第29話 いやらしい先輩、崩壊する

「あー、帰りたくないな。現実世界に帰りたくない」

 先輩は珍しく抑揚なく言った。

「僕はそらぁ、嫌ですけど」

「留年のこと、お父さんと話すんだっけ?」

「知ってるんですか?」

「鞘師くんが言ってた」

 あの野郎、口が軽すぎる。

「鞘師くんね、樹くんともっと仲良くなりたいんだってさ。腹を割って話してほしいのにって」

「あいつそんなガラじゃないでしょ」

「……樹くん、まさか大学やめないよね?」

「どうですかね」

「他人事かよ」と先輩は冗談めかす。

「わかんないんですよ、自分でも。やめる度胸もないですけど。ただ、やりたいことがあるわけじゃないし、大学にいると頭が緩んで二度と真剣になれない気がします」

「真剣にって、何に対して?」

「自分の将来とか?」

「他人事かよって。何かやりたいことはあるの?」

「……ないですよ。そういう先輩は?」

「その質問は禁止だ・ぞ?」

 笑っているけど、なかなかのプレッシャー。

「失礼しました、高等遊民の先輩にその質問は無意味ですね。でも、別に合宿終わっても先輩はいいでしょ」

 僕は怒っているのだろうか。ずるい、と単純に思ったのかもしれない。自分がなにもしていないのに、こっちには何か将来のためにするべきだと言っているように感じたから。

「意地悪言わないでよ。嫌だよ、嫌に決まってる」

「先輩?」

「あー嫌だ。あーあーいやだいやだいやだ」

 ダダをこねる子どもみたいに繰りかえす。保っていた素敵なお姉さん像を、自らぶち壊すみたいに。

「来ると嫌なのは明日だけじゃないよ。明日だって明後日だってしあさってだってやだ」

「……えっと」

 僕が引いていると感じたのか、先輩は焦って、「あ、でもタイムリープするので心配ご無用」と取り繕った。

 さっきのは明らかに先輩の本音だ。

 タイムリープ。

 ひどい現実逃避だ。そんなの都合のいい夢でしかない。

 夜眠れば、当然明日が来てしまうだろう。知らない朝が。自分を脅かす日々が。

「毎日、悪魔が操るとろけた夢に耳まで浸して眠るの。湯船に浸かったまま眠っちゃったみたいに、そのまま死ねたら楽だから」

 先輩は確かめるように呟いた。

 ……あ。

「先輩、それ」

 そのセリフ。そして、この教会。

 思い出した。

 その言葉をどこで聞いたのか。この教会を、どこで見たのか。

 映画研究会で去年まで使われていた、サークル紹介の映像だ。僕は入学直後、その作品に出演していた密先輩を一目見て、恋……うん、恋と言っておこう。

 恋、したのだ。

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