第9話 ナイダートの罠

 左手に目を向けると、傾いた塔のような遺跡が見えた。あれは本来どのような役割を果たしていたのだろう? 文献でわかる範囲では、背の高い建物というのはさほど多くはなかった。

 傾いた塔も通り過ぎると、今度は四角い箱のような何かがうっすら見えてきた。逆に当たり障りのない形であるため、機能が予測しづらい類だ。それでもこの時代まで残っているくらいだから、頑丈に作られている方だろう。

 そこまで考えたところで、彼女ははたと気がつく。四角い遺跡がぼんやりして見えるのは何故なのか?

 辺りへと視線を彷徨わせているうちに、吹き付ける風に雨の匂いが混じっていることにも気づく。いや、この雨は空から降るものではない。

「霧だ」

 サグメンタートのこぼした声が、湿った空気に染み込んだ。彼女はさらに目を凝らす。遺跡がかすんで見えるのは霧のためなのか。珍しい。冷え込みのせいだろうか? この辺りには川も湖もなかったはずだ。

「まずいね、遺跡が弄られてるかもしれない」

 前を行くボッディが舌打ちするのが聞こえた。想定外の言葉に、彼女は瞠目する。では遺跡がこの霧を発生させたのか? そんなことが可能なのか? 動かないからこその遺跡のはずだ。

「遺跡を? そんなことがあり得るんですか?」

「たとえば、偶然獣が発動させてしまうことがある。人の手の届かないところにある何かに触れてね。あいつら、ねぐらにしていることも多いから」

 声を潜めながらもボッディは端的に説明した。それが本当だとしても、遺跡の効果で天候まで変えてしまうというのか? 信じがたかった。

 つくづく、先人たちはどうしてその技術を手放してしまったのかと嘆きたくなる。

「だから獣たちが騒がしい夜は要注意だ」

 ボッディの忠告に、サグメンタートも頷いた。もし先達がいなければ、この霧だけで彼女たちはもっと狼狽えていたことだろう。

 彼女はもう一度辺りを見回した。背負われたままなので、足下を気にしなくてもよい分、観察に集中できる。

 肌を撫でる風は湿っていく一方だが、まだこの辺りの霧はさほど濃くはない。だが先ほどよりも、四角い遺跡の輪郭がぼやけていた。

 ここらが白い霧に覆われるのも時間の問題だ。頼りない月光だけでは、いずれ足下を確認するのも困難になる。

 それはそれとして、この霧からはどこか全体として奇妙な印象を受けた。自然に発生したものではないからか? うまく説明できない違和感に首を傾げつつ、彼女は前方へと双眸を向ける。

 予感が形となって現れたのは、それから幾ばくもしないうちだった。

 まず聞こえたのは遠吠えだった。低く太い声が、辺りへとかすかに響く。先を行くボッディが足を止めると、それに倣ってサグメンタートも立ち止まった。彼女は視線を巡らせる。

 気のせいか風も騒がしかった。巻き上げられた土埃が、たゆたう靄に混じってますます空気を濁らせた。

「ボッディさん」

 サグメンタートが遠慮がちに声をかけるも、ボッディは振り返らなかった。ボッディの纏う空気がぴんと張り詰める。微動だにしていない。そんな中、黒い外套の揺れる様だけが、時が流れていることを伝えてきた。

「伏せろ!」

 ボッディが叫ぶのと、どこかで火花が散るような音がしたのは、ほぼ同時だった。

 その警告に、サグメンタートはすぐに従おうとした。だが彼女を背負ったままでは思うようには動けなかったらしい。うずくまろうとした途端に、勢いを殺しきれずに体勢を崩す。彼女はそのまま彼の背から投げ出された。

 体が傾ぐ感覚に慌てるも、再び乾いた音が響き渡り、息が止まりそうになった。手で体を支えることも叶わず、地面を転がる。土の匂いが彼女の鼻腔いっぱいに広がった。

 右手を伸ばし、大地に指を突き立てる。そこでようやく彼女は目を開けた。

 すぐに上体を起こしたかったが、背負った革袋の重さがそれを阻んだ。仕方なく膝を曲げた途端に、左足が痛む。彼女は顔を歪めた。汗のせいなのか靄のせいなのか、頬へと張り付いた髪が煩わしい。

「待ち伏せだ。はめられたっ」

 右腕に力を込めてかろうじて頭を上げると、片膝をついたボッディが腰から何かを取り出すのが見えた。金属と金属が触れ合う時特有の、冷たく硬い音がする。

 また遺産か? しかし先ほど手にしていた銃よりも大きい。

「サグさん、ディルさんを頼みますぅ!」

 遺産を構えたボッディは、独特の発音で声を張り上げた。翻った黒い外套の下で、何かがちらりと光る。

 続けてまた獣の遠吠えが聞こえた。先ほどよりも近いし、どうも複数いる。彼女は周囲を見回した。心臓の鼓動が高鳴る。両肘に力をかけてどうにか体を起こすと、また左足に痛みが走った。

 深呼吸した次の瞬間、獣の声とは逆方向から、地を蹴る靴音が聞こえた。これは頑丈なブーツが土を踏む時の音に似ている。何度か大国ジブルで耳にした。

 まさかこの霧に紛れて追っ手が迫ってきた? 獣は囮だった? 彼女は悲鳴を上げたい気持ちで唇をわななかせた。こんなに空気は湿っているのに、口の中は乾いていく一方だ。

 一体何が起こっているのだろう。無事にシリンタレアに戻る自信が、どんどんと小さくなっていく。胸の内に巣くっていた漠然とした不安が、絶望感に染め上げられていった。

「伏せろ馬鹿っ」

 途端、ぐいと頭を押し下げられた。この声はサグメンタートだ。そのまま覆い被さるように組み伏せられ、冷たい土の上を額が滑る。彼女は慌てて目を瞑った。

 今度は先ほどよりも大きく、それでいて奇妙に乾いた音が、頭上の靄を裂いていった。まさか誰かが銃を使用したのか? それとも他の遺産か? 反響しているせいなのか、音の出所がうまく掴めない。

 指で土を掻いたところで、何かが腐ったような、それでいてどこか甘い匂いが鼻先をついた。彼女は眉をひそめる。そういった香りを放つ植物が自生しているわけがない。つまりこれは人為的なものだ。

「薬だ! 何か撒いてやがる!」

 上から切羽詰まったサグメンタートの声が降り注いだ。やはりそうか、これは薬だ。いや、この場合は毒という表現の方が正しいだろうか。先ほどの音は、何かを散布する際のものだったのかもしれない。

 ではこれはシリンタレアの人間の仕業なのか? 一瞬そう考えたが、決めつけるのはまだ早い。シリンタレアは二大国に一定の薬剤を提供している。

 そもそも幸か不幸か、薬を撒くような機能を持った遺産を、シリンタレアは有していなかった。そういうものは全て大国に奪われている。

「結構濃いな。ディルアローハ、息するなよ」

「無茶を言わないでください」

 サグメンタートの舌打ちに、彼女はますます顔を歪めた。わずかに吸っただけでも効果が出るものかどうかは、推し量る術もない。

 しかもこの霧がさらに事態を複雑にしている。これではどれだけの範囲に広がっているのか見当もつかなかった。

 まさかこの霧も策略の一環なのか。たとえば獣を使役することで、人間の手ではいじれない遺産を発動させた?

 疑問がぐるぐると巡る。思考はどこまでも悪い方悪い方へと流されていく。それにボッディのことも気にかかった。彼は薬に気づいているだろうか?

 確認したくとも、サグメンタートに押さえつけられたままでは周囲を見回すことも困難だ。

 しかし予想できることもある。きっと相手はこちらに近づいてきている。即効性の毒を撒いていないのなら、狙いは生け捕りだろう。

「おっと、それ以上近づくな!」

 案の定、土を蹴る複数の足音がした。同時にボッディが声を張り上げた。その叫びに混じり、かすかな金属音が彼女の鼓膜を震わせる。遺産を構えたのだろうか?

「その羽織、ナイダートだな?」

 白く煙る向こう側で、靴音がぴたりと止んだ。ボッディが口にしたのは、二大国の内の一方の名だった。身に纏う物に各国特徴があるのは確かだが、羽織だけで区別できるのかは疑問だ。少なくとも相当の知識が必要だろう。

 たとえばシリンタレアのような小国は、普段は安い生地の衣服しか身につけない。特に医術師や薬術師は何の拍子に服を傷めるかわからないので、繊細な布地のものはまず選ばなかった。着心地の悪さには目を瞑り、丈夫さだけを優先するのが普通だ。

 だが大国なら選択肢は多いはず。

「ナイダートの先鋭さんが、何の用かね?」

 ボッディはさらに問いかけた。それでも男たちは無言だった。彼女は意を決すると、サグメンタートの腕の隙間からかろうじて辺りをうかがう。

 ――見えた。白い霧でぼやけてはいるが、黒ずくめの男たちがたたずんでいる。おそらく十人ほどはいる。

 特徴的な黒帽子に、奇怪な形のマスクを装着している。そしてボッディが指摘した羽織というのは、あの左右非対称の外套のことだろうか。確かに見慣れないし特徴的だ。

「こんなところで悪さしたら、ジブルが黙ってないと思いますがね」

 遺産らしきものを構えたボッディは、いつでもそれを撃つ準備はできているようだった。それでも男たちは動じる素振りもなく、黙したままだ。

 もしかすると、気密性の高いマスクのせいかもしれない。薬を撒いたのであれば、それなりの準備をしてきているはずだ。

「ボッディさん、それ以上喋るな。毒が撒かれてる!」

 肌をちりちりと刺すような緊迫感の中、腹を決めたサグメンタートの忠告が空気を揺るがした。こちらを注目させてしまうのが難点だが、このままボッディが話し続けるのもまずい。

 ボッディは弾かれたようにこちらを見た。しかしその隙を、相手が見逃すはずもなかった。

「ボッディさん後ろ!」

 彼女はどうにか声を上げた。黒ずくめの一人が地を蹴るのが、彼女の目でもはっきり捉えられた。はっとしたボッディが後退るも、遅い。その胴目掛けて何かが放たれる。

 今度はサグメンタートがボッディの名を呼んだ。鈍く光るものが、ボッディの体に突き刺さった。

「あぁ」と悲鳴になりきらない声が、彼女の唇からこぼれ落ちる。ナイフだろうか? 毒か何かが仕込まれていれば、もう終わりだ。

 ボッディの体はそのまま地に落ち、跳ねる。重たげな金属音が鳴った。

 途端にそれまで動かなかった男たちが、こちらを悠然と見遣った。彼女は強く唇を噛む。まともに動けない彼女に、戦闘経験のないサグメンタートでは、どうしたところで勝機がない。

 ならばここはおとなしくしていた方がよいのか? 少なくとも抵抗を諦める振りは必要か。

「くそっ」

 サグメンタートが小さく毒づく。それでも彼女の上から退くつもりはなさそうだ。

 ざりっと、砂を踏む音がした。覚悟した彼女は視線を上げた。

 何故大国に狙われているのかはわからないが、せめてボッディやサグメンタートだけは助けてもらうよう懇願しなければ。相手がこちらを今すぐ殺すつもりがないなら、付け入る隙はある。

 黒ずくめの男たちのうち、大柄な男の足が真っ直ぐこちらへと近づいてくる。彼に指揮権があるのだろうか? マスクのせいで顔はよく見えない。表情もわからなかった。

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