こんな折に近づいて来たのが黒田でした。あとは、警察の方が調べた通りです。

もし、許されるなら薬とは金輪際円を切り、もう一度純太郎さんと力を合わせて

社会に認められる会社であるように、頑張りたいのす。  

もし、横浜みなと探偵事務所に調査を頼まず、所長の野島さんと助手の亜里沙さんにもお会いしていなかったら、今の私はなかったのでしょうね……・」 

 

 野島は、突然「クシャミ」が出た。

「所長、しばらく『結婚調査専門』の看板出しません? 警察の犯罪捜査のお手づだいは、危険すぎるんですもの!」

「亜理紗、久しぶりに中華街にでもくり出すとするか?」

「賛成です!」

 港町の夜は、事件に無関心のように、相変わらず光輝き、人はその美しさに溺れる。しかし、光の美しさは、闇の存在があるからこそ認識されるのである。闇の持つ影の正体に気付かぬままに・・・・・

         


 おわり 



 

 











 













 

 

 

 


 


 

 

 







 







 










 


 


                


 










 




























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