第7話 雨上がりの夜



「お疲れ様、今日もお姫様に振り回されていたようね」


 そういって優しく微笑むのは、僕の恋人の静香。


 仕事終わりにデートの約束をしていた僕たちは、ジャズの流れるおしゃれなバーでお酒を飲んでいた。


「”お姫様” ねぇ。なんで君も田村先輩も、アイツの事を姫呼ばわりするんだろう」


 アイツは姫なんて柄じゃない。しかし、僕以外のアイツを知る人間は、こぞって姫呼ばわりしたがるのが不思議であった。


 僕は手元のギムレットというカクテルをチビリと口に含む。


 ジンベースの爽やかなライムの香りが、心地よく僕を酔いへと誘ってくれた。


 静香は、そんな僕を色っぽい瞳で眺めてから、マティーニで口を湿らし、濡れた唇でそっと微笑んだ。


「”姫” よ、あの子はね。そしてアナタはおつきのナイト……いえ、使用人かしらね」


「酷い言いぐさだね。愛が無い」


「いいえ、愛はあるわ……少し嫉妬しているのよ? アタシ」


 嫉妬。


 それこそ訳がわからない。


 アイツとのやりとりに、個人的な想いは一切無い。ただの仕事上のパートナーだ。


「納得がいっていないみたいね……まあいいわ、私は寛容だから、少しの浮気くらいは許してあげる……でもね、本気になっちゃ嫌よ?」


「浮気? 君は僕がアイツに気があるなんて考えているのかい?」


 静香は首をゆっくりと横に振った。


「気がある? いいえ、アナタはあの子に気があるんじゃなくて……ぞっこんなのよ」


 風評被害だ。


 気分が悪い。


 僕がアイツにぞっこん? あの小説を書く以外に何もできない奇人に?


「……冗談がキツいよ。第一、僕はアイツが嫌いだ……知っているだろう?」


「好きの反対は無関心よ……知っているでしょう?」


「それは詭弁だよ」


「そう、これは詭弁よ。でも同時に真実でもある……わかっている筈よ、アナタなら」


 やれやれ、彼女はまったく詩人だった。


 僕は肩をすくませると、手元のカクテルを一気に煽った。


 濃度の高いアルコールが喉を焼き、体温を一気に上げる。


 そんな僕を眺めて、静香は少し悲しげに笑った。


「ごめんなさい。別にいじめる気はなかったの」


「気にしちゃいないよ。僕はそれほど心が狭い奴じゃない」


「ありがとう。でもそんなところも少し心配なの」


 店内に流れている曲が変わったようだった。


 繊細かつ巧妙なピアノの旋律、どこかで聞いたことのあるようなジャズミュージック。


 曲名を尋ねると、見事な口ひげを蓄えた渋いバーテンが「ワルツ・フォー・デビー」とだけ端的に答えた。


「ワルツ・フォー・デビー」


 僕は確かめるように曲名を口にする。


 繊細さを保ちつつ、軽快にリズムを重ねていくその曲の事が、なんだかとっても気に入ってしまった。


 靜香も悪戯っ子の笑みを浮かべながら、マティーニで濡れた唇で「ワルツ・フォー・デビー」と復唱する。


 それから二人は無言で曲に耳を傾け、チビチビとカクテルを飲んで時を過ごした。


 こういったささやかな時間が、仕事や人間関係で疲れ切った僕には必要不可欠だと、そう深く感じる。


 夜は、ゆっくりと更けていった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る