前日譚 ずっと焦がれていた場所を 4
セイは、クールに突き飛ばされて転がった際に膝と額をしたたか打った。だが、衝撃で痛みなどどこかに吹っ飛んでいた。
「――――」
信じられなかった。
チェンジリングとののしられる自分を、クールは身を挺してかばったのだ。
いまだかつてない事態に、セイの思考は混乱の極地にあった。
クールを武器庫番に任せたファリースがセイの許にやってくる。
「セイ、大丈夫か」
セイは、いままで必死に保とうとしていたものが音を立ててくずれていくのを自覚した。
どうしよう。こういうとき、どうすればいいのだろう。
――大丈夫かい、セイ……
しわだらけの手をのばしてくれたひとは、もういないのに。
ただひとり、セイに笑ってくれたひとは、もう――。
「驚いたろう」
ファリースの大きな手が何の躊躇もなくのばされる。
瞠目したセイは、ファリースと視線がかち合ったのを感じて硬直した。
瞳を見られた。この紫の瞳を。
もうだめだ。これまでと同じように、顔を歪められて、払いのけられる。
覚悟したセイを、しかしファリースは無造作に抱き上げた。
セイは息を呑んだ。瞳を、見たのに。
いいや、それ以前に。この髪の色で、もうわかっているはずなのに、どうして。
「痛むところはあるか? ……セイ?」
セイははっとして、のろのろ首を振った。本当は、額と膝を少し打って痛かったけれども、余計なことを言ったらだめだと知っている。
そうだ。知っている。セイは唇をきゅっと引き結んだ。
――触らないで…!
たったひとりの手が失われて、もう自分に触れるものはいないと、思っていたのに。
「……」
ファリースが目をすがめる。
「子供が妙な遠慮をするな。赤くなっている。額と膝を打っただろう」
言い当てられて、セイの肩がはねる。
「痛むようなら冷やすか」
「……、っ」
喉が委縮して声が出てこないセイは、答える代わりに全力で首をぶんぶん振る。
そんなことはいい。自分なんかに、そんな手間をかけさせるなんて。
一方。
「……………」
武器庫番に立たせてもらったクールは、セイとファリースを見つめていた。
クールの胸はきりきりと痛んでいた。
抱き上げてもらっているセイ。
ああ、いいな。うらやましい。
でも、自分がそんなことを考えたらだめだ。それはクールには与えられないものだ。
これまでずっとそうだったのだ。大それた望みを持ってはいけない。殴られなかったことを喜んで、それ以上を欲してはいけない。
自分は、望んではいけない。
寂しくて、悲しくて、泣きそうになるのを、クールは必死で堪える。
武器庫番は、泣きそうな顔でチュニックを握りしめる子供の手が微かに震えていることに気づいた。
子供の視線の先にはファリースと、彼に抱き上げられた子供の姿。
合点した武器庫番はひとつ頷いた。
怖い思いをした子供に大人がするべきことはひとつしかない。
武器庫番が口を開こうとしたとき、右手でセイを抱いたまま近づいてきた英雄が、もうひとりの子供の前で片膝を折ってかがんだ。
次の瞬間クールは英雄の左肩に担がれていた。
「わっ!?」
「ちゃんと座れ」
驚いてじたばたするクールに、ファリースは平然と促してくる。
クールは恐る恐る言われたとおりにした。がりがりに痩せたクールが座っても、英雄の広い肩はびくともしない。
「いくぞ」
そのままファリースは歩き出した。
子供たちは呼吸も忘れて目を真ん丸にした。
視界が、高い。何もかもがまるで違って見える。
「…………!」
クールは、こんなふうに誰かに抱き上げられたことなどなかった。
村の子どもたちが父親に抱かれるのを、いつも遠くから眺めていた。
セイは、こんなふうに誰かに抱き上げられたことなどなかった。
老いた祭司にその力はなく、チェンジリングに好きこのんで触れる者などいなかった。
ふたりの前に、初めて見る世界が広がっている。
食堂では、騒ぎを聞きつけた者たちがファリースの許に群がってきて、彼は質問攻めにあった。
それを横目で見ながら、クールとセイは、生まれて初めてお腹いっぱいになるまで食べた。
神殿の居候だったクールは、いつもほんの僅かな食事しか与えられず。
神殿で育てられたセイは、いつも老祭司とひとり分の食事をふたりで分けていたので。
食事のあと部屋に戻ると、寝具が一組届いていた。枕はふたつある。
それを見たファリースは、深々と嘆息した。
「……着替えやらなにやらは、どうする気だ、ミルディン…」
ファリースは、自分の部屋着を二枚持ってきて、子どもたちに渡した。
「とりあえず、これを寝巻き代わりにしておけ。あとのことは明日にする」
五つの子どもたちに、エリン最強の騎士の服は、どうしようもないほどぶかぶかだった。
風呂の使い方を教わって髪と体を洗ったふたりは、ぶかぶかの服を着てベッドに入った。
ここにくるまでの月日が、頭の中を駆け抜けていく。
セイが口元を奇妙にゆがめる。クールが目に涙を浮かべている。
柔らかい寝床。大きすぎてぶかぶかの服。
抱き上げてくれた、あたたかくてたくましい腕。
思う。
いいのかも、しれない。
ここにいて、いいのかもしれない。
もしかしたら、ここが、ずっとほしかったものなのかも、しれない。
騎士になって、自分の居場所を作る。
そのために、ふたりは空の砦に来た。
けれども。
その日ふたりは、ずっとずっと焦がれていた居場所を、騎士になる前に得た。
それは、暁の誓約を彼らが心に刻む、ちょうど一年前のことだった。
ずっと焦がれていた場所を 了
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