第12話 隠し事

「大変だね。ディルさんたちも、女神様に祈ればいいのに」

 膝の上に肘をついて、クロミオは瞳をすがめる。当然と言わんばかりの言動に、彼女は閉口した。

 彼がこんなにすんなりと女神の話を口にするとは思わなかった。それはニーミナの人間にとっては、秘すべき大切な存在なのだと思っていた。

「信仰心のない、私たちのような人間が、祈ることに意味はあるのですか?」

 尋ねたいことならいくらでもあるのに、彼女が問うたのは女神に関するものだった。

 ニーミナに滞在していた頃から不思議に思っていた。あの教会は「誰も拒絶しない」場所なのだという。だから、各国の使者や旅人を泊めることもいとわないのだと。長らく他国を拒んでいた国とは、とてもではないが思えない。

「女神様を侮らないで欲しいな。信じてくれる人だけを救うのは、女神様の思いとは真逆だね。女神様はこの星の、この世界の未来をいつも思ってくれている」

 口調とは裏腹に、クロミオの声はいつになく優しかった。嘘を吐いているようには感じられなかった。彼はおそらく、今までで一番真摯に彼女と向き合ってくれている。

「女神様の思いに寄り添おうとするのが僕らの姿勢さ。女神様は自国だの他国だの、この星だの外の星だの、そういうことは気にしない。世界全体を愛してくれている」

 彼女は相槌を打つ。それが彼らの国教――ウィスタリア教の主たる教えだろうか。禁忌の力に手を出そうとしているという噂からは想像できぬ、穏やかな主張だ。

「そういう意味では、ディルさんが祈るも祈らないも、女神様には関係ないんだ」

 頬に手を当てたクロミオは、少しだけ意地悪く笑った。彼女は頭を傾ける。角灯の明かりが大きく揺れて、テントに焼き付く彼の影が揺らいだ。

「それに女神様はとても優しいんだ。僕らは女神様にとって子どもみたいなものでもあるから、僕らがうっかり大きな間違いをしそうになると、女神様は力を使ってしまう。でもそれは世界の寿命を縮めてしまう。だから僕たちは、女神様に心配をかけないように気をつけなきゃいけない」

 聞いているうちに、どんどんと話が膨らんでいくような気がした。そして彼の語る女神というのが、どうにも人間くさく思えてくる。

「だから僕は僕の力で幸せにならないといけない。女神様の心を思いながら。これが僕らの教えさ」

 肩をすくめた彼は、ついで満面の笑みでこちらを見た。そして左手を前につくと、ずいと身を乗り出してくる。

「これ、半分は僕の解釈ね。ウィスタリア教は、女神様の思いと願いを解釈しようとするものなんだ。でもほら、僕は女神様に直接会ったから、かなりいい線いってると思うよ?」

 まるで褒められるのを待つ子どものように、爛々とした目でこちらを見られると、彼女は言葉に詰まった。こうなってしまうと、どこまでが本当の教義なのかも判然としない。やはり彼は捉え所がない。

「どうしてそこまで話してくれるんですか?」

 かろうじて返すことができたのはそんな疑問だ。彼女は傍に置いた革袋をそっと撫でる。

「そりゃあもちろん、婚約者には話しておかないと」

「それ、本気ですか? この現状を見ても、まだそのつもりなんですか?」

 つい彼女は眉根を寄せた。大国ジブルから嫌疑を掛けられている国の人間を、婚約者とすることに利点があるとは思えなかった。少なくとも状況が落ち着くまでは様子を見たくなるのが普通の心境だろう。

 彼はまだ十三歳なのだから、ここで急ぐ理由もない。

「ディルさんまだ疑ってるの!? ひどいなぁ。こんなところまで助けに来たっていうのに」

 すると彼はわかりやすく唇を尖らせる。彼女は曖昧に言葉を濁した。

 彼に助けられたことは事実だが、それを手放しで喜べるほどに幼くもない。シリンタレアを出てからは、全てにおいて裏があるのではと疑ってばかりだ。こういうやりとりにも、少し疲れてきたのかもしれない。

「そのことは、とても感謝しています」

「本当に?」

「クロミオくんは疑り深いですね」

「疑ってるのはディルさんの方でしょ?」

 彼は自らの膝を指先で小気味よく叩く。どきりとする指摘ではあるが、彼女は否定も肯定もしなかった。彼の口調に、責めている色はない。

「まあ、今はディルさんもそれくらいの方がいいんだろうけどね。シリンタレア、結構難しい立場みたいだよ」

 彼はおもむろに視線を外すと、テントの天井を見上げた。

「それはどういうことですか?」

「僕も詳しいことは知らない。ディルさんが発った日の朝、ジブルの使者が来たって言ったでしょ? それがガウーダさんだったんだ。なかなか本題に入らずにのらりくらりとかわし続けるから変に思ってたんだけど、どうやらディルさんがまだニーミナにいるかどうかを聞き出したかったみたい」

 そう告げられて、彼女の背筋は冷えた。それでは本当に危なかったのか? いや、あの時ニーミナで捕まっていれば、ボッディに怪我を負わせることなくすんだ。そう考えれば、逃がしてもらったこと自体が間違っていたのか。

「たぶん僕のことを疑ってたんだ。僕がナイダートに荷担していないかどうか、慎重に確かめてたんだ」

 しかし彼女の予想とは別の方向へと話が進んでいく。あっけらかんとした面持ちの彼を、彼女は呆然と見つめた。自分が探られていたというのに、全く意に介していない。

「クロミオくんは、信用されていないの?」

「そりゃあ、何度かガウーダさんを出し抜いてるからね。でも僕はナイダートの内情はさっぱり知らなかったから、それで裏切ってはいないと判断してくれたみたいだよ。ただディルさんを逃がしたかったって言ったら、すんなり信じてくれた。あの感じ、ガウーダさんも過去に年上の人を好きになってたね。絶対。心当たりあるみたいな顔してた」

 彼の流暢な語りに、彼女はどんな表情をすべきかわからなくなる。囚われの身で、ここが荒れ地のテントの中だということを、時折忘れそうになる。

 まさかジブルの使者も、こんな予測を立てられているとは思いもしないだろう。

「でもガウーダさんはシリンタレアを疑ってる。いや、シリンタレアの上層部かな。突然使者を他国に何人も送り込んだのは、小国をそそのかして何かしでかそうとしてるんじゃないかって話してた」

「そんな……!」

 変わらぬ軽い口調のままとんでもない疑惑を口にされ、彼女はわずかに身を乗り出した。その拍子に左足が痛んで慌てる。どうしてもいつもの調子で動いてしまう。安静にしているというのは案外難しい。

「うん、できるわけないよね。そんな意気地のある国なんてどこにもないよ。たぶん、それはジブルもわかってるんだと思うよ。だから建前としての理由。本当は別の何かを疑ってるんでしょ。決定的な証拠がないだけで、ほとんど確信しているのかもしれない」

 少しだけ声を潜めた彼は、悪戯っぽく笑った。口元に人差し指を当てる仕草は、どことなく艶めいて見えた。あらゆる人間の目を奪うような、美少年の微笑だ。彼の場合は、どう見えるか自覚しつつあえてそうしているから厄介だ。

「もちろん、これはただの僕の予測。そして叔母様の」

 彼の黒々とした双眸がじっと彼女を見据えた。あらゆるものを見透かしてしまうような不思議な瞳だ。底の知れぬ、あらゆる色を含んだような深い瞳。

「でもね、ディルさん。気をつけて。ガウーダさんは、ディルさんがその証拠に繋がる物を持ってたんじゃないかって考えてる」

 黙していると、彼の唇が緩やかに弧を描いた。彼女の頭は、彼の言葉を素直に理解できなかった。素通りした単語をもう一度拾い集め、組み立て、そうしてようやく衝撃を受ける。

「……え?」

 それではあのガウーダという使者は、彼女が何らかの証拠を持っていると疑念を抱いているのか?

 しかし先ほどの言動からは、そのような印象は受けなかった。本気でそう考えているなら、手枷も足枷もなく放置したりしないだろう。

「ディルさんが犯人だと思ってるとか、そういう話じゃないよ。ほら、知らないうちに危険物を運ばせられていた人とかいるでしょう? そんな感じで、シリンタレアの上層部が、ディルさんに一時的に何かを預けたんじゃないかって考えてたみたいなんだ。――ナイダートが動いたからね」

 彼女は固唾を呑む。鼓動の音がどんどんと強くなるような錯覚に陥った。何故ナイダートの人間に襲われたのか。どうしてジブルが動き出したのか。理解できなかったが、濡れ衣で狙われたということなのか?

「そんな」

「正確に言えば、ナイダートが動いたからジブルも探りに来たって感じなのかもね。ナイダートに何かが渡るのだけは阻止したかったんでしょ。ディルさんの荷物も、僕が用意したものだから、一応信じてくれたみたいだよ。まあ、信じた振りかもしれないけど。少なくとも表向きは疑えなくなったってところかなー」

 彼女は目眩を覚えつつ、革袋へと視線を転じた。

 彼女がシリンタレアから持ち込んだ物のほとんどは、ニーミナに辿り着く頃には使い物にならなくなっていた。それだけの旅路であった。かろうじて残っていたのは、包帯などの応急処置に使う物くらいだ。

 だからクロミオが代わりに帰りの荷を用意してくれたのだが――それがまさか、こんなところで意味をなすとは。

「ディルさんが必死に荷物を守ってたから、なお怪しんだのかもね。でもニーミナのものは特徴的だから、わかる人にはわかるんだよ。ほらほらディルさん、僕に感謝したくなってきたでしょう?」

 再び胸を張ったクロミオは、期待に瞳を輝かせた。こういう時は年相応に見えるのだから、彼女は困惑する。この差異が罠なのではないかと勘ぐってしまう。そうでなくとも、子どもには弱い。

「もちろん、感謝していますよ」

 彼女はゆっくりと繰り返した。頷いた彼は膝を詰めてくる。角灯の明かりがまた大きく揺らぎ、彼の口元を強く照らし出した。

「この本のことは、誰にも話していないの?」

 まるで内緒話でもするかのように、期待のこもった声が空気を震わせた。試されているような心地がした。彼女は静かに首を縦に振る。

「そっか。だからかもね。隠し事がある人はみんな怪しく見えるものさ。隠し事の大きさは関係ない」

 含みのある言葉が、じわりと彼女の胸に広がった。経験と実感に裏打ちされた教訓のようだった。それを十三歳の少年が口にしたという苦々しさに、胸の奥がざわつく。

「でもディルさんが大事にしてくれて嬉しいよ。これ、結構危ういものだからさ。あんまり中を見られたくないんだよね」

 さらに彼は身を寄せてきた。ろくに動けない彼女は、わずかに背を逸らすことしかできなかった。

 この少年に間近から顔をのぞき込まれるのは、何となく居心地が悪い。それにぞわぞわと肌を這うような罪悪感も生じた。少年をたぶらかしたなどと、別の方向で責め立てられるのも避けたいところだ。

「この本はニーミナに保管されていたんですか?」

「違うよ、留学先でもらったものの一つなんだ」

 秘密を共有する悪戯っ子のような眼差しで、それでいて色めいた声で続けられる話は、ぞくりと彼女の内で警鐘を鳴らした。思わず革袋に触れる。

 彼に留学経験があるというのは初耳だった。大体、ニーミナは五年ほど前までは他国と国交を持っていなかった。その後主にやりとりをするようになったのは二大国だ。だがあの本が大国よりもたらされたとは思えない。

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